ふやけて崩れたハンバーガー、やる気のない食堂の冷たいからあげ、サービスエリアの伸びきったうどん……。おいしくなかった食事ほど、強く記憶に残っていることはありませんか。
すこしの残業を終えて自宅マンションへ帰りつくと、エレベーターのすぐ脇にある101号室の真ん前にぽつねんと薄茶色の紙袋が置かれているのが見えた。きっとフードデリバリーの置き配だろう。この部屋の住人はおおかたいつも似たような──わたしがちょうど帰宅するころの時間に──デリバリーを頼んでは玄関にしばらく放ったらかしにしているようで、エレベーターを待つあいだこの孤独な紙袋と出くわすのはすでに今週で2回目だった。またか。いや、エレベーターホールの脇に玄関があるということは、そこにいる他人の気配を察知して、鉢合わせるのを避けているのかもしれない。101号室の住人は、わたしが階上へ去るのをドアスコープから確認したら、きっと玄関の扉をすこしだけ開け、にゅっと腕1本だけを伸ばして紙袋を回収するのだろう。
数世帯しか入居していないコンパクトなマンションということもあって、わたしたちはなるべく住人同士の個人情報を明かさず(今どきはどこもそうなのかもしれないが、ポストにも玄関にも表札すら下げないのだ。配達に来る業者にとってはまことに厄介極まりないとは思うのだけれど……)、なおかつ顔を合わせないように暮らすというのが暗黙の了解であった。引っ越してきたばかりのころ、ゴミ捨てで一緒になった隣の部屋の女におはようございますと挨拶をしたら無視されたことを思い出す。目も合わなかった。ふつう、人に声をかけられたら驚くにしろ訝しむにしろ多少なりとも身体が反応してしまうものだが、まるでわたしが存在していないかのごとき華麗なシカトのお作法であった。
エレベーターに乗り込んでじぶんの部屋に入ったあと、ポストを開け忘れたことに気がつく。注文していた本が届いているはずなのだ。やれやれ再び階下へ戻ると、101号室の前にはまだデリバリーの紙袋が忘れ物のように鎮座していた。さっき見かけてからはゆうに30分ほど経過していたが、家主は一体いつ、このできたてとは到底言いがたい食事にありつくのだろう。可能な限り温かいものは温かいうち、冷たいものは冷たいうちに食べるのを是とするわたしにとっては、おーい、お夕飯が冷めてしまいますよとドアをノックしてお節介してやりたくもなったし、101号室に住む名も顔も知らないだれかの晩餐に、生活への諦めのような気配を感じずにはいられなかった。現代の哀愁はこういう光景に宿っている。

そもそもよほど手が離せないだとか病気だとかの理由がないかぎり、食べ物を自宅まで運んでもらうというのはいかにも都市生活者のための贅沢なサーヴィスのように思えてならないのだが、もとをたどれば日本では昔から出前の文化が盛んだったわけだし、抵抗感を抱くほうが不自然なのかもしれない。なにしろ高度経済成長期のころは会社にもラーメンや蕎麦なんかの出前が手数料もなしで届くのは当然だったというのだから。それでも現在の、自転車なりバイクなりで運ばれてくるデリバリーの食事には、個人的にはなんだか「金を払って人に食べ物を運ばせている」という感じが強く、ちょっと申し訳ないような気分になるのだ。運んでくるのが飲食店の従業員ではなく、食事を運ぶためだけに介在するライダーだからというのもあるかもしれない。寿司屋の出前なんて、食べ終えたあとの寿司桶まで翌朝回収に来てくれるというのに、「わざわざ呼びつけて申し訳ない」などという気持ちはさほどわかない。
