1997年に倒産し、日本から姿を消した老舗文具ブランド「コーリン鉛筆」。その国産鉛筆が、いまタイで独自の進化を遂げ、国民的ブランドとして親しまれている。
■日本から消えた「鉛筆ブランド」がタイで大人気に
「コーリン鉛筆って知ってる?」
筆者の問いに、タイ人の友人は懐かしそうに笑った。
「あぁ、赤い箱のやつ! 小学校でよく使ってたよ」
三角顔のロゴで知られる「コーリン鉛筆」。かつて日本の小学生に親しまれたこのブランドは、1997年に負債70億円を抱えて経営破綻し、日本市場から姿を消した。
ところがその後、海を越えたタイで“定番ブランド”として生き延びていた。図工の時間になると、タイの子供たちは赤や青の鉛筆を握りしめ、夢中で紙いっぱいに色を広げている。
かつて三菱鉛筆、トンボ鉛筆に次ぐ業界第3位のシェアを誇った老舗メーカーは、なぜ異国の地で蘇り、独自の進化を遂げたのか――。その舞台裏には、倒産後も現場に踏みとどまった一人の社員・井口英明の執念と20年にわたる再建のドラマがあった。
■破天荒な若手社員だった「復活のキーマン」
井口とコーリン鉛筆の縁は、大学時代にさかのぼる。アジアを旅する途中、バンコクの雑踏に立ち止まった。
1989年、バブルに沸く日本。24歳で就職したのは、1916年創業の老舗メーカー「コーリン鉛筆」だった。鉛筆に興味はなかったが、「タイ工場立ち上げ要員募集」の一行が決め手になった。当時のコーリンは従業員200人ほどの中堅ながら、文具業界で先陣を切って海外進出に挑んでいた。
井口は英語力を買われ、本社(東京・東新小岩)の貿易課に配属される。だが奔放で、上司の指示もお構いなし。昼休みには7キロのランニングに飛び出し、午後の始業に間に合わないこともしばしば。仕事そっちのけでトレーニングに熱を上げる新人に周囲は手を焼き、わずか3カ月で茨城の水海道工場に異動になった。
ここで、思わぬ適性が芽を出す。工場に足を踏み入れた瞬間、機械の唸りと木を削る香りに包まれ、幼い頃からの機械好きが蘇った。井口はたちまち鉛筆づくりの世界にのめり込み、貪るように技術を学んでいった。
一方で、その働きぶりは破天荒そのものだった。40フィートのコンテナの横で大音量の音楽を流し、短パン姿でビールを片手に資材を運び込む。ひと仕事終えるとホースで水を浴び、工場の屋根で昼寝をする――。その豪快さから、周囲には「荷運びなら井口だ」と一目置かれる存在だった。
■工場長と衝突して強制帰国
1990年12月。念願のタイ赴任に胸を躍らせ、井口はバンコク近郊サムットプラカーン県の工場地帯に降り立った。製造技術を身につけた彼を、会社は「戦力になる」と送り出していた。
日本・タイ・台湾の三社合弁で設立されたタイ工場。現地に到着して、井口は唖然とした。コンクリートの匂いが立ち込める真新しい床に並んでいたのは、見たこともないアメリカ製や韓国製の機械が数台だけ。停電や断水は日常茶飯事で、製造ラインはまともに動いていなかった。
任務は「貿易部門の立ち上げ」。
「勝手な真似をするな!」
「一体いつになったら動き出すんですか!」
井口も食ってかかり、両者は激しく衝突。夢見たタイ生活は、工場長との大喧嘩で早くも居場所を失う。わずか1年足らずで帰国を余儀なくされた。
■諦められず、再びタイへ
井口が早々に戻ってきたことに、本社の経営陣も社員も驚いた。賃貸アパートはすでに引き払い、帰る場所もない。そこで井口は、本社上階の会長室に勝手に寝泊まりし、社内ホームレスさながらの生活を送った。
夕方になると「お疲れさまです」と他の社員と一緒に退社するふりをし、夜中に窓から戻り、会長室に布団を敷いて眠る。レンタルショップで借りたビデオを観たり、銭湯が閉まった夜はシンクで足湯をしたり――そんな日々が続いた。
ある晩、忘れ物を取りに戻った部長が、会長室から漏れるビデオの音に気づく。
