1945年6月18日、事態は急転した。
 「学徒動員は本日をもって解散を命ずる。
自今行動自由たるべし」
 沖縄陸軍病院に配属され、南部撤退後も、それぞれの壕で外科ごとに行動していたひめゆり学徒隊に、解散が命じられた。
 一体、どうしろというのか。どこへ行けというのか。
 米軍はすでに八重瀬岳、与座岳を突破し、糸満市伊原の近くまで達していた。
もはや一刻の猶予もない。
 せき立てられるように数人単位で壕を脱出した学徒らは、あてもないまま喜屋武へ摩文仁へ、そして多くの学徒が山城の丘へと向かっていった。
 伊原の第一外科壕には負傷した学友が9人いたが、連れ出すことができなかった。生き残ったのは2人だけである。
 ひめゆり平和祈念資料館の資料によると、陸軍病院に動員された学徒ら240人(教師18人含む)のうち死亡したのは136人。そのうち117人、86%が解散命令後に亡くなっている。  
 防衛隊員として沖縄戦を体験したジャーナリストの池宮城秀意さんは指摘する。
 「安全な方法で敵の保護にゆだねる処置をとる責任が日本軍にはあったし、それは戦場における国際法にも明白にうたわれている…」(『沖縄の戦場に生きた人たち』)
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 軍の当時の対応を「仕方がなかった」の一言で済ませるわけにはいかない。

 現に硫黄島に配属された混成第二旅団野戦病院は、病院長の野口巌さんが、病院内での議論を経て意見を集約し、赤十字条約を盾に米側と交渉を始めた。
 その結果、彼らは救われ、グアムに送られた後、6月に沖縄に到着し、沖縄の米軍野戦病院で働いた。この病院に勤務したのが、ひめゆり学徒隊の生き残りだった。
 作家の大城立裕さんは著書の『対馬丸』で、「学童の乗る船は軍艦にしてもらいたい」との校長の申し入れがあったことを紹介し、彼らは戦時国際法を知らされていなかったと指摘している。 
 非戦闘員の保護を定めた戦時国際法よりも、軍が重視したのは「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓だった。
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 軍は作戦を第一に考え住民保護を軽んじ、住民は軍と一体化することで安心感を得ようとした。
 その結果、南部は軍民が混在する戦場となり、あまりにも多くの犠牲を生んでしまったのである。
 男子学徒隊の場合、解散命令とはいっても、親元に帰ったわけではなく、沖縄師範学校男子部や県立一中の鉄血勤皇隊のように、「斬り込み」を命じられ死んでいった例が少なくない。
 第32軍司令官は6月18日、上級組織に決別電を送っているが、その後も学徒らの「戦場の死」を止められなかった責任は大きい。
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