横浜市営地下鉄ブルーライン・中田駅から徒歩2分。横浜市泉区の閑静な住宅街に一軒の人気味噌ラーメン店がある。
新潟県妙高市出身の店主・柴田雅大さんが、故郷で愛される味噌ラーメンを首都圏に広めたいと作ったお店だ。店に入ると、ほっと心が温まるような味噌の香りが漂う。その一杯を求めて足繁く通う常連客も数多い。いまや地域に欠かせない名店だが、店主・雅大さんの歩みは決して平坦ではなかった。
雅大さんは2歳のときに両親が離婚。母とともに妙高市から横浜に移り住む。幼い頃の記憶はほとんど残っていないが、夏休みや冬休みに親戚を訪ねて帰省するたび、新潟が心のよりどころとなっていった。
「夏が終わると『次は冬に来よう』って約束して、また学校を頑張るんです。あの繰り返しが、自分にとって新潟を“故郷”にしてくれたんでしょうね」(雅大さん)
離れているからこそ募る故郷への想い。やがて「新潟の魅力を広く伝えたい」という気持ちは人生の指針となった。
■料理未経験で有名店の門戸を叩いた
雅大さんは20歳の頃に人生の目標を立てる。
専門学校卒業後は旅行会社に就職し、安定した会社員生活を送っていた。しかし20代半ばで「自分にしかできないことをやりたい」と考え、退職を決意する。
候補に挙がったのは、都内にある新潟のアンテナショップや行政関連の仕事だったが、心を強く惹きつけたのは一杯のラーメンだった。
それは妙高では知らない者のいない有名店「食堂ミサ」の味噌ラーメンだった。子どもの頃から親しんだその味を、首都圏で広めたいと思った。料理経験は皆無だったが、25歳で思い切って「ミサ」に飛び込み修行を始めた。
「最初はレシピを覚えたらすぐに辞めようと思っていましたが、実際やってみるとラーメン作りが面白くて、自分が意外と職人気質だということに気づいたんです。
厨房は大きな工場みたいで、お客さんの顔も見えない。だけど営業職の経験から“対価をいただく以上、感謝を伝えることが大事だ”と思い、厨房の中からでも必死に声を出していました」(雅大さん)
■ラーメン店なのに常連客がラーメンを頼まない
2年半の修行を経て独立を決意。「ミサ」の味を継承する店を開こうと物件を探し始めた。
場所に選んだのは、縁のあった横浜・中田。
「オープン景気で1~2カ月はお客さんがたくさん来て、これはいけると思っていましたが、そこから一気に転落しました。一日昼夜で23人しか来ない日もありました。
夜は居酒屋みたいにして、そこで出すラーメンを常連さんに食べてもらい、意見を聞いて……そんな毎日でした。ただ、ラーメン屋なのに当時出していたギョーザとビールしか頼まれなかった時は、内心とても悔しい思いをしましたね」(雅大さん)
流行の最先端を追いかけるあまり、味を足し算しすぎて迷走し「毎月味が違う」と言われることもあった。だが次第に、自分がやるべきは「ミサ」の原点にある素朴で力強い味噌ラーメンを都会で再現することだと気づく。無駄な装飾を削ぎ落とし、引き算を学んだことで、「雪ぐに」の味は定まり始めた。
「いい食材を求め、スープの材料を増やしていくうち、どんどん『ミサ』からかけ離れていたんです。それでは自分の求めるラーメンじゃない。必要なものだけを見極めるようになりました。
■「看板娘」として支えた妻・輝子さんとの出会い
どれだけ客が少なくても諦めず続けて来られたのは、現在の妻・輝子さんの存在が限りなく大きい。輝子さんは高校時代からの友人で、「雪ぐに」がオープンした頃は近くの居酒屋で働いていた。ある時客として訪れた雪ぐにで雅大さんの母がお店を手伝っているのを見た輝子さんは「私働きます」と言ってスタッフとして加わった。
明るい笑顔と人懐っこさで、お客さんとの会話を自然に盛り上げてくれる存在だった。
「自分は厨房で黙々と作業してしまうので、お客さんとの距離ができてしまう。そこを彼女が埋めてくれた。正直、彼女がいなければ『雪ぐに』は成り立っていなかったと思います」(雅大さん)
輝子さんは当時、「会社を辞めて俺ラーメン屋になるわ」と新潟に出ていった雅大さんを見ていた。
