パトリックがディアスポラ スケートボーズとのコラボレーション・モデル第三弾をリリースする。

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ディアスポラ スケートボーズはスケーターなら知らぬ人はいない日本を代表するブランドだ。

パトリックは彼らのリクエストを受けて、名作「リバプール」をスケートボードシューズ仕様にアップデートした。

その勘どころは守備能力を高めたコンストラクションにある。

クッションをかませたトップライン、厚く長く採ったベロ、やはり長めに設計されたオーリーガード(つま先の補強パーツ)、そしてホールド力の高いカップインソール――。一方でラバーソールは可能な限り薄くしている。これはデッキへの食いつきに重きを置いた結果である。

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場

「リバプール」は“将軍”の異名をとったフランス代表のサッカー選手、ミシェル・プラティニがトレーニングに履いたスニーカーで、かつては「プラティニ トレーナー」と呼ばれていた。

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場
右のモデルが「プラティニ トレーナー」のオリジン。

ディアスポラ スケートボーズの面々はサッカー好きだそうだから、彼らの意見も大いに反映されているだろうが、このコラボレーションからはパトリックのルーツへのオマージュが感じられる。なぜなら、パトリックはヨーロッパのサッカー界では抜群の知名度を誇ったブランドであり、「リバプール」はその起爆剤となったモデルだからである。

アウトソールも素通りできない。そのトレッドパターンはデンマーク代表のラウドルップ兄弟が履いたモデル、「ラウドルップ プロ」に搭載されたものが忠実に再現されている。

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場
上のモデルが「ラウドルップ プロ」のオリジン。トレッドパターンが寸分違わず再現されているのがわかる。


スタープレーヤーが秋波を送った

パトリックは1892年、西フランスのプゾージュという小さな村でパトリス・マリーが息子たちとともに立ち上げた工房がそのルーツだ。農業用の履物を生業とした工房は地元の人々に愛され、たちまち30人ほどの職人を抱える規模に成長した。

パトリックの歴史が大きく動き出すのは1931年。

立役者は病に倒れたパトリスに代わって指揮を執った二代目のベネトーだ。ベネトーはその年にサッカースパイクのピン位置に関する論文を発表し、商工省から“Invention Certificate(発明証) ”を与えられた。

サッカースパイクを手がけた真相はいまとなっては藪のなかだが、史実を振り返ればおおよそ次のようなストーリーを描くことはできる。

ベネトーが論文を書き上げる前年、1930年はあのFIFAワールドカップがはじめて開催された年だった。国境を超えて盛り上がりをみせていたこのあらたなムーブメントに大いに刺激を受けただろうことは想像に難くない。ベネトーは休みの日には体を動かすことが大好きなスポーツマンで、なかでもサッカーはお気に入りのスポーツだったというからなおさらだ。そうしてかねて不満に感じていたピンの改善点をまとめたのではないか。

確かなことは、ベネトーは研究熱心な性分だったということだ。軽量で安全なアルミ素材のピンをつくったのもベネトーなら(それまでは鉄だった)、深い芝、硬い芝、濡れた芝、人工芝などグラウンドの状態に応じたソールをいち早く考案したのもベネトーだった。

パトリックのアイコンである2本ラインの採用も早かった。それは激しい動きにも耐えうる強靭さを求めたもので、初出は1930年代のことといわれている。

念のために解説すれば、名だたるブランドの同種の意匠の誕生は次のとおりである。

スリーストライプス(アディダス):1949年、フォームストライプ(プーマ):1958年、アシックスストライプ:1966年、スウォッシュ(ナイキ):1971年、サイドストライプ(ヴァンズ):1978年、ベクターロゴ(リーボック):1986年。

スタープレーヤーはフランスの片田舎のこの工房を放っておかなかった。

とっかかりはバロンドールを2回受賞したケビン・キーガン。ケビンが履いたことで、パトリックはイギリスにその存在を知られることになる。ほどなくミシェル・プラティニ、ラウドルップ兄弟、ピエール・パパンがワールドワイドなブランドに押し上げた。

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場
左がミシェル・プラティニで、右下がラウドルップ兄弟の兄、ミカエル。

プラティニはパトリックと契約するためにヘリでブゾージュを訪れた。おらが村にスターがやってきたとあたり一帯は蜂の巣をつついたような騒ぎになったという。

プラティニにはアディダスも目をつけていた。アディダスはパトリックの倍の契約金を提示したが、首を縦に振らなかったそうだ。ユベントスに移籍したばかりのプラティニはフランスのサッカーファンに裏切り者と思われていた。フランス生まれのパトリックと契約を結ぶことは金には代えられない意味をもっていたというわけだ。

