2024年7月、英国では前代未聞の法律が本格施行された。オンラインサービスを提供するすべての事業者に対し、ユーザーが何歳であるかを厳密に確認することを義務づける――それが「オンライン安全法(Online Safety Act 2023)」だ。
対象はX(旧Twitter)、Facebook、YouTube、TikTokといった巨大SNSだけではない。掲示板、ゲーム配信、同人サイトや趣味のコミュニティまで、ユーザー同士がやりとりできるサービスはほぼすべてが網にかかる。イギリスの調査によれば、その数は実に10万を超える。
この法律が反発を呼んでいるのは、これらのサイトで年齢確認を必須としたこと。年齢確認といっても「あなたは18歳以上ですか?」に、イエスノーをクリックするだけではない。サイトごとに、パスポートや運転免許証のアップロードや顔認証アプリで自分の身元を提示しなければならなくなった。事実上の「ネット実名制」である。
実際に今、英国からアクセスすると、YouTubeではパスポートや運転免許証、顔認証、クレジットカードなどで年齢を証明せよという画面が表示され、入力しないとアクセスが制限される。掲示板型SNSのRedditでは「あなたは18歳以上ですか?」という認証手続きが出て、IDやセルフィー(自撮り)を使った年齢証明を求められる。
建前上は「未成年に相応しくないコンテンツ」のみが対象とされているが、アダルトだけではない。イスラエルのガザ侵攻やウクライナ戦争、移民問題、議会討論など政治・社会に関わるテーマまで制限が及ぶケースが報告されている。法律が有害コンテンツを広く定義しており、プラットフォーム側が巨額の罰金を恐れて安全策として投稿を一括でブロックしているためだ。
SNSの悪質な書き込みだけではなく、ウィキペディアまでもを対象とする厳格さに、国内外からは「事実上のネット検閲」「自由主義国の自己否定」との批判が殺到。英国社会は、街頭の反移民デモに揺れる一方で、ネット空間でも前例のない統制の波に包まれようとしている。
■36億円の罰金ルール
そして、その法の適用範囲はイギリスに関連するあらゆるサービスとされている。サービス提供企業の所在地は問われない。つまり、アメリカに本社を置くXやFacebookも対象だ。
この法律により、イギリスでは匿名でのインターネット利用は事実上不可能となったといえるだろう。
さらにオンライン安全法では、違反企業に対して年間売上高の最大10%または1800万ポンド(約36億円)という巨額の制裁金を設定、多くのテック企業は法律に従うか、イギリスでのサービス提供を諦めるかの選択を迫られている。
これに対して反発は世界に広がっている。反対の声は多岐にわたり、「表現の自由の侵害」「プライバシーの侵害」を挙げる人権団体から、「マンガやアニメ、成人向けコンテンツが閲覧できなくなる」と懸念するコンテンツ愛好者、さらには「移民批判がヘイトスピーチとして封じられる恐れがある」と主張する政治活動家まで、異なる動機を持つ層が結集している状況だ。
議会に対してオンラインで請願ができるイギリスでは、法律の見直しを求める署名が53万筆を超えたが、 イギリス政府は一蹴。科学・技術・イノベーション省のピーター・カイル大臣は「同法の廃止を求めるのなら、加害者の味方である」とXに投稿し 、真っ向から対決する姿勢を示している。
■イーロン・マスクが「ネット検閲」と激怒
多くのテック企業の拠点があるアメリカでは、特に反発が強い。
Xを所有するイーロン・マスク氏はオンライン安全法をたびたび非難。さらに、9月3日には米下院司法委員会が『ヨーロッパによるアメリカの言論と革新への脅威』と題する公聴会を開催。
委員会は公聴会の趣旨として、英国オンライン安全法とEUデジタルサービス法が『アメリカ人のオンライン言論の自由の権利を脅かしている』と明記し、リフォームUKのナイジェル・ファラージ下院議員らを証人として招いた。
西側諸国では、イギリスがあたかも「中露のようなネット検閲社会という闇に堕ちた」とみられているのだ。
