日々さまざまな報道で政治家たちの発言に接していると、まともなコミュニケーションになっていない、そういう場面がどうしても気になる。コミュニケーションを弄(もてあそ)ぶ政治家たちの振る舞いを言葉の責任という観点から眺めてみると何が言えるだろうか。

ここでは、政治家が言葉の責任を弄(もてあそ)ぶ仕方には二つの類型がある、ということを指摘してみたい。一つは「言質を与えない系」、もう一つは「言質を踏み倒す系」だ。

言質を与えない系

 先日の衆院選での高市早苗総理の選挙戦略は、とにかく言質を与えない、ということであった。投票翌日(2/9)の新聞各社社説を見ると、

 「首相はこれまで、『責任ある積極財政』などのスローガンを掲げる一方で、肝心な政策の内容を具体的に語ってきたとは言い難い」(読売新聞)

 「首相は衆院解散の理由として『国論を二分するような大胆な政策』を掲げた。にもかかわらず、選挙戦では個別の政策で具体的に説明しない姿勢が目立った」(日本経済新聞)

 「首相が政策の中身の具体的な説明から逃げ続けていた」(朝日新聞)

 との言葉が並ぶ。政権幹部によれば「余計なことは言わないことが首相のリスクマネジメント」であったという(2026/2/9朝日新聞朝刊2面)。

 政策の中身を言わないことで、そもそも言質を与えない。中身がわからなければ賛成も反対もできないし(高市でいいのか、他がいいのか、人で判断せよ、というのが総理が今回の解散時に私たちに押し付けた方針であった)、そもそも言質を与えなければ、「選挙戦での政策はどうなったのか?」と後から追及されることもない。こうした態度が透けて見える。

「なんか意地悪やなあ!」

 選挙後でも、肝心のことは言わない、言質を与えない、という姿勢は変わらないようだ。総理は、ある選挙特番で「消費税減税を実現できなかったとしたらどのように責任を取るのか」と問われ、「なんか意地悪やなあ! 最初からでけへんと決めつけんといてください!」「できなかった場合とか、暗い話しないでください」と返した。

 驚いた。

もちろんインタビュアーは決めつけていない。「消費税減税を実現できなかったとしたら」という仮定の形で質問しているのだ。

 そして、もっと重要なのは、本当に責任をもって政策の実現に取り組むのか、実現できなかった場合にどう責任をとるのかを施政者に聞くのは断じて意地悪などではない、ということだ。

 それは当然の質問であり、私たち有権者にはその答えを聞く権利がある。高市総理がやったのは、相手の言葉を捻(ね)じ曲げ、相手を悪者扱いすることで、話を逸(そ)らし、聞かれたことに答えない、ということである。

 それだけではない。声を荒げ不機嫌になって見せることで、そうした当然の質問もできないようインタビュアーを萎縮させてすらいる。政策実現に対する責任という、聞いて当たり前のことすらメディアが聞くのを躊躇(ちゅうちょ)する、そうした状況を総理が作り出しつつあるのだ。言質を与えないという戦略を威圧的な手段で押し通そうとする総理の姿勢に戦慄(せんりつ)する。

威圧で質問封じの新様式

 「言質を与えない系」と言えば、ご飯論法のような論点ずらしや、〝(小泉)進次郎構文〟のような実質的な内容のない発言などがその定番である。威圧することで質問を封じるという新たな様式に今後注意すべきなのかもしれない。

 言質を与えない系の政治家の振る舞いに私たちはどう向き合えばよいのか。

メディアの役割は大きいと考える。

 今回の衆院選後の選挙特番でも、言質を与えない系の振る舞いー聞かれたことに答えないーを政治家は頻繁に見せていた。そうした政治家の応答を受けてインタビュアーは、次の話題に移ったり、あるいは中継時間切れになって中継が終わったりと、その振る舞いを正す機会は多くなかった。

 メディアが質問し、政治家がそれをはぐらかす。そしてそこでやり取りが終わる。これがメディアと政治家のやり取りのテンプレート(テンプレ)になってしまっている。

 こうした現状には変化が必要である。そのためにメディアが積極的に働きかけることはできないだろうか。政治家がはぐらかして終わりというのをテンプレにしないための具体的な方策を練ることが今求められている。僭越(せんえつ)ながらそうしたテンプレ破りのための方策を少し想像してみたい。

テンプレ破りの変化球 

 言質を与えない系のテンプレを破るには、追及のための時間や紙幅が必要になる。そのために必要な時間・紙幅をとることを番組・誌面編成で真剣に検討できないだろうか。

 そうすることで、言質を与えない系の振る舞いに直面したメディアが、「聞いたことに答えてください」「今のお話は、質問内容とは別の話です、答えたかのように誤魔化すのはやめてください」「意地悪などではありません、有権者が当然知っておくべきことをお伺いしているだけです。ちゃんと答えてください」などと言って粘り強く追及することが可能になる。

