ファビオさんは、那覇市の県立図書館で2月10日まで開かれている三郎さんや家族の移民の歴史をたどる展示イベントで沖縄を訪れていた。
三郎さんの故郷、旧小禄村大嶺の新瀬喜原(ミーゼーキバル)に異変が起きたのは31年8月17日、旧盆の送り日(ウークイ)の朝だった。一帯に測量用の赤旗が立てられているとの話が持ち上がり、県や村から何も知らされていなかった住民は大騒ぎになったという。
これが、中国との開戦を目前にした日本海軍による小禄飛行場建設の始まり。新瀬喜原は土壌が豊かで大根の生産で有名だったが、農地を失った人々は飛行場建設作業で生計を立てていくようになる。33年に飛行場が完成すると、45年に上陸した米軍の占領後は米軍基地に、72年の日本復帰後は那覇空港となり、三郎さんの足跡をたどるには許可が必要となった。
三郎さんが暮らした55番地付近は、現在は雑草で生い茂っていた。ファビオさんはその先をじっと見つめて何度も深くうなずき、先祖に思いをはせた。「祖父がいた場所に来られて感動した。この経験をブラジルの親戚にも伝えていきたい」と語った。三郎さんの娘のヂルセさん(81)は約40年ぶりに大嶺を訪れた。
