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僕はこの連載では、なるべく感情のままに娘のかわいさを賛美することを控えてきた(これでも)。けれども、この連載もひとまず今回が最終回。

最後くらい、思いっきり浮かれてしまうことを許してもらってもいいでしょうか?

今あらためて思うこと

この連載のはじめに、不特定多数の人々が目にする場で娘の本名を公開することがためらわれ、娘の仮称を「ぼこちゃん」と統一すると書いた。家でそう呼んでいるわけでも、娘が自分が名乗っているわけでもないその由来について一応書いておくと、あれは2014年のこと。当時放送中だったNHKの連続テレビ小説「花子とアン」を毎朝夫婦で見ることが日課のひとつだった。そのなかで、確か主人公の花子に子供が産まれた際、俳優の伊原剛志さん扮する花子の父親が、こう言ったのだった。

「こりゃあ、かわえぇ……ぼこじゃあ……」

詳細はあやふやだけど、確かこんな感じ。それがなぜか僕ら夫婦のツボにハマり、ことあるごとに、「かわえぇ……ぼこじゃあ……」とまねしては笑うというブームが一時期あった。その後次第に子供が欲しいという想いが強まってきてからも、僕らは自然に「うちにもかわいいぼこが来てくれるといいね」などとと言いあっていた。やがて妻が妊娠し、病院から子供の成長を記録するアプリをスマホにインストールするように言われ、その仮IDを決める際も、当然こうなる。「なににする?」「bokoでしょ」「やっぱそうだよね」。

とまぁ、それだけの理由。万が一、ずっと気になっていたなんて方がいたならば、拍子抜けで面目ない。

さて、これまでに約2年間、45回の「酒と子育て」がテーマの原稿を書いてきて、今あらためて思うことと言えば、相変わらず「娘がかわいい」ということにつきる。こんなにもひたすらかわいく、愛情をいくら注いでも注ぎ足りない人間が、存在している。

そしてその気持ちが、常に現在進行形で持続するばかりか、どんどん大きくなってゆくことは、僕の人生におけるいちばんの驚きだ。

とはいえ、僕はこの連載では、なるべく感情のままに娘のかわいさを賛美することを控えてきた(これでも)。親バカの浮かれ話を毎度読まされたって、親族関係者以外はおもしろくもないだろう。けれども、この連載もひとまず今回が最終回。最後くらい、思いっきり浮かれてしまうことを許してもらってもいいでしょうか?

娘はかわいい

そう、娘はかわいい。これはもう、誰に言っても信じてもらえないくらいにかわいい。この世に存在するもののなかで、群を抜いて圧倒的だ。

そもそも、造形として完璧。さらっさらの髪の毛。形の良いおでこ。ちょこんとした鼻に、ぷっくりとしたくちびるに、まだまだふっくらとしたほっぺた。年々その幅が深くなっている奥二重の目は、正面を向けばぱっちりと大きく、お絵かきや工作に集中しているときは切れ長でちょっとふてくされているようにも見え、笑うとまるで漫画のように、やまなりの一本線になる。どの表情も本当にかわいい。

陶磁器のようななめらかさと、雪見だいふくのようなやわらかさをあわせ持つ肌の質感も、奇跡としか言いようがない。

最近、ふとした瞬間に「足、長!」と驚くが、赤ちゃんのころから成長してきた今までずっと、全身のフォルムに非の打ち所が一切ない。いや、一応頭では理解している。自分もいち生物であるがゆえ、「種の存続」という課題を背負っており、そのためのDNA補正が入っているであろうことは。たまに街で見るハーフの子なんかの、まるで人類のお手本のような造形の美しさとは、少し方向性が違うことは。けれどもやっぱり、我が娘をじっくりと見るにつけ、どうもこの世でいちばんかわいい子供に見えるんだよなぁ。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。

ただ当然、外見などは最重要事項ではなく、人間の本質は中身にあると言ってもいいが、その中身がまたかわいいから困ってしまう。

日々できることを少しずつ増やしながら、純粋かつ真剣に生活を送っているところ。笑い上戸で、なにかおもしろいことがあるとけらけらとよく笑い、たまにしゃっくりが止まらなくなっているところ。保育園行事用に妻にお弁当を作ってもらった朝、海苔でパンダの顔を書いてもらったおにぎりに向かって「パンダちゃ~ん、あとでたべてあげるからね!」と無邪気に話しかけていたところ。ズボンや靴下はなぜか極限まで上げないと気が済まない質で、運動会を見学に行くと、誰よりもハイウエストなところ。

朝起きたときのちょっとした不機嫌さや、夕方に訪れた睡魔に必死で抗っているときの白目ですらかわいい。

というかもう、こんなこまごまとした事例をあげはじめたらいつまでも収拾がつくわけがない。娘のちょっとしたかわいいポイントなんて、いくらでもある。無限。なので最近よく、こんな妄想をする。娘が産まれてから小学校低学年くらいまでのあいだ、娘と触れ合っている間の自分視点の映像を、すべて残さず記録してくれるビデオカメラ。つまり、もしそういうものがあったら、老後にもう一度バーチャルで、娘のかわいさを誕生から順を追って追体験することができるというわけだ。ゆったりとしたソファに腰かけ、VRヘッドセットでその映像に没入し、なんなら生命活動に必要な栄養素は、点滴で自動的に補給してくれるのでもいい。ただ、それとは別に、夕方くらいにいったん、酒とつまみはほしいけれど。人体のどっかに埋め込むかなんかして、子供が視界に映ると自動的に起動する、「我が子映像全記録カメラ」。現代の技術ではまだ難しいかもしれないけれど、近い将来ならいけるんじゃないだろうか? けっこう、いいビジネスになるような気がするんだけど。

