突然ですが、自宅の階段が何段あるかご存じですか? もしすぐに答えられたら、名探偵の素質ありかもしれません。当然、シャーロック・ホームズは知っています。『ボヘミアの醜聞』の冒頭で、彼は親友のワトスンと暮らす「ベイカー街221B」の部屋までの階段は「17段ある」と即座に答えています。
でもそんな些細なことを覚えているからといって、いったい何の役に立つの? そう思うかもしれません。しかし殺人事件のような難問を解決するためには、階段の段数のような“些細なこと”を知っていることが重要なのだ、とホームズは言うのです。
彼を名探偵たらしめているのは、一を聞いて十を知る驚異の推理力にあると思われています。事件の相談に来た人の話を少し聞いただけで、犯人をズバッと断言する。確かにホームズの推理力は並外れています。
しかし実際に小説を読んでみると、その印象はちょっと違います。むしろ、「僕は当て推量なんてしない。それは恐るべき悪習だ」(『四つの署名』)として、推理力に頼ることを戒めているのです。
ホームズもワトスンも刑事たちも、殺人現場で同じものを見ています。しかし多くの人が自宅の階段が何段あるか知らないように、いろんなヒントを目にしながらも、「これは関係ない」と思い込み、現実をしっかり観察しようとしません。反対にホームズは、「些細なことはすべてが重要だ」と言います。まずは先入観を持たずに、ありのままの現実を観察する。そこから犯人につながる意外な証拠を見つけるのです。
しかし、それは重要なヒントかもしれないと気がつくためには、常日頃からあらゆることに興味を持ち、一見ムダに思える知識も身につけておく必要があります。だからホームズは、タバコの灰の種類、ファッションの流行、ロンドンの地域別の地質の違いなど、何の役に立つか分からないことも徹底的に研究します。
ホームズは教えてくれます。些細なことに興味を持ち、知識として身につけることの大切さを。人を驚かせる発想は、物事を人と違った視点で観察することから生まれるのだと。その教訓は、どんな仕事術よりも普遍的な知恵であり、時代を超えて伝えられるべき、生きていくうえでの「基本(elementary)」なのです。
◆ケトル VOL.29(2016年2月12日発売)