『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう……でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい……ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!? 「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。
学生運動の挫折と冷笑主義
「物事を斜めに見て笑うのがカッコいい」という冷笑的な価値観が80年代以降はびこったのは、60~70年代の学生運動が挫折したことへの反動である、という話を上の世代の人たちからよく聞く。私は学生運動の時代をリアルタイムで体験していない。けれども、学生運動が失敗のみで語られることには違和感があった。成功した学生運動だってあるのに、と思っていたからだ。大学じゃなくて、高校の話だけど。
1989年に入学した県立高校には、校則が一切なかった。管理教育全盛期の公立中学で、壁新聞で管理教育を批判していた私に、担任教師が「お前にぴったりの学校がある」と受験を勧めてきた学校だった。入ってみれば、確かに校則どころか生徒手帳もない。公立中学では日常茶飯事だったいじめを目にすることもなく、部活をサボっても怒られない。生徒と教師は漫画の貸し借りをするほど距離が近く、校則違反や部活のミスプレーひとつで教師の殴る蹴るが当たり前の公立中学とは別世界だった。暴力におびえなくて済む環境はありがたかったが、良妻賢母教育が売りの女子高に進んだ友人から、三つ編みの強制、休日も制服着用といった厳しい校則への愚痴を聞かされると、重苦しい気持ちにもなった。偏差値の違いで、人権が制限されるなんてことがあっていいのだろうか。
自由な学校で級友たちがのびのびと青春を謳歌していたおかげで、一人で本を読み耽っていても放っておいてもらえたのは幸いだったかもしれない。学校の図書室に入り浸っていた私は、ふと学校の歴史をまとめた出版物を手に取った。そこには1970年前後、学生運動の時代に生徒たちが紛争を起こし、生徒手帳と校則が撤廃されたというようなことが記されていた。この自由はエリートの特権ではなく、戦って得たものだったのか。戦ってくれてありがとう、と20個上の先輩たちに感謝しつつ、うらやましいなとも思った。自分も中学時代、一人じゃなくてたくさんの生徒と一緒に反対運動をやって校則撤廃ができていたら、こんな無力感とは無縁でいられただろう。でも、自分の同世代が社会や体制に逆らって運動をする姿は想像がつかなかった。
大切なのはあくまでも友だちや仲間で、結束を強めるために外側にいる他者を笑いものにする。権力に逆らっても無駄だから、斜めに見て笑いとばす。
検索してみると、2015年に母校の高校紛争のリーダーが自伝的小説を自費出版していることを知った。『本牧ベイサイド・ハイスクール 1970年、僕たちはゲバ棒を持たなかった』(菊地亮二、ココデ出版)。エモエモ青春ストーリーが期待できそうなタイトルに惹かれ、取り寄せてみることにした。
なぜ紛争から45年も経って、体験記が世に出たのか。きっかけは、生徒に立ち向かってゲバ棒で負傷したという教師の武勇伝が載せられた校史を高校紛争のメンバーたちが目にしたことにあるらしい。ゲバ棒なんか使ってないのに、と憤慨した一人が、著者に当時の体験を書くよう促した。
予想外だったのは、校則に関する記述がほぼなかったこと。主人公たちグループとは別に、1968年に生徒会が男子生徒の制帽廃止のお願い書を学校に提出し、無帽が黙認されたという話がちらりと出てくるが、主人公たちは無関心だ。だいたい主人公たちは一年次から授業をサボってシンナーを吸ったりしていて、校則に縛られているようすは見えない。校則自体はあったのだろうが、生徒の髪の毛やスカートの長さを監視し、1センチでも違反すれば暴力がふるわれるような80年代的管理教育ではなかったようだ。
ということは、そもそも母校の紛争は、校則撤廃を求めたものではなかったのだ。それなら、彼らが運動に駆り立てられた理由はなんなのか。
母校の学生運動、本当の目的とは?
