「戦争マラリアとは、沖縄戦末期に日本軍の軍命により、マラリア有病地に強制的に退去(疎開)させられた一般住民がマラリアに罹(り)患(かん)し、犠牲になったことをいう」(『沖縄県史各論編6沖縄戦』)
 とりわけ多くの犠牲者が出たのが八重山諸島だった。
 1945年3月、日本軍はまず、波照間島の住民に対して西表島の南風見地域への疎開命令を出した。

 南風見は以前からマラリア有病地として知られていた。住民たちは反発したものの、島にいた軍曹に「反対する者は斬る」と脅されやむなく従ったという。
 以降4月までに黒島、鳩間島からも西表へ。軍は竹富島や新城島にも同様の疎開命令を出した。
 これらの島々にマラリアはなかった。住民たちは有病地へ強制的に「避難」させられたのである。
 目的の一つは軍の食糧確保だ。八重山の人口は当時計約3万1700人。そこに計1万300人の兵士が駐屯していた。本島の戦闘激化で、島外からの輸送は絶たれていた。
 波照間出身の佐事昇さん(92)は疎開時「家畜を全て屠(と)殺(さつ)するよう命じられた」とする。家族・親族の4人をマラリアで亡くした。

 肉は軍に供出させられ、住民はほぼ着の身着のままの避難を余儀なくされた。
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 石垣、西表、小浜、与那国の各島は山間部などへの退避が命じられた。
 背景にあったのが「スパイ防止」だ。マラリア遺族で戦後「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を発足させた篠原武夫さん(84)は、戦時中、軍の命令を住民に伝えた八重山警察署の警部補の証言をこう記す。
 「米軍が上陸したら、住民が誘導して(砲台があった)於茂登山に来ることを日本軍は恐れていた」(91年2月11日付本紙)
 石垣島で疎開命令が出たのは6月初旬。避難地は集落ごとに細かく定められたが、そこはマラリア有病地だった。
 軍は八重山への駐屯に際し調査で有病地を把握していた。危険を知った上で住民を送り込んだのである。
 疎開命令は7月下旬に解除。住民の帰還は80年前のちょうど今頃9月初旬にほぼ完了したが、感染は収まらなかった。
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 八重山で地上戦はなかった。
 しかし、当時の人口の半数以上に及ぶ約1万7千人がマラリアに罹患。
死亡者は3647人に上った。死亡率は21・6%に達する。
 特効薬「キニーネ」の圧倒的な不足に加え、軍への食糧供出による栄養失調や、劣悪な避難環境がマラリア禍を悪化させたといわれる。
 遺族らは戦後補償問題を提起したが、政府は応じなかった。慰謝事業として八重山平和祈念館などが建設された経緯がある。
 「もう一つの沖縄戦」とされるマラリアの悲劇を忘れてはならない。
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