「一体何をしているんだ!」
問い詰められた井口は、「そっちこそ何なんですか!」と逆ギレ。その裏には、仕事も居場所も失った彼なりの訴えがにじんでいた。それでも諦めず、「もう一度タイで勝負したい」と主張し続ける。やがて専務の計らいで、ODA(政府開発援助)の海外技術者派遣制度を活用する道が開かれた。
語学と技術の試験に合格し、1992年春。井口は再びタイへ向かった。
■技術で信頼を勝ち取る
タイ工場に復帰後、最初に挑んだのは、木軸に文字やイラストを印刷する「オフセット印刷機」の修理だった。
全長4メートルの印刷機は、海外製の中古で設計図もなく、誰も動かせぬまま倉庫の隅で埃をかぶっていた。
「無理だ」と首を振る声を背に、井口は汗だくで分解に挑んだ。錆にまみれた金属ローラーを磨き、劣化したゴムを取り替え、日本から取り寄せた部品を組み込み、電気系統の不具合を解消していく。
1か月半後。
そこからは修繕の日々。木を削り、芯を組み込み、塗装し、ロゴを印字する――。いくつもの装置がかみ合ってこそ、一本の鉛筆は生まれる。どれか一台でも止まれば生産は立ち行かない。
井口は、止まっていた製造ラインを一つずつ動かし、安定的に稼働させていった。
翌年、鉛筆の年間販売本数は1700万本に達し、わずか1年で3倍に急増。日本向けの大口出荷にも応えられるようになり、周囲の目は一変した。
「この男、本気だ……」
1993年12月、タイの経営陣は「現場を動かしているのは井口だろう」と認め、日本人工場長を更迭した。井口は新たな工場長として製造の指揮を委ねられた。
夜は街の食堂でスタッフと杯を重ね、流暢なタイ語で冗談を飛ばす。いつしか輪の中心に立ち、連帯感が芽生えていった。
赴任から7年。順風に見えたその裏で、本社からの給与は滞り、技術支援も途絶えていた。水面下では、崩壊の足音がすでに忍び寄っていた。
■突然の一報、会社が倒産
1997年3月、乾季の穏やかな青空の下。サムットプラカーン県の工場オフィスに、一本の電話が鳴った。
「大変だ。会社が潰れた!」
受話器を握った井口の背筋に、冷たいものが走る。7年かけてタイで築き上げてきた技術と信頼。ようやく軌道に乗り始めてきた矢先だった。
数日後、慌てて帰国した井口が東京本社に到着すると、そこには大勢の債権者が詰めかけ、説明会の会場は怒号と罵声で揺れていた。彼は足元が崩れ落ちるような感覚に襲われ、そこで「再建はもはや不可能だ」と悟った。
混乱を極めるオフィスの片隅で、必死に考えを巡らせる。
「コーリンの海外展開は本社経由だ。このままでは販路が途絶える。いや、それだけじゃない。出向社員の自分たちこそ、真っ先に切り捨てられる……」
井口はひらめく。
「製品を海外に輸出する権利さえあれば、まだ望みはある」
そのまま社長室に飛び込み、オフィスの片隅で作成した契約書を突き出した。
「タイの工場はまだ動かせます。どうか輸出の権利だけでもタイ法人にください!」
顔色を失った社長は、黙って紙に目を落とす。本社はもはや資金が尽きており、退職金も払えない。ならば権利を渡してほしい――そう交渉し、ようやく話がまとまった。
その数枚の紙切れが、後の交渉で会社再建の命綱となった。
■肩書きも後ろ盾も失い、月給は12万円に
「これからどうするんだ」
タイに戻った井口を真っ先に迎えたのは、BKL社(文具販売会社、コーリンのタイ法人に出資する企業の一つ)を率いる同世代の若社長、カモルだった。井口は輸出権の契約書を机に置いた。
「これで事業は続けられる。だから、俺たちを雇ってほしい」
その交渉は、工場の命運を握っていた。当時のコーリンは、タイのみならず、香港や台湾、シンガポール、パナマ、南アフリカへも販路を広げていた。タイ法人が本社を経由せずに売れるようになれば、下請けの立場を脱し、収益構造を一変させることができる。
