※本稿は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■戦後に進展した「写楽」の正体をめぐる研究
昭和56(1981)年、浮世絵研究家の内田千鶴子が、さらに写楽の本名と記録された斎藤十郎兵衛の身元を調べ上げ、彼の実在を確固たるものにした。文化7(1810)年刊行の『猿楽分限帳』と『重修猿楽伝記』に斎藤十郎兵衛に関する記載を見出したのは彼女の功績だ。内田には『評伝能役者斎藤十郎兵衛』(緑の笛豆本の会)を筆頭に『写楽・考』(三一書房)、『写楽を追え』(イースト・プレス)など「写楽=斎藤十郎兵衛」を追究した著作がある。
平成9(1997)年には、埼玉県越谷市にある浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に斎藤十郎兵衛の記録が残されていることが判明した。調査したのは特定非営利活動法人「写楽の会」のメンバー。法光寺は江戸時代には築地にあり平成5年に当地へ移転している。過去帳には「八町堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良兵衛事」が「辰(文政三年/一八二〇)三月七日」に「五十八歳」で没したことが記されている。
斎藤十郎兵衛が写楽であることを隠し通そうとした理由については、当時の浮世絵師の社会的立場、歌舞伎役者をモデルにした事々との関係で説明されている。
十郎兵衛は能役者でありながら阿波藩の下級士分に取り立てられていた。そういう身分の者が、寛政の改革で厳しい規制の対象となっている浮世絵、さらには幕府から眼をつけられている蔦重と深い関係にあるとは公表しづらいことだった。
■下級士分で、隠れて浮世絵を描く必要があった
浮世絵師が「画工」と職人扱いされ、琳派や狩野派、土佐派など幕府、朝廷御用達のオーセンティックな御用絵師とは区別されていたこともある。
これらの事由が交錯し、十郎兵衛当人はもちろん、蔦重も写楽の正体については頑なに口をつぐんだのは想像に難くない。前の記事で述べた『諸家人名江戸方角分』で三代目富三郎が「斎藤十郎兵衛」「阿波藩の能役者」に触れなかったのも同じ理由からの、「写楽=十郎兵衛」に対する配慮だろう。
写楽の活動期間の短さについては、内田が能役者としての活動が約1年ごとの交代制だったことを指摘している。阿波藩の能役者は舞台に上がらない期間、割と自由な行動が許容されていたようだ。蔦重はそれを見込んで写楽に浮世絵を描かせたということになる。
もし写楽の画が大ヒット、未曾有のセールスを記録していれば蔦重は黙っていなかっただろう。1年の活動休止を経て再び写楽に絵筆を持たせたはず――でも、それは果たせぬ夢だった。
世間は写楽より初代歌川豊国の役者絵を支持したし、蔦重も寛政8(1796)年の秋頃から持病が悪化、本屋としての活動をペースダウンせざるを得なかった。
■写楽が豊国など他の絵師の別名だったとする説
「写楽=斎藤十郎兵衛」説は決定打と思われるのだが、それでも異を唱える声が百出している。
阿波藩の能楽師に代わって、豊国や歌舞妓堂艶鏡、北斎、歌麿らの浮世絵師、司馬江漢に谷文晁、円山応挙らの絵師、洋風画家の土井有隣たちが写楽の正体に擬せられてきた。蔦重と密接な関係にあったうえ絵師としても卓越した京伝、器用に挿画をこなした十返舎一九も然り。
梅原猛は「梅原日本学」というべき知の大地を切り開いた巨人だが、彼は『写楽 仮名の悲劇』(新潮社)で写楽を豊国とした。歌舞伎研究家で批評家の渡辺保は『東洲斎写楽』(講談社)で芝居作者篠田金治とする。この二冊は写楽の正体探訪という面だけでなく時代背景や芝居の世界の実情を知る一助ともなろう。
■他の絵師説や蔦重説にはなんの根拠もない
もっとも写楽探しが諸説紛々なのは、知的なエンタテインメントとして写楽の謎と神秘性を愉しむという趣向ゆえ、というわけにもいかない。例えば、月岑の記した「写楽の本名」「住まい」「職業」が写楽活動期から半世紀も後のことだから信憑性に欠ける、という指摘がある。資料が版本ではなく手書きの写本ゆえ改竄(かいざん)の可能性が否めないとの声も根強い。確かに江戸期の資料には疑義を差し挟むだけの弱点がある。
斎藤十郎兵衛が自分は写楽だと明言している文献はどこにもない――というのにも一理はあろう(かといって、写楽に擬せられた豊国以下の面々も己が写楽だと吐露はしていない)。
■時期により絵柄が違うため「写楽複数人説」も
さらには「写楽複数人説」もある。
