沖縄は23日、慰霊の日を迎えた。多くの一般住民を巻き込み、苛烈な地上戦となった沖縄戦から80年。
今年5月、「ひめゆりの塔」の展示説明を巡り自民党の西田昌司参院議員が「歴史の書き換え」と発言するなど政治家の沖縄戦に関する歴史認識が問われる中、節目の日を迎えた。糸満市摩文仁の「平和の礎」をはじめ、県内各地の慰霊塔には多くの遺族らが訪れ、犠牲者を悼む。県内は不戦を誓う鎮魂の祈りに包まれる。
 糸満市摩文仁の平和祈念公園では、午前11時50分から県などが主催する沖縄全戦没者追悼式が開かれる。正午の時報に合わせて黙とうし、戦争で亡くなった人たちの御霊(みたま)に祈りをささげる。追悼式では玉城デニー知事が平和宣言を読み上げ、不戦と恒久平和を希求する沖縄の思いを国内外に発信する。石破茂首相と衆参両院議長、最高裁判所長官が来賓あいさつに立ち、30年ぶりに三権の長がそろう。
 国籍を問わず沖縄戦などの戦没者氏名を刻んだ平和の礎には、今年新たに342人(県内16人、県外325人、米国1人)が追加刻銘され、計24万2567人となった。県外325人の多くは、1945年4月7日に沖縄に向かう洋上で米軍機の攻撃を受けて沈没した「戦艦大和」の乗組員という。
 沖縄戦は住民の生活の場が戦場となった。日本軍の兵力不足を補うために子どもを含む住民が根こそぎ動員された。「鉄の暴風」と呼ばれるほど米軍の砲弾や爆弾が飛び交い、沖縄県民の4人に1人が亡くなったとされる。
日本兵による住民虐殺や壕追い出し、逃げ場のない状況に追い込まれての「集団自決(強制集団死)」、食糧強奪などもあった。米軍の本土侵攻を遅らせる「捨て石」にされた沖縄では、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる1945年6月23日以降も犠牲が続いた。
 沖縄戦の戦没者総数は20万656人と推計されている。このうち、沖縄県出身者は12万2228人(一般住民は9万4千人)。ただ、戸籍の焼失や一家全滅の家もあり、正確な数字は分かっていない。
 戦後80年がたった今も、心の傷を抱え、当時の体験を語れずにいる戦争体験者は少なくない。高齢化で戦争体験者の人口が県内総人口の1割を切った中、戦争の記憶継承が課題となっている。
 今年5月には、自民党の西田議員がひめゆりの塔の展示資料について「歴史の書き換え」などと批判。謝罪、撤回したものの「事実関係は私が申し上げた通り」と主張した。その後も、参政党の神谷宗幣代表が「日本軍が沖縄の人たちを殺したわけじゃない」などと発言し、県内各地から反発の声が相次いだ。
 また、「台湾有事」の可能性が喧伝(けんでん)される中、政府は防衛体制強化のための県内の港湾・道路の整備を加速させている。3月には、宮古・八重山5市町村の住民約11万人を九州と山口の計8県32市町に振り分ける避難計画の概要を公表した。
沖縄戦を生き延びた体験者は疎開を想起させる戦争の影に強い危機感を示し、識者からは「実効性は極めて低い」との指摘が上がっている。
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「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦から80年 きょう「沖縄慰霊の日」
沖縄戦の犠牲者を悼んで「平和の礎」上空に照射された「平和の光の柱」=22日午後8時40分、糸満市摩文仁(喜屋武綾菜撮影)
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