まあ、そんな御託を並べていたわけでウーバーイーツやら出前館やらのフードデリバリーが流行してからもなんとなく利用する機会がなかったのだが、自宅マンションはコンビニもスーパーも徒歩5分圏内に存在しないという、東京都心における基準では陸の孤島のような場所なので、風邪をひいてどうにも調子の出なかったいつだかの晩に、ふと思い立って頼んでみたことがある。機会はなかったけれども前々から興味はあったのだ。体調不良というのは、はじめてのデリバリーにはうってつけの言い訳だ。アプリでちょこちょこと個人情報を入力し、カタログ状に提示されるバラエティに富んだフードのなかから食欲のそそるものを選んで決済。画面に表示された時間を超えることなくあっさりと到着した配達員がチャイムを鳴らす。こんなご時世に風邪をうつしたら悪いので、置き配でお願いしますと伝える。わたしはドアスコープをのぞきこんで配達員が立ち去るのを確認すると、玄関の扉をすこしだけ開け、にゅっと腕1本だけを伸ばしてビニール袋を回収した。もちろんまだ温かい。それでも地べたに置かれた一人分の食事というものは、どことなく寂しく見えた。
注文したのは具だくさんが自慢のお野菜スープ専門店という、風邪っぴきにはおあつらえ向きの店であった。
ところがこの心温まるお気遣いとは裏腹に、意気揚々と口に運んだシチューの正体はひどいものだった。
日ごろからこの類のサーヴィスを利用する人にとってはここまで読まずとも当然の常識なのだろうけれど、このときわたしはゴースト・レストランという存在のことを知らなかったのだ。いわゆるデリバリーに特化した事業形態のことで、厨房だけの設備をこしらえて、そこで作った料理を配達のドライバーが取りにくるという仕組みだ。デリバリーのアプリ上ではたしかに飲食店として登録されているけれど、客席はなく、料理人も顔を出す必要がない現代のゴースト。つまり最低限の経費でおてがるに飲食業を営むことができるというわけだ。このところずいぶん急増したそうだが、たとえば薄汚いアパートの一室でひとつの厨房がいくつもの飲食店の名を名乗るだとか、前述のような「専門店」を騙る店が跋扈しだしたとか、衛生的にも景表法的にもアウトな事業者が問題になったようで最近ではしっかり規制されているらしい。どうやらこのゴーストにわたしは一杯食わされたようだった。インターネットで検索してみると、「おいしいゴースト・レストランの見分け方」だとか「ゴースト・キッチンの怪しい実態に密着」などという、手慣れた都市生活者たちによるゴースト指南がたくさんヒットした。フードデリバリーひとつとっても、あらかじめ知識をたくわえていないと損をする時代なのだ。なんだかなあと思い、それからはよく知らない店のデリバリーを頼むのはやめてしまった。
さて、食べ物の恨みは時間が経てばおおむね癒えてくるというもので、ひどいシチューのことなどすっかり忘れていたのだけれど、なんと後日、わたしはあのインチキ専門店の居場所をはからずも突き止めてしまったのだ。近所に新しいドラッグストアができたと聞いて家のまわりをうろついていたところ、いつもは通らない路地の一角に、自転車やバイクに乗った人たちが幾人かたむろしていた。なんだろう? そこがあたらしいドラッグストアなのかと思って立ち止まってみると、そこは小屋つきのこじんまりしたガレージのような場所で、小屋の正面には役所の深夜窓口みたいな小窓が設けられていた。
そんな奇妙な目撃譚から半年もしないうち、気まぐれにデリバリーアプリを開いてみると、もうあのスープ工場のデータはあとかたもなく消え去っていた。さすがにこの狭い町内ではやっていけなかったのだろうか。やっぱりもう一度確かめてみたい気になって出かけてみたのだけれど、困ったことにわたしはあの時に見かけたゴースト・レストランがいったいどこの路地にあったのかさっぱり忘れてしまっていて、ぐるぐると長いこと町内を回ったのだけれども、とうとうたどり着くことはできなかった。こんなに小さい町なのに。こうなると、わたしが本当にあの不気味なガレージを目撃したかどうかも怪しいものだ。二度も化かされたとなると、昔話に出てくるまぬけな町人にでもなったようで無性に可笑しくなった。煙のように現れては消え、都市をさまようレストラン。数百年後の子どもたちに読み聞かせたら、どこまで信じてくれるだろうか。
第2回につづく
Credit: オルタナ旧市街=文