『蔦屋重三郎』を書いた松木寛(元東京都美術館学芸員)は同書および『浮世絵八華4 写楽』(平凡社)収録の「写楽の謎と鍵」で、写楽第一期から第二期、第三期の細判作品と第三期の間判大首絵の間には「人物と画面の大きさの比率、眼や眉の描き方など、細かな部分での相違点」があり、「まさしく〝似て非なる〟と表現すべきほどの、本質的なズレがはっきりと認められる」と指摘した。
松木は加えて「耳」の描き方が「浮世絵師の『個性的形態本能』の産物」と主張、「第一期から第四期までの役者絵では、二、三の例外を除いて全く同一描法で耳を描いているのが確かめられる」との見解を示した。
■絵師特有のクセが出る人物画の顔のパーツ
しかし松木が問題視するのは「第三期の間判大首絵の耳の場合」で、「間判大首絵だけがこの例から外れている」とする。これらには三代目沢村宗十郎、二代目中村仲蔵、二代目坂東三津五郎、三代目瀬川菊之丞、二代目嵐龍蔵などの似顔絵が該当しよう。
さらに彼は相撲絵も俎上(そじょう)に載せた。三枚続きの『大童山の土俵入り』と『大童山文五郎の碁盤上げ』(編集部注:前ページ参照)をはじめとする他の相撲絵では耳の描法が異なっている。そればかりか後者の相撲絵の耳は第三期の間判大首絵と「全く同じ手口で描かれている」と断じた。
松木の結論はこうだ。
「第三期の間判大首絵と三種類の相撲絵は、写楽の真作ではなかったのである」
だが、「間判大首絵は後世に作られた偽物ではない」、つまり蔦屋耕書堂が開板した作品に「間違いない」。
蔦重が開板した写楽の画には、写楽当人だけでなく他の者の画も混じっていたということになる。この説に前記した写楽に擬せられた面々を重ねると――写楽をめぐる謎はますます深くなってくる。
■蔦重はどうやって写楽を見出したのか?
とにかく「写楽」は大きなテーマ。だからこそ、高名な研究家や作家が一冊をものしてきた。
もうひとつ「蔦重がどうやって写楽を見出したのか?」という疑問も残る。
この点でも数多くの作家や研究者が諸説を展開しているわけだが――。
自著で恐縮だが、私は『稀代の本屋 蔦屋重三郎』において、蔦重が「世にうずもれた偉才をみつけだしたい」と役者似顔絵を募る、という虚構を考えた。そのなかに喜多流能楽師ワキ方の「おどろおどろしいまでの描写、粗野な線の運び。対象人物がもっとも嫌がるものの、いちばんその御仁らしい特徴を容赦なくついている」一枚の絵をみつけたという設定だ。もとより寛政期に公募の浮世絵コンテストがあるわけがない。あくまで小説の世界の「戯家(たわけ)」とご理解いただきたい。
■写楽には他の絵師にはない強烈な個性があった
ただ、蔦重が写楽を登用したのには「例のない筆づかいだからこそ蔦屋で描いてもらう」という想いがあったからこそ。「既存の絵師ではない人物」に絵筆を持たせれば江戸中の話題を呼ぶことも自明のこと。それをなさしめたのは、蔦重の「無名画工の絵心を磨き、世に広めるのが本屋の手腕」という自負と実績に他ならない。
公募やオーディション案はさておき、蔦重が奇跡的に写楽と出くわしたというのは、「ある」とも「ない」とも判断が難しい。
蔦重の広範な文人ネットワークの片隅に写楽がいた、あるいはメンバーからの紹介というのは否定できない。だがそのことを肯定しようにも、例えばいくつもあった狂歌連に斎藤十郎兵衛がいたという事実は今のところ実証されていない。
とはいえ蔦重のネットワークに能楽や狂言関係者がいないというのも考えにくい。現に戯作者の芝全交は水戸藩出仕の狂言師の養子だ。全交は天明5(1785)年に蔦屋耕書堂から『大悲千禄本(だいひのせんろっぽん)』の大ヒットを飛ばしている。
もっとも狂言師というキーワードだけで阿波藩の能楽師に繫げるのは無理筋というものだろう。
浅学かつ寡聞にして、写楽関連の書籍や資料をすべて読破できていない私としては、過去のみならず今後も登場するかもしれない新説を含め諸氏の推察に敬意を払うしかない。
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増田 晶文(ますだ・まさふみ)
作家
1960年大阪府生まれ。同志社大学法学部法律学科卒業。1998年に『果てなき渇望』でNumberスポーツノンフィクション新人賞受賞。歴史関係の著作に『稀代の本屋 蔦屋重三郎』、『絵師の魂 渓斎英泉』、『楠木正成 河内熱風録』(以上、草思社)、『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)がある。
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(作家 増田 晶文)