大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)にも登場が期待されている謎の浮世絵師・写楽。『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の著者・増田晶文さんは「蔦重は写楽を豪華な摺りの役者絵で売り出すが、役者の美醜までリアルに描き出し、思ったようにはヒットしなかった」という――。

※本稿は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■役者絵は蔦屋の命運をかけた大プロジェクト
蔦重(蔦屋重三郎)は一流の策士だが、かなりの慎重居士でもあった。
吉原細見にはじまり狂歌、黄表紙、美人画……いずれも一気に攻勢を仕掛けて人気爆発という成功を収めたが、それらの裏には充分な手回しがあった。
蔦重にとって役者絵進出は蔦屋耕書堂の命運をかけた大プロジェクトに他ならない。それだけに絵師の人選にはこれまで以上に力を注いだことだろう。
だが、蔦重は無名の新人を登用するという、彼らしからぬギャンブルに打って出るのだ。
蔦重が白羽の矢をたてたのは東洲斎写楽だった。
今でこそ写楽の名は「四大浮世絵師」――歌麿、北斎、広重と共に語られている。だが、寛政6(1794)年5月に写楽の役者大首絵28点が同時開板されるまで、絵師写楽の名は江戸では誰も知らなかった。何しろ、写楽はそれまで一度とて挿絵や錦絵を発表したことがなかったのだ。
もちろん、蔦重にとってこんなことは承知のうえ、それでも歌川豊国に対抗すべく強引ともいうべき売り出し作戦を敢行する。
■無名の写楽がいきなり28点の豪華版でデビュー
まず、28点がすべて大判黒雲母(きら)摺りの大首絵というのが尋常ではなかった。

雲母摺りとは雲母(うんも)あるいは貝殻の粉末を膠(にかわ)で溶いて背景を塗りつぶす手法をいう。きらきらと光り、豪奢で高級なイメージを与えてくれる。現代ならメンバーズカードやキャラクターシールなどにみられる、光を反射させるホログラム加工に相当しよう。蔦屋耕書堂が本格的に打って出る役者絵、写楽のデビュー作を雲母摺りにしたのは蔦重の発案だろう。なぜなら、歌麿の美人大首絵で雲母摺りの効果は実証済みだった――。
役者絵のバックが黒というのは新たな効果をもたらした。それは、あたかも舞台の照明が消え、役者にスポットライトというべき龕灯(がんどう)の光を当てたような劇的なシーンを演出する。写楽の役者絵を手にした江戸の民は息を吞んだ。
加えて、前述した28点という同時開板の点数が話題にならぬわけはない。蔦重はかつて歌麿の美人画で『青楼十二時』シリーズ12点を売り出しているものの、写楽の役者絵の数は破格だった。
何がそこまで蔦重を強気にしたのか――江戸の本屋連中は首を傾げたに違いない。しかし、これだけの黒雲母摺りの画が店頭に派手派手しく並べられたら、注目を浴びるのは当然のことだった。
その意味で蔦重の思惑は見事にツボにはまったわけだ。
■写楽の役者絵は注目されたが、リアルすぎて…
しかし豪奢な摺りや常識外れの一挙開板以上に衆目を集めたのは写楽の画そのものだった。
画期的、革新的、斬新、鮮烈、型破り、大胆、デフォルメ、カリカチュア……。これらは写楽の役者絵に対する今日(こんにち)の評価に他ならない。菱川師宣(ひしかわもろのぶ)を嚆矢(こうし)とする浮世絵の歴史を俯瞰することのできる、私たちが思わず漏らす感慨だ。
江戸時代の評価については以下のものがある。
「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画(えが)かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止(や)ム」
これが、当時の写楽を語るとき必ず引き合いに出される『浮世絵類考』の文言の全文。
短文ながら、これほど蔦重と写楽の役者大首絵プロジェクトの本質を衝いた文章は他にない。しかも、この達意の文を記したのが大田南畝(おおたなんぽ)というのは、蔦重との関連からいっても興味深い。
文章の前半は春章、文調以来の役者似顔絵を描いたと額面通りに解して異論はなかろう。
ただ後半は深い示唆に富んでいる。南畝がいう役者の「真」とは役者その人の真実、リアリティと受け取れよう。
とはいえ、役者絵というのはノーメイクの役者を描くのではなく、あくまで彼が扮した役柄を写す。当然、隈どりをはじめ化粧を施し、鬘(かつら)と衣装も整っている画となる。写楽もこの約束あるいは共通見解に準じて28枚の画をものした。
■忖度なしに「役者の本性」「美醜」「品格」を暴く
ところが、写楽の絵筆は浮世絵界の常識を甚だしく逸脱してしまう。それが蔦重の指示だったのか、それとも写楽の意図だったかはわからない。ただ、蔦重のプロデューサー、エディターとしてのアドバイス(もしくは干渉)と、画を具現化させた写楽のクリエイティビティとのせめぎ合いの凄まじさは想像に難くない。それほど強烈なインプレッションを残す役者絵ができあがった――いや、完成してしまった。
南畝はこれを「あまりに真を画かんとて」、役柄を超越して「あらぬさま」つまり「あまりにリアルな役者の表情」を活写し、忖度なしに「役者の本性」「美醜」「品格」などなどを暴いてしまったと指摘した。
南畝が最初の『浮世絵類考』を書き終えたのは寛政2(1790)年頃とされている。この時点で写楽はまだデビューしていないから、南畝の文章は寛政6年以降に書かれたことになる。『浮世絵類考』は版本として刊行されておらず写本として伝わってきた。ここに記した写楽評は寛政6年5月以降に書き加えられたものと考えざるを得ない。