娘は優しい

以前に、地元石神井公園の伝統行事で、四角く真っ白い灯籠に好きな絵を描き、そのなかに火のついたろうそくを入れて石神井池に流す「灯籠流し」というお祭りに、保育園の友達家族たちと出かけていったときのこと。

友達のIちゃんが、灯籠の一面を大きく使って、ギザギザのサメの歯のような絵を描いていた。娘が「Iちゃん、それな~に~?」と聞く。するとIちゃんは、「これはね、でっかいかいじゅうのはだよ。ぼこちゃんとか、うちのパパをたべちゃうんだよ!」と答える。それを聞いて娘は、心底楽しそうに大笑いしていた。ところがIちゃんが「ぼこちゃんのパパもたべられちゃうよ!」と言うと、なんということだろう。娘は突然表情を変え「やだ! パパたべないで!」と、ぽろぽろと涙をこぼしながら泣き出してしまったのだ。人生に、こんなにも胸が苦しくなる瞬間ってあるだろうか? 僕は笑顔で「ぼこちゃん、想像のお話だから大丈夫だよ」などとフォローするが、心のなかでは完全に泣いていた。こんなにも純粋な優しさが、この世にあったとは。

そう、娘はとにかく「優しい」のだ。それは、とうてい僕なんかには敵わない、純粋で尊くて崇高な精神。もはや、生まれてきた時点で、自分などとは位が違うとしか思えないほどに。

保育園も高学年となってくると、場面場面で自分勝手なわがままを通そうとし、友達に対してわがままを言ったりする子供も出てくる。陰湿ないじめというほどではないものの、一時的に「〇〇ちゃんはいれてあげない」なんてシーンもよくあるようだ。先生から報告を受けたり、娘が「きょう、ほいくえんでいやなことがひとつあった」と言うので妻がよく話を聞いてくれたりすると、娘はたいてい、「そんなこというのはおかしいよ」とか「〇〇ちゃんもなかまにいれてあげよう」と、どこからどう見ても正しい意見を主張している。たった6歳の女の子がだ。過去の自分にはとうていできていなかった。なぜこんなにも優しい子供が存在し、しかも自分の娘であるんだろうか。ただただ、不思議。

また先日、十数年使い続けた洗濯機を買い換えた。以前のものは近年、使うたびに何度も「がったん、がったん、ピピピピピ」と異音を発し、その度にスイッチを押しなおしにいかなければならないという、だいぶストレスのたまる状態だった。といっても、家事のなかでも洗濯は妻にまかせきりなので、主に妻がストレスをためていたんだけど。そんな洗濯機を最新の乾燥機能つきドラム式に買い換えたので、今や快適そのもの。ただ、業者さんがくる当日の朝、妻が、もはや戦友ともいえる古い洗濯機を眺めながら言う。

「なんかちょっと、寂しいかも……」。するとそれを見ていた娘にも思うところがあったのだろう。なんと、古い洗濯機の前に体育座りをして、目に涙をためながら「かえちゃうのやだ……」と言い出し、そこから動かなくなってしまった。それでも30分近く、僕と妻でかわるがわる説得し、ようやく納得してくれた娘は、最後に古い洗濯機にぎゅっと抱きつき、ささやくような声で言った。

「だいすきだったよ……いままでありがとうね……わすれないよ……」

ここまくるともう、度を超えているだろう。それを見ている僕も、なんだかおかしいような、切ないような、嬉しいような、よくわからない気持ちになる。ただ少なくとも、子育てという機会がなければ絶対に経験することのなかった心情であることだけは確かだろう。

と、なんだか実例をあげはじめたら、これからもう一度連載をはじめられそうなくらいに書きたいことが思い浮かんでくるが、娘も年が明けて4月になれば小学生。どんどん心は複雑に成長してゆくだろうし、無邪気な幼児とは違い、こういう場に書かれていやなことだって出てくるだろう。やはりいったん、ここで区切りをつけさせてもらおうと思う。

それにしても、子育てはとことんおもしろい。そして、もちろん大変なこともあるけれど、それ以上に、娘が生まれる以前は感じたことのなかったタイプの幸せが、バレーボールのレシーブ練習のように、日々容赦なく、バシバシと自分に向かってふりそそいでくる。きっと自分は、今だけの、かなり特殊な経験をしている最中なのだろう。

ここで最後に、話を酒に戻そう。たとえば、「今後一生娘に会えないのと、今後一生酒を飲めないの、どちらかひとつしか選べないとしたらどうする?」と、神に様選択を迫られたとする。当然、一択で酒を捨てる。究極の選択にもなっていない。

ただ、幸いなことに僕の人生に、今のところそういう神様は現れていない。ならば、子育てをしながら酒も飲む。この大いなる矛盾と幸福に満ちた人生を、まだしばらくは歩ませてもらおうと思う。

かつて「育児エッセイだけは絶対に書かない」と心に決めていた僕に、この機会を与えてくださった編集者の森山裕之さんと、ここまでお読みいただいた読者のみなさま。そして最愛の娘と妻に、心からの感謝の意を表します。

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本連載は今回が最終回です。これまで、ご愛読ありがとうございました。

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Credit: 文・イラスト=パリッコ

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