短い沈黙ののち、カモルは頷いた。彼から提示された月給はわずか3万バーツ(当時約12万円)。それまで20万円以上あった手取りから、ほぼ半減。それでも背に腹はかえられなかった。
こうして井口は、BKL社に身を置くことになった。残ったのは、井口ともう一人の日本人技術者、そして20人のタイ人スタッフ。肩書きも後ろ盾もない。ただあったのは、技術への矜持とコーリンの看板だけだった。
日本・タイ・台湾資本の三者合弁で設立されたタイ法人は、旧コーリンの商標権を受け継ぎ、現地の経営体制のもとで命脈を保った。
■「おたくには売らん」信用ゼロからの再建
コーリンの倒産で明らかになったのは、70億円にも及ぶ巨額の債務だった。市場縮小に逆らう過剰投資、バブル崩壊後の冷え込み、さらにデジタル化と安価な輸入品が追い打ちをかけ、積み重なった綻びが一気に露呈した。
突然の倒産に業界は激震した。未払い代金を回収できない取引先の怒号はやまず、その波紋は海を越えてタイ工場にも及んだ。
「おたくには売らん」
その一言が井口の胸をえぐる。鉛筆づくりに欠かせない成形カッターなどの部品供給は途絶え、「タイに送れば金を持ち逃げされる」という根拠なき噂まで広がった。
30代半ば。気力も体力もみなぎっていた井口でさえ、「工場がいつか潰れるのでは」という不安に襲われ、眠れぬ夜を過ごした。家に帰れば、幼いふたりの子どもの寝息が聞こえる。その横で明かりをともし、妻と徹夜で翻訳の副業をこなす日々を送った。
それでも支えはあった。東京鉛筆製造組合の会長や、顔なじみの下請け業者たちが知恵を惜しみなく伝え、資材を融通してくれた。工場は辛うじて操業を続けた。
■「色鉛筆を作れない」6年の苦境
最たる問題は、鉛筆の心臓部「芯」だった。
コーリンは創業期から美術や図工に使う描画用の製品に強みを持ち、「色鉛筆のコーリン」と呼ばれるほどブランドの核を築いてきた。しかし、タイ工場の主力は黒芯。いわゆる一般的な鉛筆の芯だが、市場には中国製の安価品があふれ、勝ち目は薄かった。
井口は腹をくくった。
「色芯で勝負する」
だが、発色と書き味で名を馳せたコーリンの色芯は、倒産で供給が途絶えていた。芯が足りない。当時、色芯を本格的に作れる工場は日本国内に3軒しかなかった。井口はその一つひとつを訪ね歩き、倉庫の隅に眠る在庫までかき集めた。
さらに中国やチェコからの輸入にも手を伸ばしたが、硬さも発色もばらばらで、とても均一な製品にはならない。無理にセットを組んで市場に出せば、返品やクレームが押し寄せる。1999年には、倒産後も共に工場を支えてきた日本人技術者が病で他界。コーリンを愛し、現場を守り抜いた職人だった。
ブランドの誇りが崩れていく――。井口の胸には、やり場のない思いが渦巻いた。苦悩の日々は、気づけば6年に及んでいた。だが「このままでいいはずがない」。暗闇の中でもがいた年月が、やがて再建への執念へと変わっていった。
■墨田の町工場との出会いが、運命を変えた
転機は2001年に訪れる。東京鉛筆製造組合の会長に紹介され、井口は東京・墨田区の小さな町工場「興伸色鉛筆」の門を叩いた。
「日本の色芯が、どうしても必要なんです」
金森克己社長(当時50歳)は、目の前の男のただならぬ迫力に息をのんだ。全身から「なにがなんでも切り拓く」という気概が伝わってくる。初対面ながら「この男なら騙されても悔いはない」と直感した。
同時に、金森社長にはもう一つの思いがあった。義理の父が生前追い求めた「海外進出」である。「その夢を、井口となら実現できるかもしれない」と感じていた。二人はたちまち意気投合。東京下町の職人肌の金森社長は、井口の細かな要望にも「いいよ、やってやろうじゃねぇか!」と気前よく応じた。そうして届けられた色芯は、発色も書き味も、かつてのコーリンを思わせる出来栄えだった。
