OCEANS’s PEOPLE ―第二の人生を歩む男たち―
人生の道筋は1本ではない。志半ばで挫折したり、やりたいことを見つけたり。
『365日』は、東京都渋谷区の私鉄沿線にある人気のパン屋さん。特筆すべきは「世界一である」という点だ。ギネスブックには載っていない。だが店主の杉窪章匡はサラリと言う。「僕のルールでは世界一です」。
ニコニコしている。『365日』が開かれたのは、20年以上菓子職人の修行を経た店主40歳のときなのであった。

「365日」というパン屋さんについて
「365日」は小ぢんまりとした店だ。最寄りは東京メトロ代々木公園駅と小田急代々木八幡駅。原宿駅からも新宿駅からも約5分という立地の住宅街にある。引き戸を開くと、正面にコの字型のカウンター。
パティシェとして活躍し、フランスでも修行を積んだ杉窪さんが、キャリア20数年目にしてパン屋さんを開いたいきさつはのちに記すとして、まず「365日」とパンについてお伝えしたい。

上段左のパンは「365×食ぱん」。北海道産の「ゆめちから」と福岡産の「みなみの穂(かおり)」、2種類の小麦粉をブレンドし、水で仕込んだ食パン。北海道産の小麦粉の甘みを生かしながら、パンとしてのまとまりを意識して福岡産と1:1で混合してある。これ以外に「北海道×食ぱん」「福岡×食ぱん」があり、前者は北海道産の小麦粉に北海道産のバターと牛乳を合わせたリッチな味わい。後者は福岡産の小麦粉に福岡産の生クリームで作る山型のハードトースト系。
ちなみに上段右は「セイグル30」。ライ麦粉を30%入れた、ほのかに酸味がありサンドウィッチにぴったりのパン。ライ麦の含有パーセンテージを変え、軽めのチーズに合うように仕上げた「セイグル40」や熟成したチーズと赤ワインにマリアージュする「セイグル70」なども作っている。
実はここで売られているパンたちは、日本で広く採用されている“正しいパンの作り方”には則っていない。
「それは、パンをおいしく焼く方法じゃなくて、失敗せずに焼く方法だから」。
日本に広く伝わっているパンづくりの方法は、「しっかりこねてしっかり発酵させて粘り気を出し、大きく膨らませること」が重視されているのだという。それは、杉窪さんの見立てでは、戦後、日本にパン作りが広まったときの「大きくて見栄えのいいパンを焼く」という価値観がそのまんま残っているのではないか、と。
杉窪さんは、国産の小麦粉だけを使ってパンを作る。味や香りに個性があり、生産者の顔が見え、農薬の面などでも安全だからだ。だが、旧来の日本のパンづくりの方法は、小麦粉の味を殺してしまうものだった。しっかり発酵させると小麦粉のデンプンが変質して甘味が減り、大きく膨らむことで味は薄まる。粘りが出て、邪魔な歯ごたえが生まれてしまう。
目指したのは「新鮮・フレッシュ」で「素材の味を活かした」パン。食べ物の業界では非常によく耳にするコンセプトだが、実は、ことパンの世界においては稀だ。
杉窪さんのパン作りにおける考え方
「パンづくりとはこういうものである」という公式があって、そのとおりにやればそれでよし、ということではなく、いちいち「なぜそうなっているのか」を確認しなければ納得できない。
理想に到達するために、問題をいかに解決するかを考える。自ら試して答えを導き出す。常識を鵜呑みにしない。
例えば、通常パン屋さんが小麦粉の特徴を知るための数字として「蛋白値」と「灰分値」というものが明示されている。プロならそれを見れば、おおよそどんなタイプの小麦粉かはわかる。だが杉窪さんは絶対味見をする。曰く、「小麦粉は農作物だから」。収穫時期や天候など、小麦自体の生育コンディションによって仕上がりは左右されるから。実際に味を試してみないとわからない。