■謎の絵師とされた写楽の本名は?
東洲斎写楽の正体は誰なのか。
現在のところ、彼が「斎藤十郎兵衛」で「八丁堀に住んだ」「阿波藩お抱えの能役者」という説は揺るぎそうにない。これは冒頭で紹介した南畝の『浮世絵類考』を根拠としている。
写楽再発見に寄与したドイツ人美術研究家ユリウス・クルトがテキストとして重用したのも『浮世絵類考』を補完するために加筆した『増補・浮世絵類考』だった。これは『浮世絵類考』に笹屋新七、京伝、曳尾庵、三馬、無名翁こと浮世絵師の渓斎英泉を経て、斎藤月岑(げっしん)らが追補していった資料だ。
書き足された順については『写楽』(中野三敏/中公新書)に詳しいので列記する。南畝の原本は寛政2(1790)年頃の執筆。寛政10年頃、新七により「絵師の師承系譜」が追加され、京伝は享和2(1802)年、曳尾庵が文化12(1815)年、文政4(1821)年の三馬ときて英泉も天保4(1833)年に追考を補した。その次が月岑の天保15年の補記。
さらに文化14年生まれで明治元(1868)年まで存命していた書籍商の達磨屋五一が所蔵していた本にも書き入れが残っている。
留意点として、南畝を含めた歴代の著者による『浮世絵類考』が版本ではなく、すべて手書きの写本だということも思い出していただきたい。
■写楽は八丁堀に住む斎藤十郎兵衛だった?
南畝は『浮世絵類考』の初作で、写楽について全文以外のことを記載しなかった。
曳尾庵も写楽のプロフィールに触れていない。最初に写楽の住まいについて記述したのは三馬だ。
「三馬按(あんずるに)、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス、半年余行ハルヽノミ」

次いで月岑が『増補・浮世絵類考』で写楽の本名にまで踏み込む。

「天明寛政年中の人 俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也――廻りに雲母を摺たるもの多し」
月岑は江戸後期の地誌として有名な『江戸名所図会』や歌舞音曲に関する『声曲類纂』といった一級の資料を書き残した人物。それだけに「斎藤十郎兵衛」で「八丁堀に住んだ」「阿波藩お抱えの能役者」の信憑性は高い。
さらに五一本の書き入れも紹介しよう。
「写楽は阿州侯の士にて、俗称を斎藤十郎兵衛といふよし、栄松斎長喜老人の話なり、周一作洲(周ハ一ニ洲ニ作ル)」
文末の「周一作洲(周ハ一ニ洲ニ作ル)」は、三馬本の「東周斎」の「周」が「洲」の誤りだとする書き入れだ。
■阿波藩お抱えの能楽師・十郎兵衛は実在した
ここに名の出た栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)は歌麿と同じ鳥山石燕門下の浮世絵師。天明から文化前期に活躍した。蔦屋耕書堂では、絶版処分を受けた唐来参和の『天下一面鏡梅鉢』の挿絵を担当したほか、遊女や仲居などをモデルとした美人画、富本正本などの挿画も手掛けている。そんな長喜だけに、蔦重あるいは耕書堂関係者から写楽の正体を聞かされていた可能性は低くあるまい。
ただ、その後「写楽は誰か?」に関して日本人はほとんど関心を払っていない。

だが、国内で写楽再発見、再評価が進むと再びこのテーマがクローズアップされ「写楽=斎藤十郎兵衛」説の裏付け調査の様相を呈した。以下、その系譜を列記しよう。
人類学者として名高い鳥居龍蔵は、昭和初年に阿波藩お抱えの喜多流能楽師でワキ方の斎藤十郎兵衛が実在したことを突き止めている。さらに昭和31(1956)年に染織書誌学研究家の後藤捷一が阿波藩文書に「御役者、五人扶持判金弐枚、斎藤十郎兵衛」の記述を発見した。鳥居、後藤とも徳島出身ということを附記しておく。
■当時の人名録に写楽の名前と住所があった
時代が少し下がって昭和52年、中野三敏が『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に浮世絵師を示す記号とともに「号写楽斎 地蔵橋」とあることを調査、公表した。
『諸家人名江戸方角分』は文政元(1818)年までに筆書されたと推定される写本で、浮世絵師をはじめ江戸の文人たちを住所、地域によって分類した人名録。
奥付には「此書歌舞伎役者瀬川富三郎所著也」「文政元年七月五日竹本氏写来 七十翁蜀山」とある。瀬川富三郎が記した手書きのものを、竹本某が写して、70歳だった南畝のもとへ持参したという来歴になっている。富三郎の名は「蔦重―写楽」プロジェクトでお馴染みだが、役者絵のモデルになったのは二代目。写本にかかわっているのは三代目富三郎だ。
さらに蜀山の名も見逃せない。蜀山とは南畝のこと、狂歌ブームの終焉と寛政の改革の締め付けで蔦重ファミリーから身を引いた彼だが……蔦重と南畝の因縁も浅からぬものがある。
ただ、三代目富三郎は「斎藤十郎兵衛」の名と「阿波藩の能役者」の役職を明記しなかった。

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増田 晶文(ますだ・まさふみ)

作家

1960年大阪府生まれ。同志社大学法学部法律学科卒業。1998年に『果てなき渇望』でNumberスポーツノンフィクション新人賞受賞。歴史関係の著作に『稀代の本屋 蔦屋重三郎』、『絵師の魂 渓斎英泉』、『楠木正成 河内熱風録』(以上、草思社)、『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)がある。

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(作家 増田 晶文)
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