「ザ・ラスト・モーツァルト」─今回取り上げたディスクには、このようなタイトルが付されている。「ラスト=最後」はまず、指揮者・井上道義(いのうえ・みちよし)の引退直前に収録されたことによっている。

ピアノ独奏は仲道郁代(なかみち・いくよ)。彼女にとっても当録音が井上との「最後の」共演なのである。

 日本屈指の人気と実力を誇る仲道は、モーツァルトをベートーベンやショパンとともに大切なレパートリーとしてきた。協奏曲もデビュー当時から弾き続け、国内はもとより、海外においても、イギリス室内管弦楽団、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズなどのオーケストラと共演している。

 しかしながら、第20番と第23番を収めた本作が、モーツァルトのピアノ協奏曲の初録音だ。両曲はこの天才の本領たるジャンルの中でも最高峰に位置する名曲。これは、仲道が「いつか録音を」と願っていた作品の、「満を持しての」レコーディングでもある。

 日本を代表する指揮者・井上道義の「2024年いっぱいで引退する」との宣言は皆を驚かせたが、その後の精力的な活動ぶりはさらに驚異的だった。彼は日本各地のオーケストラと一期一会的な名演を繰り返し、カリスマ的な存在にまでなっていた。

 そして24年12月30日のサントリーホール公演をもって指揮台に別れを告げた。本作が録音されたのは、その直前の12月16、17日。これは井上にとって「最後の」セッション録音ともなった。

 1987年以来共演を重ねてきた仲道と井上は、2023年にオーケストラ・アンサンブル金沢及び群馬交響楽団の公演でモーツァルトのピアノ協奏曲第20番と第23番を共演し、歴史に残る名演を展開した。それが本録音実現の源となったのである。

 今回のオーケストラは「アンサンブル・アミデオ」。NHK交響楽団を中心とする在京楽団のトップ奏者などが「井上と最後の音楽作りをしたい」との思いで集った名手集団である。

 これだけスペシャルな状況で制作された本作だが、演奏自体は余分な力の抜けた自然体であり、そこがまたモーツァルトの持ち味にふさわしい。仲道はどこか淡々と、それでいて慈しむようなピアノを繊細かつ丁寧に奏で、バックも濃密にして滋味溢(あふ)れる名奏を繰り広げている。

 特に両曲の緩徐楽章(第2楽章)の哀しくも優しい味わいが印象的。まろやかでコクのある仲道のピアノは、幸せな円熟ぶりを如実に示し、雄弁ながらも柔和で清澄なバックは、井上が到達した最後の境地を表しているともいえるだろう。

 「井上最後のモーツァルト演奏」という背景が曲の本質ともマッチしたこの演奏を聴いて、名作と名演奏家の魅力をしみじみとかみしめたい。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 30からの転載】

柴田克彦(しばた・かつひこ)/ 音楽ライター、評論家。雑誌、コンサート・プログラム、CDブックレットなどへの寄稿のほか、講演や講座も受け持つ。著書に「山本直純と小澤征爾」(朝日新書)、「1曲1分でわかる!吹奏楽編曲されているクラシック名曲集」(音楽之友社)。

編集部おすすめ