 あるいは、メディアが変化球的な応答をすることでテンプレを揺さぶる、というのも一つの選択肢かもしれない。たとえば、お馴染(なじ)みの「詳細は承知していない」「仮定の話にはお答えしかねる」「個別の事案についてはお答えできません」「訴状が届いていないのでコメントできない」といった言質を与えない系のテンプレ応答を「額面通りに受け取って返事する」というのは、テンプレ破りの変化球の一つである。 

 「本当に知らないのだとしたら、それは大問題です。そんな情報収集力しか政府にないとは考えにくいのですが…」「さまざまな仮定的な状況を想定した上で、それらに事前に対策を考えておくというのは、政府の基本的な仕事の一つですが、それをしていないということですか?」「個別の事案だからということが回答しないことの理由になるのはなぜですか?」「訴状が届いたあとでもう一度同じ質問をさせていただきます、その際はきっちりとお答えいただくと約束してください」といった返事がそれにあたる。

 政治家のテンプレ応答を額面通り受け取ることは、それが言質を取らせないための方便であるという「当たり前」を当たり前にしないということであり、そうすることでテンプレ応答がもつ言質を取らせないための手口としての働きを無効化する試みである。

 もちろん、この種のテンプレ破りをどのような場面で使うべきかの判断は重要だ。テンプレ応答は、自分自身に都合の悪い・不利な事柄について言質を与えないための方便として使われる一方、特定の予測的見解を公表することが市場や外交に大きな影響を及ぼすなど、さまざまな公共の事情に鑑みて公にすべきでない事柄を言わないための方便としても使われる。テンプレ破りで追及すべきは私利私欲に基づく前者の類の振る舞いである。場面場面で適切な選択を行えるかどうかは、メディアの腕の見せどころだ。

言質を踏み倒す系

 言質を与えない系とはまた別の政治家の振る舞いとして最近目につくのは、言質は与えるのだけれど、与えた言質を無視して好き勝手するという振る舞いだ。

要は、背負った責任を果たさず、それを踏み倒すという振る舞いである。これを「言質を踏み倒す系」と呼びたい。

 たとえば、「真摯(しんし)に受け止めます」という言葉を考えてみよう。ある提言・提案を真摯に受け止めるというのは、自分の都合の悪いことも含めてその内容に誠実に向き合い、それを自分の行動に反映させるという約束の言葉である。

 それは、その提言・提案の中から、自分に都合のいい部分だけを取り上げてその点だけを自分の行動に反映させる、ということでは断じてない。「真摯に受け止める」と言いつつも、実際の行動が後者のものに過ぎないならば、それは約束を反故(ほご)にする振る舞いとして非難に値する。

 こうした約束破りを堂々と行うのが言質を踏み倒す系の振る舞いだ。これは、お金を借りたのに返さないというのと同様の、私たちの社会生活の基礎にある基本的なルールを踏み躙(にじ)る反社会的な行いである。

 言質を踏み倒す系の振る舞いとして近年目立つのは、根拠なき放言である。一般に、何かあることを主張したー単なる憶測や個人の感想の表出でなくーのなら、そこには〝挙証責任〟が生じる。

 それは、求めに応じて発言の根拠を提示するという責任である。気に入らないメディアを「フェイクニュース!」となじり、自分が負けた選挙は「盗まれた」と無根拠に叫ぶドナルド・トランプ米大統領が、主張に伴う挙証責任を踏み倒しているということは多くの人の目に明らかであろう。

 斎藤元彦兵庫県知事は、内部通報の対応について、第三者委員会などからその違法性を指摘されているにもかかわらず、その対応が「適切・適法だった」と繰り返し主張する。他方でその根拠を示すことはない。ただただ、無根拠にそう繰り返すだけだ。斎藤知事のこうした振る舞いは、トランプ大統領の放言と同様に、言質を踏み倒す振る舞いである。

言葉の後の行動に注目 

 言質を踏み倒す系の振る舞いにどう向き合えばよいか。言質を踏み倒すというのは、言葉によって生じる言行一致の責任を蔑(ないがし)ろにする、ということだ。

 このことを踏まえると、言葉の後の行動に注目するというのが大事だ。「真摯に受け止める」という約束の言葉に相応(ふさわ)しい行動をとっているのか、「適切・適法だった」という主張に伴う挙証責任を果たしているのか、こうしたことをしっかり見定めた上で、もし実際の行動が言葉の責任に背くものであるならば、言行の不一致を客観的な一つの事実として提示する。

 相手の振る舞いにどれだけうんざりさせられようとも、愚直にこれをやり続ける。このことが言質の踏み倒しを牽制(けんせい)するための重要な第一歩になる。

ふじかわ・なおや 1980年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授。

博士(文学)。専門は言語哲学。著書に『名前に何の意味があるのか―固有名の哲学』(勁草書房)、訳書にハーマン・カペレン+ジョシュ・ディーバー『バッド・ランゲージ―悪い言葉の哲学入門』(共訳、勁草書房)、グレアム・プリースト『存在しないものに向かって―志向性の論理と形而上学』(共訳、勁草書房)などがある。近著に『誤解を招いたとしたら申し訳ないー政治の言葉/言葉の政治』(講談社)。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.14からの転載】

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