「『本当にラーメン屋さんになったんだ』と感動しましたね。私は父子家庭で、やりたいこともなく過ごしてきました。彼がまっすぐに自分の夢に挑戦している姿がまぶしく見えました」(輝子さん)
輝子さんは店にお客さんのいない苦しい時も毎日笑顔で接客し、雅大さんを励まし続けてきた。
「でも、恋愛感情はなかったんです。まさか結婚するなんて、当時は思ってもいませんでした」(雅大さん)
転機は母の一言がきっかけだった。
■「美味しいから大丈夫」と支え続けてくれた最愛の人
「ある日、母から『もっとスタッフを雇ったほうがいい』と言われたんです。『輝子ちゃんもいつか結婚していなくなっちゃうかもしれないんだから』って。それを聞いた瞬間に『嫌だ』と思ったんです。
彼女は店が苦労した時期も毎日『美味しいから大丈夫』と励まし、支え続けてくれました。その時点で彼女は自分にとって絶対に必要な人になっていたことに気づいたんです」(雅大さん)
こうして二人は交際の末、結婚する。輝子さんはこう振り返る。
「最初は友達として手伝っていただけでしたが、『雪ぐに』に出勤するのが楽しかったし、共に成長している感覚がありました。そして結婚して子どもが生まれてからは、“私もラーメン屋の人生を歩むんだ”って覚悟ができました」(輝子さん)
■「豆腐メンタル」の夫を「どうにかなるさ」の精神で支える妻
すぐにクヨクヨ悩む“豆腐メンタル”の雅大さんを「どうにかなるさ」の広い心で受け止めてきた輝子さん。ここから夫婦の二人三脚で、「雪ぐに」は地域に根づいていった。
開業から3年ほどは苦しい時期が続いたが、味が安定してからは次第に評判が広がり、行列ができるようになった。輝子さんが妊娠した際も、つわりで苦しい時は製麺室で横になりながらも自分の意思で厨房に立ち続け、「お店の顔」であり続けた。メディアにも取り上げられるようになり、業界内の仲間との交流も深まった。
「最先端のきらびやかなラーメンじゃない。でも素朴で、どこか懐かしい味。それが自分の軸だと気づけたのは、常連さんたちのおかげです」(雅大さん)
■新潟の味を横浜から広めていきたい
現在の「雪ぐに」は、夫婦とスタッフで切り盛りしながら、地域に欠かせない存在になっている。地元の子どもたちの職業体験も積極的に受け入れ、店は小さな学びの場にもなっている。その根底にあるのは、やはり新潟への想いだ。
「離れて暮らしていたからこそ、故郷が心の中で大きくなりました。これからも新潟の味を、横浜から広めていきたい。それが若い世代に広がっていけば、僕たちも幸せだと思えるんです。
僕の娘たちが将来『雪ぐに』でバイトしてくれたら嬉しいなと思ってます。これからも頑張って地域のソウルフードになっていきたいです」(雅大さん)
そして傍らには、いつも輝子さんの姿がある。
「彼女には本当に感謝しています。
笑いながらそう語る雅大さんに、輝子さんは少し照れくさそうに微笑む。
「『雪ぐに』がここまで大きくなったのは、彼が真面目に頑張ってきた証しです。彼は起きている時間はラーメンのことしか考えていないような人。自分に嘘をつかずに決めたことは必ずやり遂げる人です。人として尊敬していますし、彼じゃなければここまで来られなかったと思います」(輝子さん)
横浜の地で、夫婦の確かな絆で築き上げた「雪ぐに」の絶品の一杯。これからもお客さん一人ひとりに新潟への郷土愛を届けていく。
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井手隊長(いでたいちょう)
ラーメンライター、ミュージシャン
全国47都道府県のラーメンを食べ歩くラーメンライター。東洋経済オンライン、AERA dot.など連載のほか、テレビ番組出演・監修、コンテスト審査員、イベントMCなどで活躍中。自身のインターネット番組、ブログ、Twitter、Facebookなどでも定期的にラーメン情報を発信。ミュージシャンとして、サザンオールスターズのトリビュートバンド「井手隊長バンド」や、昭和歌謡・オールディーズユニット「フカイデカフェ」でも活動。
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(ラーメンライター、ミュージシャン 井手隊長)