主人公の木村はもともと文武両道の優等生で、中学時代は規律委員長に選ばれて生徒に校則遵守を呼びかける立場だった。文学を愛する彼は、そんな自分がいたたまれなくなり、高校でキャラ変を試みる。
高校に進学すると優等生、つまり世の中が認めている価値観に身を寄せ、自分だけトクしようとする手合いが少なくなかった。自分の同類は臭いでわかるのだ。
一応進学校ということになっていたからそういう連中が多いのも当然か。自分を変えたくて、自由奔放な人物たちに惹かれていった。そういうわけでぼくは大野、山下、竹中たちと親しくなった。菊池亮二『本牧ベイサイド・ハイスクール 1970年、僕たちはゲバ棒を持たなかった』p62
民主主義を教えながら受験戦争で他者を蹴落とすよう煽る高校に矛盾を感じ、勉強に励む自分を後ろめたく思う進学校の生徒は当時珍しくなかった。木村は社会科学研究部(社研)に入部し、キャラの濃い先輩女子”ゲバルト吉野”らに誘われるがままにベトナム反戦デモに参加するようになる。
「全く馬鹿ね、あんた。でも面白いから許してあげるわ。その代わり今日学校が終わったら有隣堂まで付き合ってくれる?」
「ゲバルト吉野の行く手にはどこだってついて行くさ。(…)」
菊池亮二『本牧ベイサイド・ハイスクール 1970年、僕たちはゲバ棒を持たなかった』p82
木村たちは反戦集会で知り合ったマラルメ好きの美人研究生の家で辻潤やランボーについて語らったり、反戦カンパの最中に管理的な学校に不満を抱えるお嬢様女子校の二人組に声をかけられてどちらとつきあうか迫られたり、刺激的な出会いを重ねていく。現代からは想像もつかないが、反戦活動は後年のクラブやライブハウスのような文化的な若者たちの出会いの場だったようだ。ベトナム戦争に協力して豊かさを享受し、自分たちを受験戦争に追い立てる大人への反発は、高校生を反戦に駆り立てた。『高校紛争1969−1970 「闘争」の歴史と証言』(小林哲夫、中公新書)によれば、高校生による反戦組織のひとつ反戦高校生協議会(反戦高協)のデモは、かっこよさから高校生に大人気だったとある。
女子リーダーは一人だけではなかった。全高連のリーダーだった名門都立高校の女子生徒は、ベトナム戦争への問題意識に加え、女はいくら勉強ができても 子どもを生む道具でしかないという矛盾に突き当たったのが活動家になった理由だと、当時の雑誌に寄稿した手記で語る。
つまり、男は優秀、女は劣等、と初めから烙印を押されているのです。突きつめて考えれば、男だけが社会で働き、女は子どもを生む道具にされてしまう、という未来図までが目の前にはっきり浮かんでくるではありませんか。これではいけない、なんとかしなければ、と悩んだすえ、私は高校生運動にうち込む決心をしたのです。
「私は”闘う全高連”の少女リーダー」『1968〈下〉若者たちの叛乱とその背景』(小熊英二、新曜社)p19
いくらがんばっても現状の社会では「生む道具」でしかないことに絶望した才媛たちが運動を牽引し、エリートコースに乗ることに疑問を抱きはじめた男子たちも運動にのめりこんでいく……という当時の光景が想像できる。
バリケードの中で女子におにぎりを作らせたことから、俗に「おにぎり左翼」と呼ばれることもある大学の学生運動と違い、高校生の運動でガールズパワーが炸裂したのは、進学率も関係しているかもしれない。1969年の時点で(通信制課程を除く)高校進学率は男性79.2%、女性79.5%とほぼ同水準にある。一方で、短大を除く大学進学率は男性24.7%、女性5.8%と大幅な違いがある(https://www.e-stat.go.jp/dbview?sid=0003147040)。『1968〈下〉若者たちの叛乱とその背景』(小熊英二、新曜社)には、長期にわたるバリケード封鎖を実行した都立青山高校で、食事当番を押し付けられた女子生徒たちが「食事がまずい」という男子生徒に腹を立て、「バリの中で人間疎外は許せない」とストライキを起こし、男子生徒たちがしぶしぶ自分で食事を作ったというエピソードが紹介されている。