では、なぜイギリスはここまで強力な法律を作ったのか。
この法律の制度設計を行ったのが、エセックス大学のローナ・ウッズ教授だ。ウッズ教授は、インターネット法教授としてメディア・通信規制分野の研究に従事、2020年にはインターネット安全政策への貢献が認められ、OBE(大英帝国勲章オフィサー)を受勲している。その教授が2019年にまとめた政策提言書「オンライン害削減──法定注意義務と規制機関(Online harm reduction -- a statutory duty of care and regulator)」が、オンライン安全法の基盤となっている。
■「それは検閲ではない」設計者への独占インタビュー
筆者の取材に対して、ウッズ教授は開口一番、こう告げた。
「これは検閲ではありません」
ウッズ教授は、従来のようなコンテンツベースの規制、すなわち暴力やポルノ、ヘイトスピーチなどを発見しては削除要請するのは現実的ではないとする。XやTikTokには毎日何十億件もの投稿がある。そうした中で問題のある投稿が拡散してから発見し削除要請する事後対応は「コンテンツの規模と変化の速度を考えると実用的ではない」というわけだ。
そこで、ウッズ教授は提言したのが、あらゆるネットサービスの設計段階で、そうした投稿が行われることを排除する仕組みをつくるということだ。
「特定のコンテンツ項目や議論のトピックを対象としているのではなく、サービスが問題を増幅または悪化させる可能性のある方法を対象としているのだから検閲にはなりません。むしろ、コンテンツ中立的といえるでしょう」
取材の中で、事例として挙げたのは、2017年11月のFacebook(現・Meta)共同創設者・ショーン・パーカーの告発だ。これはフィラデルフィアで行われた講演の中で語られたもので、パーカーはユーザーが写真や投稿に『いいね』やコメントをするたびに、ドーパミンを放出させ、できるだけ多くの時間と意識的注意を消費するように仕向けて設計をしていたとし「私たちはこれを意識的に理解していた。それでもやったのだ」と述べている。
■14歳少女の自殺が英国を変えた
そうした設計上の問題が放置された結果、イギリスは日本よりも深刻な事態に陥ってきた。
「とりわけオンライン安全法の成立に向けて多くのグループの結束を促したのは、2017年のモリー・ラッセルという14歳の少女の自殺でした。彼女はInstagramで自傷行為や自殺に関するコンテンツを閲覧していたことが判明しました。2022年の検視では『ネット上のコンテンツが彼女の死に関与した』と結論づけられ、英国社会に大きな衝撃を与えたのです」
こうした事件が繰り返される中で、イギリスでは様々なネットサービスへの耽溺が、暴力や自殺の扇動、個人・マイノリティに対する集団的な嫌がらせなどを引き起こし、社会を殺伐にさせているのは共通認識になっている。だが、テック企業にはそれを改善する意識は希薄だ。
「企業に任せていても、利用者の安全は守られません。利益を追求する企業が、自ら収益源となるシステムを変えることは期待できないのです。
■巨大IT企業に自浄作用はあるのか
では、なぜテック企業には自浄作用が期待できないのか。この問題を分析しているのが、国際政治学者であるアメリカ、ジョージタウン大学のアブラハム・ニューマン教授だ。
ニューマン教授はジョンズ・ホプキンス大学のヘンリー・ファレル教授との共著『Underground Empire: How America Weaponized the World Economy』(昨年『武器化する経済 アメリカはいかにして世界経済を脅しの道具にしたのか』のタイトルで日経BPから邦訳)で、アメリカがいかにして世界経済を支配の道具として利用してきたかを詳しく分析している人物だ。
ここでニューマン教授が語るのは「武器化された相互依存」と呼ばれる概念だ。筆者の取材に対して、ニューマン教授は自身の理論の核を端的に語ってくれた。
