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人生で初めてというレベルで、本格的な部屋の片づけをしだした。家族の持ちものの見直しにも手をつけはじめ、先日ついに「アレ」を粗大ゴミに出した。

アレとはアレだ。ベビーカー。この連載を始めたつい2年前、娘は確かに乗っていたのだ。ベビーカーに。

娘の成長

最近、生まれてこのかた常にものを溜め込みがちで、自室でも仕事机でもすぐにごちゃごちゃにしてしまうタイプの人間だった僕が、人生で初めてというレベルで、本格的な部屋の片づけをしだした。

あらためて身の回りを眺めてみると「ほんのりと思い出があるから」という理由以外に所持しておく必要のないものがあまりにも多く、その思い出だって、絶対にそれがなければ思い出せないわけでもない。ならばいったん宇宙のちりに返してやり、別の誰かの役にたつ、他のなにかに生まれ変わってもらったほうがいいに決まっている。そう思ったら、小さな自室のどこにこれほど? ってくらい次から次へと、捨てるものが出てくる出てくる。

そんな流れから、家族の持ちものの見直しにも手をつけはじめ、先日ついに「アレ」を粗大ゴミに出した。アレとはアレだ。ベビーカー。

この連載を始めたつい2年前、娘は確かに乗っていたのだ。ベビーカーに。

ところが子供の成長は早く、移動手段のメインはすぐ電動子乗せ自転車に変わり、今ではすっかり、天気のいい日に保育園まで一緒に歩いていくことも珍しくなくなった。この連載のタイトルは「缶チューハイとベビーカー」なのに、その間のベビーカー稼働期間のいかに短かったことか。

それでもしばらくは、妻に聞いた「災害時などに役に立つことがあるらしい」という情報もあって、家の近所に借りている仕事場の、物置きにしているロフトに保管してあった。が、もうさすがにいいだろうということで、手放すことにしたというわけだ。仕事場から粗大ゴミ回収場所である自宅まで運ぶ際、たたまれたベビーカーを最後にもう一度よく眺めてみる。その重み、ロック解除の感じ、持ち手の感触やちょっとクセのあるタイヤの感覚が、もはや懐かしい。めちゃくちゃお世話になったなぁ。ありがとう。と、バシャリと広げて、少しコロコロと押してみる。すると、自分でも想像していなかったくらい、幼い娘をこれに乗せて過ごした日々の感覚がぶわっと体によみがえり、急に号泣してしまいそうになって、静かにまた折りたたんだ。

ふと気づけば、あんなに毎日作っていた「しおしょうゆとろたまごごはん」だって、もうしばらく作っていない。「いつか終わる日が来るのだろうか……?」と思っていたおむつ替えもとっくに卒業し、最近ではトイレは「ひとりでできるからそとでまってて」だそうだ。

人生って、どうしてこうも切なさの連続なんだろうか。

アヒルの手押し車

保育園へ登園する際、髪の長い子はゴムなどでまとめる必要があり、毎朝、今日はどんなふうに結んでほしいなどとリクエストがあって、妻がこたえてあげている。ただ、妻が仕事で早く家を出ないといけないなど、間に合わない日もある。そこで僕が娘に言う。「パパがやってあげようか?」。ところが娘の返事はこうだ。「パパ、へただからじぶんでやる」。

あっそう……と思いながら見ていると、長い髪を後頭部でまとめ、器用にゴムでくるくるとしばり、あまつさえ、かわいい飾りのついたパッチンどめまで選んで、自分でつけたりもしている。その様子は、もはや立派なお姉さんだ。

言うこともどんどん一丁前になってきた。先日、家の整理の一環で、使わなくなったおもちゃの片づけを娘と一緒にしていたときのこと。我が家のおもちゃコーナーの一角には、いまだに娘が生まれてすぐに買った木製の手押し車が置いてある。前方中央にお母さんアヒル、そのサイドに子アヒル2羽。

押すとピヨピヨと鳴きながら、首を振り振り前進するのがかわいらしい。が、さすがにもう、6歳の子供がそう遊ぶものではない。そこで僕が聞く。「ぼこちゃん、これはもう使わないよね? どうする? バイバイする?」。それに対する娘の返事が、予想外の角度だったので驚いた。