一方、高校生活動家の急増に危機感を抱いた文部省は、1969年10月に高校生の政治活動を禁止する通知(「高等学校における政治的教養と政治的活動について」)を出す。そのため、学校側はデモ参加者の写真入り名簿を警察に渡すなどの行動をとるようになった。機動隊に目をつけられ、木村たちは自分たちを売った学校への怒りを募らせる。
学校が生徒を管理し抑圧する機構であることの片鱗を見せた。ぼくたちはカツ上げとか盗みとか暴行なんてやってなかった。届け出て許可を得た集会やデモに参加しているだけだった。そういう生徒を警察に売る学校・・・。
菊池亮二『本牧ベイサイド・ハイスクール 1970年、僕たちはゲバ棒を持たなかった』p120
2年生になり、何も変えられない反戦デモに歯がゆさを感じた木村たちは、自分たちの足元、つまり学校の体制を変えようと考える。校内有志でクラス・サークル連合(CCU)を結成し、試験による評価・選別に反対する路線を打ち出した。ここから木村たちの本格的な高校紛争が始まる。校門前でビラを配りながら、木村は教師を挑発する演説をする。
政治活動を禁止することは政治について考えることをも禁止することです。世の中の全てのことがらは嫌でも政治に関係している以上、そんな政策などがあっていいはずがありません。(…)興味のあることを、尊敬できる先生から学びたい。興味の無いことを、人間として尊敬する気にもなれない教師から詰め込まれ、テストで評価されて点数を付けられるなど願い下げではありませんか。
『本牧ベイサイド・ハイスクール 1970年、僕たちはゲバ棒を持たなかった』p139
続いてCCUは、授業で各教科の教師に授業の目的を問いただし、論破する作戦に出た。この活動が功を奏して2年生の支持者が増え、期末試験ボイコットの呼びかけには31人が中庭に集まった。その後、学校側がCCUメンバー7名を含む9名の留年を決めたことで、CCU分断の意図を感じたメンバーは処分撤回闘争を決意する。高校紛争があちこちで起きていた当時においても大量留年措置は異例だったらしく、新聞沙汰になったそうである。
前半は社研や反戦デモで知り合った女の子たちとの甘酸っぱい交流や仲間との政治談議に大きくページが割かれ、活動自体は淡々と描かれているが、処分撤回闘争以降の描写は濃密だ。CCUは仲間を救うために教師を職員室に閉じ込める”逆バリケード封鎖”などさまざまな作戦を実行し、学校側をぎりぎりまで追い詰める。処分を免れたメンバーも涙ながらに校長に処分撤回を訴えたが、要求は認められなかった。本文中には記されていないが、この時期に校則が撤廃されたのは、荒ぶる生徒たちを懐柔するために学校側が提示したアメのようなものだったのだろうか。あるいは、もともと自由な校風の他校は紛争が穏やかに終わっていたことから、これ以上闘争を長引かせないために学校側が先手を打ったのかもしれない。
最終的に闘争は敗北に終わったとはいえ、CCUのメンバーが中庭に座り込みながら中原中也の詩や寺山修司の短歌について語り合う場面は美しく、後半の教師たちとのぶつかりあいも鬼気迫るものがある。だが、その後の展開で感動がスン……と引っ込んでしまったのは否めない。
留年処分を免れた木村は、将来を思い悩んだ挙句受験勉強を再開した。試験を否定したのに受験勉強をするなんて矛盾していないか、と教師に嫌味を言われた木村はこう言い返した。「矛盾なんかしてないよ。俺たちはなあ、その時その時を自分に有利なように生きていくのさ!」。このくだりは当の教師サイドの視点で、紛争のリーダー格の言葉として校史にも掲載されている(『高校紛争1969−1970 「闘争」の歴史と証言』)。主人公の視点で読めば、木村は自分のずるさを自覚しており、この言葉は教師に言い負かされたくない一心で放たれた露悪的な強がりにすぎないということはわかる。だが、理念よりも実利を重んじるリアリスト風なイキリ方は、その後の冷笑文化を想起せずにはいられない。
さらに、挫折でやさぐれた木村たちは「女子トイレの壁に穴を空ける」ことに熱中する(こちらも挫折して未遂に終わるが)。ヤンチャの証としてスカートめくりや風呂のぞきをする1980年代の少年マンガの主人公みたいだ。セクハラも冷笑文化も、学生運動の反動というより、学生運動と地続きにあったということなのか。いずれも、退屈な優等生ではない強く自由な自分を確認する手段にすぎなかったのだろうか。