しかし、生産量には限界があり、輸送コストも重くのしかかる。いずれ壁に突き当たると悟った井口は、2003年、覚悟を決めた。
「自分たちで芯を作らなければ未来はない。タイ工場で色芯を生産して、コーリンを本当の意味で再生させるんだ!」
■勝機は足元にあった
一見大胆な挑戦に思える色芯の内製化。しかし井口には、明確な勝算があった。
日本では一箱1万円する色芯製造用のワックスが、タイでは半額以下。調べてみると、工場の近所で製造されていた。顔料や接着剤も現地で調達でき、流通コストは大幅に削減できる。人件費も当時は1日200バーツ(約800円)。製造基盤としての優位性は明らかだった。
追い風は市場の拡大だ。人口増加と教育制度の整備が進むタイでは、色鉛筆の需要が伸び続けていた。加えてアート文化が根強く、学びや創作の場で色鉛筆を使う光景はごく当たり前に見られた。
「品質を保ちながら、手の届く価格で出せば必ず売れる」
そう確信していた。
2006年、井口は金森社長に頭を下げた。
「色芯をタイでつくりたい。力を貸してください!」
返事は一瞬だった。
「やるで!」
畳む予定だった墨田の工場からは、製造レシピや図面、社長が若い頃から使い込んだ芯出し機の原型まで譲り受けた。井口は鉄材を仕入れ、自らの手で7台の機械を再現。資金も託され、内製化への準備は万端だった。
ところが、タイ法人内の意見は割れ、決断は先送りにされ続けた。井口は3年間訴えたが、計画は宙に浮いたまま。2008年、ついに頓挫する。
その頃から、巷には嘲りの声が広がり始めた。
「またコーリンに騙された」
「井口なんて口先だけだ」
その声はやがて、金森社長の家族の耳にも届く。だが社長は動じなかった。
「あいつなら、きっとやる」
■同志・カモルの決断
事態が動いたのは2009年。タイ法人の経営陣が大会議室に集まり、場は重苦しい沈黙に包まれていた。立ち上がったのは、カモルだった。
「やるのか、やらないのか。ここで決めましょう!」
年功序列が色濃く残る華僑一族が集う場で、若手が声を上げるのは大きな賭けだった。だが、その一言で、6年間止まっていた歯車が、ようやく動き出した。
2009年、色芯専門の工場が立ち上がった。スタッフはわずか5人、機械も1ラインだけ。金森社長から託されたレシピを頼りに、工場の片隅で試作が始まった。
しかし現実は甘くない。湿度、気温、水質、すべてが日本と違うタイでは、同じ配合でも芯の色も硬さも変わってしまう。顔料やワックスの比率をほんの少し誤るだけで、発色は鈍り、芯は折れやすくなる。色芯づくりは単なる「再現」ではなく、「再発明」に近かった。
さらに量産となれば難易度は一気に跳ね上がる。集まったのは農村出身の素人ばかり。井口は色芯の製造を25の工程に分け、誰が担当しても同じ品質が出せる仕組みをつくろうと奔走した。
試行錯誤は1年に及んだ。そして、ようやく納得のいく芯が完成する。旧コーリンとはまったく違う、墨田のレシピを組み込み、タイで進化を遂げた新しい色芯だった。「かつての品質を凌駕した」――そんな確信すらあった。
2011年、タイ工場に機械を搬入し、待ち望んだ試験生産が始まった。
■タイ市場に根差した色芯戦略
井口が追い求めたのは、「タイの子どもたちに本当に必要とされる色」だった。
顔料とワックスの配合をわずかに変えては、試作品の鉛筆を何十種類も作る。試作品はスタッフだけでなく、近隣の小学生にも配って反応を伺った。
子どもたちは目を輝かせ、「こっちが好き!」「この色が一番映える!」と無邪気に声を上げる。その反応こそが、井口にとって何よりの判断基準となった。
そうして生まれたのが、南国の太陽にも負けない鮮やかなピンク、オレンジ、黄緑……。その色を収めた「12色セット」は、24色、36色、48色といった上位セットにも必ず組み込まれるベースとなり、量産に適した主力商品となっている。
