東条英機首相は1943年7月、南方視察の帰りに沖縄を訪問し、県工業指導所で伝統工芸品の紅型や芭蕉布を見た。
 東条首相は説明役の安谷屋正量所長に苦言を呈したという。

 「これは戦争とどんな関係があるのか」
 42年、ミッドウェー海戦で惨敗した日本軍は、ガダルカナル島を巡る攻防戦にも敗れた。
 補給を無視して陸軍部隊を送り込んだ結果、多くの餓死者を出し、43年2月、ついに同島を撤退する。
 南方戦線が悪化したことで、軍事の空白地帯といわれていた沖縄の島々も、急速に軍事化の波に覆われるようになった。
 44年3月22日、第32軍司令部が創設された。「軍の具体的任務は、南西諸島全域にわたり、多数の飛行場を急ぎ完成すること」だった(八原博通「沖縄決戦」)。
 危機的状況に陥っていた南方戦線を航空戦力によって支えるため沖縄を「不沈空母化」するという構想だ。

 第32軍は、飛行場建設に従事する部隊を配置し、南西諸島全域で飛行場の拡張整備、新設工事に着手した。
 伊江島飛行場、陸軍北飛行場(読谷飛行場)、陸軍中飛行場(嘉手納飛行場)、海軍小禄飛行場、陸軍石垣島飛行場などである。
 日本陸海軍が県内に建設した飛行場は最終的に15カ所に上る(大城将保「第32軍の沖縄配備と全島要塞(ようさい)化」)。
 80年前のこの時期、前例のない大規模な土木工事が本格化したのだ。
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 市町村史の戦時記録をひもとくと、「徴用」「勤労奉仕」「供出」という戦時用語が頻繁に出てくる。
 どこの現場でもツルハシ、シャベル、モッコなどを用いての人海戦術だった。
軍は最初から住民の労力を当てにしていた。
 読谷の徴用が終わると伊江島や八重山の徴用に駆り出され、八重山の人が読谷に、読谷の人が八重山に徴用される。そんなことも珍しくなかったという。
 国民徴用令が乱発されたのだ。
 第32軍司令部所属の部隊が次々に沖縄に到着するようになって、飛行場建設工事と陣地構築工事が同時並行して進むようになった。
 トーチカ、銃眼、監視所、戦車壕(ごう)、砲台、陣地壕などが各地に建設され、沖縄の全島要塞化が一気に進行した。

 一般住民が徴用されただけではない。男女学徒が陣地構築に駆り出され、地域によっては、年端もいかない国民学校の児童まで動員された。
 飛行場建設や陣地構築のため民間の土地が半強制的に接収され、多くの学校や公共施設、民間住宅が部隊の宿泊施設として提供された。
 食料や資材の供出を求める軍からの要請も相次いだ。
 沖縄の戦場化が必至となり、第32軍には本土防衛の「防波堤」という新たな役割が与えられるようになった。
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 「1944年の全島要塞化」は、あまりにも急激な上に、住民の生活を一変させるほどの劇的な変化だったため、さまざまな問題を抱え込むことになった。

 沖縄の軍事要塞化には、三つの波がある。
 一つ目は、日本軍によって進められた「1944年の要塞化」。二つ目は米軍によって進められた「1950年代の要塞化」。そして三つ目は、台湾有事を想定して現に進められている「日米合作の要塞化」である。
 沖縄戦を体験した住民の中には、沖縄の現状を1944年当時と重ね合わせ、「あの時と似ている」と危惧する声が少なくない。
 「新しい戦前」という言葉が、沖縄でリアルな響きをもって受け止められているのはそのためだ。

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 2025年の来年は、米軍上陸から80年に当たります。社説企画「沖縄戦80年」を来年9月まで、実際の経過に即し随時、掲載します。