『高校紛争1969−1970 「闘争」の歴史と証言』によれば、この時期の高校紛争のすべてが挫折に終わったわけではない。神奈川県立希望ケ丘高校の紛争は、学校側が生徒側の要望を受け入れて「生徒心得」を廃止し、生徒の自主管理を認めるという全国的にもまれな成功を収めた。生徒側が特定党派と関係をもたず、政治的な要求を行わなかったのも一因だが、それはCCUも同じだ。なぜ彼らはうまくいったのか。希望ケ丘高校の元生徒はこう振り返っている。「(…)封鎖派生徒と教員とのあいだで険悪な対立姿勢はみられなかった。両者に信頼関係があったと思います。また、希闘委の要求項目に『勤評反対』がありました。教師は敵ではなく連帯すべき相手と見なしたからです」
CCUが教師を容赦なく論破して大勢の前で恥をかかせる姿は、確かにかっこよく見える。だが、生徒にとっては強者である教師や校長もまた、教育委員会の勤評=勤務評定に縛られる弱い立場にあった。『高校紛争1969−1970 「闘争」の歴史と証言』には、生徒から敵視されて傷ついた教師たちの証言もいくつか収められている。教師が理想通りではないことに腹を立てる代わりに、同じ人間として共感し、コミュニケーションを取って教師の心情をケアしていれば、少なくとも学友たちが留年に追い込まれたり、受験勉強を再開したときに孤立することもなかったのではないか。理想のもとに誰かをかっこよく論破すれば支持者は増えるが、自分が理想的にふるまえなかったときに、露悪に走るしかなくなってしまう。また、自分が優位だと示すための嘲笑的な態度が弱い立場の者に向けられれば、セクハラやパワハラ、いじめになることは、容易に想像がつく(事実、コワモテ教師への追及を避けたことで、CCUのひとりは女子生徒から「なんでいい先生ばかりいじめるの!」と詰問されたそうだ)。ケア無き学生運動が挫折し、冷笑文化を招いたのは必然だったのかもしれない。
もっとも、挫折といえるほどの運動すらできなかった私に、ケチをつける資格はないだろう。あとからなら何とでもいえる。CCUの運動のおかげで、ぼんやり物思いにふける自由な時間をもらえたのは事実なのだから、感謝しなくてはいけない。
木村たちは卒業式で爆竹を鳴らして早稲田の校歌を歌い、厳粛な式をめちゃくちゃにしたあと、卒業証書を駅のゴミ箱に投げ捨てて高校生活を終えた。この「卒業式粉砕」の余波なのか、私の時代の卒業式は国歌斉唱もなく、生徒の自主性に任された自由度の高いものになっていた。他のクラスは寸劇で笑いを取ったりしてにぎやかに式を演出したが、式に厳粛さを求める生徒の多いクラスにいた私は、証書授与の間The Byrdsの”Turn! Turn! Turn!”を小さく流すだけにした。季節の移ろいにほんのり感傷を添えるつもりで選んだその曲の歌詞は、あとで知ったのだが旧約聖書の一節にベトナム反戦の祈りを加えたものだった。
A time to build up, a time to break down
築き上げるとき たたき壊すとき
A time to dance, a time to mourn
飛び跳ねるとき 嘆き悲しむとき
A time to cast away stones
石を投げ捨てるとき
A time to gather stones together
石を拾い集めるとき
To everything (turn, turn, turn)
あらゆるものごとには(ターン、ターン、ターン)
There is a season (turn, turn, turn)
ふさわしい時期があり(ターン、ターン、ターン)
And a time to every purpose under heaven
天の下のできごとには すべて定められたときがある
The Byrds”Turn! Turn! Turn!
「政治の季節」を生きたCCUは挫折したかもしれないが、その時期にふさわしいこと、そのときにしかできなかったことを全力でやったのだ。ならば足りなかったケアについて考え、実践していくのは下の世代の務めだろうと思う。
Credit: 堀越英美