しかし理由はそれだけではなかった。

プラティニはのちにこんなコメントを残している。「パトリックは家族経営の会社で、そしてベネトーは職人気質な男だった。そこに好感をもった」と。


フランス生まれ、日本育ち

正式にパトリックの名を冠したのは1950年代半ばのこと。創業者の名を採ったが、英語圏でなじみやすいよう、パトリックと読ませることにした。

順調に商売を広げていったパトリックは、村の人々を積極的に雇い入れた。1960年代には700人の従業員を抱え、フランス国内ナンバーワンのサッカーシューズメーカーにのぼりつめた。ヨーロッパにおけるサッカーシューズの知名度ランキングでは3位にランクインした。

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場
創業当時のフランスの工場。

しかしパトリックのサクセスストーリーはここまでだった。残念ながら現在、フランス本国のパトリックは消滅している。1998年の倒産と同時にその商標権(日本、アジア、オセアニア圏)を買い取ったのが日本のカメイ・プロアクトである。

パトリックが日本上陸を果たしたのは1978年。1990年にはライセンス契約も結んでブランドの顔ともいうべきモデル「マイアミ」をつくった。

カメイ・プロアクトが慧眼だったのは、木型も当時のそれなら、デザインも当時のそれを守り続けている点にある。「マラソン」「ブロンクス」「ネバタ」「アートイス」「スタジアム」……。往年の名作は今なおクリーンナップを務めている。

「パトリックは手を加えることのできない完成されたデザインをかたちにしています。我々はエターナルなデザインにふさわしい新味を追求してきました。それが、色素材のアップデートです。しかしこれもまた、パトリックの伝統なんですけれどね」(竹原健治さん、商品企画セクションサブマネージャー)。

パトリックを象徴する豊富なカラーパレットはフランス時代に確立したデザイン・アプローチだ。きっかけは、ベネトーがアメリカ出張で目にしたナイキ。ヨーロッパにはないカラフルなモデルにベネトーは釘付けになった。それまでサッカーシューズといえば黒と相場は決まっていたが、ベネトーは異なるアプローチをする必要性を感じていたのだ。

「現在の色展開は1モデルにつき1シーズンで5色平均。

カラーパレットのポイントはあくまでフランスならではのシックさ、ポップさがあるかどうかで、トレンドは意識していません。すでに我々が扱うようになって半世紀近い年月が流れていますからね。色出しがブレることはありません。もちろん、『これは前にもあったんじゃないか』ということはありますが(笑)」(竹原さん)。

パトリックは加熱するスニーカーブームなど我関せず、といった趣で一本筋の通ったものづくりを続けている。これが世のスニーカーに飽き足らないエンドユーザーの心を捉えて放さない勝因なのだが、勝因はひとつではない。生産背景もまた、大きなプライオリティである。


仕事を残す日本の老舗が製造を担う

スニーカー業界においてMADE IN JAPANはプレミアムなモデルの代名詞になりつつあるが、パトリックはMADE IN JAPANがデフォルトだ。

その製造を一手に引き受けてきたのは塩谷工業。1927年に創業した姫路の名門老舗である。

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場
現在は日本の老舗、塩谷工業が製造を一手に引き受けている。写真は手仕事を駆使した釣り込みの工程。

スニーカー工場と呼ぶには規模の小さな工場で、いまも手仕事が残されている。釣り込みのプロセスは機械と手のパートが併用される。

リピーターが褒めちぎる吸いつくような履き心地は、このプロセスから生まれる。

パトリックはオールソールをはじめとした種々のリペアにも対応しているが、これも手仕事を守ってきた工場だからできることだろう。

“将軍”が履いたパトリックの名作「リバプール」がスケーター仕様で登場
こちらはグラインダーの工程。

地の利を生かしたレザーを採用しているところもパトリックの強みだ。今回のコラボレーション・モデルはベースのステアレザーが姫路産。やわらかなシボを刻むその風合いは知る人ぞ知る鞣製産業の地、姫路ならではだ。

フランスで生まれたパトリックはここ日本でもうひとつの花を咲かせた。そしてその花はつくっているスニーカーのデザイン同様、“エターナル”に咲き続けるに違いない。

 

竹川 圭=取材・文

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