第32軍は、果たして「玉砕」したと言えるのだろうか。
 降伏せず全滅するまで戦うことを「玉砕」といい、アッツ島での戦いで初めてこの表現が使われた。

 日本軍は太平洋戦争中、サイパンやテニアン、硫黄島などで「玉砕」戦法を重ねた。
 「玉砕」は戦陣訓を抜きにして語れない。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。戦陣訓の最も有名なこの一節は、捕虜になるのを恥辱と見なし、投降を事実上禁じていた。
 戦陣訓の呪縛は、一般住民にも及んだ。
 だが意外だと思われるかもしれないが、沖縄戦は太平洋戦争中、かつてないほど数多くの捕虜が出た戦闘でもあった。
 米軍資料によると、捕虜になった日本兵は、1945年6月30日までに1万755人で、将校が200人以上含まれていたという(林博史著「沖縄戦と民衆」)。
 軍民が同居するガマの前で、時にうちなーぐちで投降を呼びかけた沖縄出身の日系2世。危険を冒して投降を呼びかけた沖縄住民。彼らの行動によって、どれだけの人々が救われたことか。
 米軍が空から大量の投降ビラをまいたこともあって、疑心暗鬼だった日本兵も集団投降に応じるようになった。
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 米軍の尋問官は捕虜一人一人を尋問し、尋問調書を作成した。

 第32軍高級参謀の八原博通大佐を尋問したのは、後に日本文学研究で多くの業績を残したドナルド・キーンさんである。
 彼は海軍の情報将校(中尉)として語学力を生かし捕虜の尋問などに当たっていた。
 八原大佐は、ぼろ服を身にまとい難民に成り済まして沖縄脱出の機会をうかがっていたが、沖縄の米軍協力者が彼の素性を報告したため、捕らわれの身となった。
 八原大佐は尋問の際、米軍に情報を提供した者を「沖縄人の犬」と侮蔑的な言葉を使って呼び捨て、「自分は、日本に帰還することになるだろうが、これら沖縄人の背信行為は忘れないだろう」と語ったという(保坂廣志著「沖縄戦捕虜の証言」)。
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 キーン中尉は、八原大佐の証言について「首里の安全な洞窟陣地から観た沖縄作戦であり、細部では、前線兵士と話が食い違う」との感想を記している。
 もう一つの戦場のエピソードを紹介しよう。
 キーン中尉は、米兵として故郷沖縄に送り込まれた県系の「ジロー」の親戚を訪ね、歓待された。
 食事の後、キーン中尉は「くわっちーさびたん」とうちなーぐちでお礼を述べたという(吉田健正著「沖縄戦 米兵は何を見たか」)。ヤマト世からアメリカ世への展開を象徴するような挿話だ。
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