「う~ん、いつかぼこちゃんがけっこんしたら、うまれてきたこにつかわせてあげたい」

なんだろう、そんなことまだ考えたくないとか、寂しいとかじゃなくて、純粋に「いいじゃんいいじゃん! 素敵じゃん!」と、だいぶ感動してしまった。数年前、少しずつ少しずつ話せる言葉が増えてきて、やがて単語3つを繋げて話せるようになっただけで、夫婦揃って「天才!?」と喜んでいた娘の心は、こんなにも豊かに、日々成長を続けているんだなと。

さよならぼくたちのほいくえん

近ごろ、気がつくと頭のなかでリフレインしている曲がある。「さよならぼくたちのほいくえん」。昨年、娘のひとつ上のクラスの卒園式の際、園児みんなで歌うとのことで、家でも練習していた歌だ。幼稚園バージョンの「さよならぼくたちのようちえん」というのもあるらしく、とにかくこれが泣ける。歌詞もメロディーも、ひと節ひと節が「あんなことも、こんなこともあったなぁ……」と記憶の扉を開かされるきっかけになるような、表現があまり良くないかもしれないけれど、とにかく絶妙に涙腺のツボを突いてくる巧みな曲なのだ。

昨年、これを娘が歌っているのを聞いているだけで、すでに泣けた。あぁ、来年はうちの番……。そんな娘の卒園式の日が、刻々と近づいている。

たとえば、数か月後に旅行の予定を入れ、まだかなまだかなと楽しみに待つ日々が、誰にだってあるだろう。まだだいぶ先だな、待ち遠しいなと思っていても、たいていその日はやってくる。そして、あっという間に過ぎ去り、過去の思い出となってゆく。人生はそんな時間の連続で、とすると、娘が卒園し、小学生になってしまうのも、きっとあっという間のことなんだろう。

正直、そんなにあわてて成長してくれなくてもいいというのが本音だ。せっかく人生のなかでもとりわけ貴重な、ひたすらにかわいい時期なんだから、ゆっくりゆっくり、それこそ、今の倍くらいの時間をかけて成長していってもらうのでも、こっちは一向にかまわない。ただ、それが親のエゴでしかないということもよくわかっている。だって自分自身、大人になった今のほうが何倍も楽しいし、あのころに戻りたい! なんて、どの時代に対しても思わないもん。あと、娘が倍の時間をかけて成長する設定と考えると、成人するころに僕は約80歳。

いろいろとどうしようもない。

子育てに正解はきっとないし、子供の数だけ形があるのだろう。僕は、世間一般で言う立派な人物とはほど遠く、常に余裕がなく、娘にもっといろいろとしてやりたい、与えられるものがあるなら与えてやりたいと思いながら、それができないことがもどかしい日々だ。それでも、おこがましくも娘に自慢できることが、せめて良い影響を与えてやれるのではないか? という可能性があるとするなら、それは「今、楽しく生きている」ということになるのかもしれない。

ただ運が良かったとしか言いようがないけれど、「酒が好き」という趣味、生きがいが、なぜか仕事につながり、流されるがまま今に至って、当面生きられている。仕事には「生活に必要な資金を稼ぐこと」という目的が大きくあることは疑いようがない。ならばストレスフリーで、仕事相手に嫌いな人がいなくて、楽しいと思えることをなるべく多くやれるに越したことはない。そういう意味で自分は、本当に恵まれていると感じるし、娘にも、いつか自分の生きがいとなるような、好きなものが見つかればいいなと思う。それもまた、親の押しつけなのかもしれないけれど。

そういえば先日の夕飯どき、妻が作ってくれたおかずをつまみに晩酌をしている僕を見て、ニコニコしながら娘が言った。

「ぼこちゃんもはやく、おさけのんでみたいな~」

よっぽど僕が、ニヤニヤと嬉しそうだったんだろう。ただ娘よ。

酒というのは、たとえばジュースとか、君が好きな吸って食べるバニラアイス「クーリッシュ」のようには美味しくないぞ。いや、もちろん父にとってはクーリッシュよりずいぶん美味しいんだけど、そもそもジャンルが違うというか。

6歳の娘は今、僕がやたらと好んで日々飲んでいる酒を、どのようなものと想像しているんだろうか? 答え合わせができるのは、少なくとも14年後。それまでも、成長過程ならではの出来事、問題、喜びなどはたくさんあるんだろうけれど、できるかぎり受け止め、酒と子育ての両立の日々を、前向きに楽しんでいきたい。

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パリッコ『缶チューハイとベビーカー』次回、連載最終回となります。2023年12月15日(金)17時配信予定です。

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Credit: 文・イラスト=パリッコ

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