「私たちは何十年もの間、グローバル化のネットワークが市場活動を分散化し、その結果として国家権力を無力化すると教えられてきました。しかし実際には、重要な市場を見渡すと、経済活動はしばしば少数の主要企業の手に集中しています」
教授が挙げる具体例は身近なものばかりだ。モバイルOSではAppleとGoogle、高性能半導体ではTSMCとSamsung、消費者向け決済ではVisa、Mastercard、PayPalといった具合に、各分野で圧倒的な支配力を持つ企業が存在する。
「この経済活動の集中化は、国家に新たな統制手段を与えます。国家は個々の市民を監視・制裁する必要がなく、代わりにネットワークの中心的プレイヤーを活用して活動を監視・監督したり、特定の行為者をネットワークから排除したりできるのです」
そしてニューマン教授は「重要なのは、民間企業が国家による強制の最前線兵士となることです」だとするのだ。
■アメリカ主導のデジタル支配への対抗
この構造こそが、なぜテック企業に自浄作用が期待できないかの答えだ。
アメリカが国際銀行間通信協会(SWIFT)、決済システム(Visa、Mastercard)、検索・広告(Google)、SNS(Meta、X)、さらにはAWSなどのクラウドサービスといったデジタルインフラの中核を支配している現在、テック企業はアメリカの価値観と利益に従って行動する。
そして、映画や音楽、ポルノまで世界中の市場で同一の基準を適用すれば、企業は運営コストを削減し利益を最大化できる、ゆえにテック企業に自浄作用は働かない。
オンライン安全法の本質は、こうしたアメリカ主導のデジタル支配への対抗にあるのだ。
これにもっとも対抗しているのは、アクセス制限や検閲を駆使する中国やロシアである。ゆえに、テック企業の自浄作用が期待されないならば、西側諸国のネット政策も中露型にならざるを得ないのだろうか。そんな筆者の問いにニューマン教授は、こう答えた。
「私たちは通常、国家が他国を制裁するためにこの経済構造をどう悪用するかを研究しています。ところが年齢認証の問題では、国家が自国の市場統制に同じ手法を使い始めているのです」
■自由を守る西側で「ネットの内戦」が始まった
つまり、アメリカが対ロシア制裁でSWIFTから排除したのと同じ論理で、英国は今度は自国内のデジタル市場からアメリカ企業の影響力を排除しようとしている。外交の武器として開発された「経済の武器化」が、今度は国内政策の道具として使われているということだ。
この数年ウクライナをめぐって対ロシアで結束してきた西側同盟国が、今度はデジタル空間で「内戦」を始めているのだ。
そして、この内戦はイギリスとアメリカ間だけのものではない。EUでは既にデジタル市場法(DMA)とデジタルサービス法(DSA)によってプラットフォーム規制を強化している。
また、フランスでは、Netflixなど大手有料動画配信事業者に対し、フランス及びヨーロッパでのコンテンツ制作にフランス国内での年間売り上げの少なくとも20%を投資することを義務づけている。ドイツでは「ネットワーク執行法」によりSNSに対して透明性を要求している。
■「自由な空間」は限界を迎えている
これに対してアメリカでは、前述のオンライン安全法に対する公聴会が開催され、イギリスを非難したり、アメリカを拠点とする匿名掲示板4chanは法施行を受けて英国での運営を停止、組織的嫌がらせで悪名高いKiwi Farmsは規制当局への挑発的な対応を続けている。
そしてSNSでは様々な国籍のネットユーザーたちが「表現の自由」を掲げて、中露化した規制を非難したり、移民などに対する攻撃的な言説を繰り広げている。
なんとも混沌とした状況だが、明らかなのは「自由市場に任せると危険」という発想が広がっていることだ。少なくとも、もはやインターネットは自由な空間であり、あらゆる規制に対抗すべきという主張はもはや通用しない。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)