粘りを出しすぎず、スッと噛み切れるよう、生地には水をたっぷり含ませている。理想の食感のために必要な手法だが、そのため生地が柔らかくて安定しない。
ここのパン、衝撃である。キャラクターの違う3種の食パンを食べ比べるのも楽しいが、身震いするほど美味かったのは皿上部の丸い「ソンプルサン」。まあとにかくモチモチ。割ろうとして手に持つと、そこでもう指が皮に食い込む。そして「割れない」。ちぎるというか引き裂くような感触。そしてとにかく柔らかくしっとりしながらも、スッキリと噛み切れる。噛み締めれば小麦の味が広がる。
翌日の朝食用に購入したのだが、当日の試食で完食。3日後に「おかわり」を買いに行った。
なお、ここまでの「365日」のパン知識、杉窪さんの本の受け売りである。
焼き型のサイズは幅5cm×長さ14cm×高さ6cm。
都市部の住宅街の3人家族を想定し、食べ残して保存するのではなく、買って即フレッシュなまま食べ切ってもらおうという狙いだという。また、それぞれのパンが小ぶりだからさまざまな種類を楽しむこともできる。
職人とは何か

「365日」は2013年にオープンした。2016年には、同じ代々木公園エリアにカフェ「15℃」をオープン。2018年5月には新宿京王百貨店に「ジュウニブンベーカリー」という新業態の店舗を展開。9月には日本橋高島屋に「365日と日本橋」を出店する。
「365日」には日々、約60種類のパンが並ぶ。また旬に応じて種類も変わる。事務所のホワイトボードにはさまざまなパンの形が描かれていた。
そうたずねると、杉窪さんは首を振った。
「“このパン出したい”みたいな感情って、僕にはないんです。一生使わなくていい技術はあっていいと思って修行してきました。例えば1000パターンぐらいレシピを持っているとしても、100出せればいいだろうと思ってやってきているんですね」。
ええと……。まごついていると杉窪さん「あ、伝わってないな」って顔をしてニヤッとした。
「つまり自分のために仕事はしてないということなんです。“~したい”っていうのは自分の欲求を満たすことですよね? そう思ってる人って多いと思うんですけど、それって仕事じゃなくて趣味なんですよ。“せっかく習得したんだから、この技術を使いたい”とか、“こんなパンを思いついたから食べさせたい”って思うのは趣味の領域。一流の職人の姿勢ではないです」。
お客さんに喜んでもらうこと。例えば1000パターンのパンのレシピは脳内にある。代々木公園の「365日」では、そのなかから何を使えばお客さんに喜んでもらえるか。新宿というターミナル駅の京王百貨店内のショップでは、どんなパンが受け入れられるか。
「これは場所が決まってる場合の考え方ですよね。もちろん逆の場合もあります。あらかじめ商品があって、それはどこで売ったらお客さんに喜んでもらえるか」。
修行の成果を押し付けるような職員は三流だと杉窪さんは言う。なんとなくそんなタイプの職人は多い気がする。手にした技術を全力で開陳したい。自分の流儀をお客に主張するガンコな人を我々はよく「職人気質」とか呼んだりする。
そういう人が何かをきっかけに、杉窪さんの定義する職人になれるのか。あるいは根本的な問題なのか。果たして杉窪さんは「育ちなんですよ」と答えた。
「根本的な考え方の違いです。そもそも修行を始める段階から、どんなふうに思ってその世界に入ってきているかで、明らかに違いが出ると思います……いや、もっというなら家庭環境からじゃないかな。どういうしつけを受けてきて、どういうふうに育ってきたかで職人の資質は決まると思います」。
杉窪章匡の祖父は、父方・母方とも輪島塗りの職人だったという。
「祖母が亡くなったとき、僕はお菓子の勉強をしていたんですが、“お前は修行の身だから帰ってこなくていい”と言われるような家でした。あと父親が『365日』のオープンして1カ月後ぐらいで亡くなって。もちろん帰るじゃないですか。そしたら父方の兄弟たちが“お店をオープンしたばかりでこんなところにいていいのか!?”って。結局帰されて、僕、父の通夜と葬式出てないんですよ。それがいい悪いという話じゃなくて、一族がそういう考えだったんですよ」。
そういう「育ち」なのである。
【Profile】
杉窪章匡
1972年生まれ。石川県の輪島塗職人の家系に生まれ、毎食10品以上おかずを作る母の元で育つ。高校中退後、16歳で辻調理師専門学校に学び、パティシェとしてキャリアを積む。24歳でシェフとなり、27歳のとき渡仏。2年間の修行を経て帰国後、パティスリーを立ち上げ、人気ブーランジュのシェフを担当。40歳で独立し、株式会社ウルトラキッチンを興す。愛知、福岡、神奈川でパン屋をプロデュース後、2013年に直営店「365日」を開業。2016年にカフェ「15℃」をオープン。2018年には「ジュウニブンベーカリー」と「365日と日本橋」をオープン。
稲田 平=撮影 武田篤典=取材・文