■120色も、虹色も…“遊び心”で大ヒット連発
現地生産の開始を機にヒット商品を次々と生み出した。
2014年には鮮烈な発色の「ネオンカラーセット」、2018年には多色展開の「120色セット」。そして2019年、1本の芯に7色を仕込んだ「レインボー7」を発売。紙の上をくるくる走らせるたびに色が変わるこの色鉛筆は、子どもたちの心を確実にとらえた。
1本で2色を使い分けられる「バイカラー鉛筆」は、旧コーリン時代から続く定番商品だった。タイでも他社が販売していたが、コーリンタイランドは色芯の品質で群を抜いた。その実用性が支持され、地方の学校や家庭でも広く普及した。
色芯工場の完成は、コーリンにとって決定的な転機となった。2011年にタイ製色芯の供給が安定すると、2019年まで売上は毎年20%前後の伸びを記録し、加速度的に拡大を続けた。その原動力が、製品開発を担う井口にあることは間違いない。
井口は、必要とあれば専用装置を自ら開発し、夜を徹して試作に没頭する。紙に線を走らせて発色を確かめ、重ねた色がなめらかに混ざると、思わず笑みをこぼす。遊ぶように試作を重ねる姿勢こそが、市場に新鮮な驚きをもたらし、タイの子どもたちに愛されるコーリンを築いていった。
■倒産直前から6倍の販売本数に
「真空の市場に製品を放り込んだようだった」と井口が振り返るように、コーリンは自社工場を盾に、市場を切り拓いた。圧倒的なスピード、そして日本品質。これが両輪となって、コーリンの地位を押し上げていった。
「こんな色が欲しい」と要望があれば、わずか数日で試作品を届ける。このスピード感はOEM(他社ブランドを受託生産する製造業者)に依存するタイのマスターアートやドイツのステッドラーといった競合には不可能だった。
コーリンは華美な装飾を避け、番号表記で統一。削減したコストは芯の品質に集中させた。鮮やかな発色で折れにくく、子どもの筆圧でも色がすっと乗る。その確かな「日本品質」で、タイの学校現場でも揺るぎない信頼を積み重ねていった。
現地パートナーの尽力もコーリン急成長の鍵を握った。井口が「同志」と呼ぶ若社長のカモルは、工場立ち上げ当初から支え、日本の美意識を理解しつつ、タイ人ならではの発想を吹き込んだ。販路を切り開いたのは、そのカモルの弟・カビン。タイ全土を回って文具店や卸業者に売り込み、コーリンの名を広めていった。
企画はカモル、販売はカビン、生産は井口――。三者の役割がかみ合い、コーリンブランドは瞬く間にトップへと駆け上がった。
この結果は数字が物語る。タイ国内の色鉛筆市場でのシェアは、倒産直前の2割から5割に上昇。さらに、1580万本だった年間販売本数は、1億300万本と6倍強に跳ね上がった。従業員は100人を超え、海外代理店との絆も倒産直後に確保した輸出権に支えられ、今なお息づいている。
■再び日本へ、22年ぶりの里帰り
再建の道を走り抜いた井口には、一つやり残したことがあった。それは「いつかコーリンを日本に帰してやりたい」という長年の願いを遂げること。
色芯の内製化が動き出した2009年、井口は日本法人を設立し、商標を整理するなど再上陸の準備を進めていた。だが本格的な販売網は整わず、タイ側との調整も難航。展示会への出展にとどまって実現には至らなかった。
それでもネットに「コーリン懐かしい」という声が上がるたび、まだ忘れられていないと確信し、その思いは強まっていった。
再上陸に向けた歯車が動き出したのは2018年。文具メーカー「Beahouse」の阿部ダイキ代表が、タイ工場を訪れたことがきっかけだった。鉛筆づくりに真摯に向き合う井口の姿に胸を打たれ、こう提案した。
「来年の『FRAT』に出てみませんか。気軽な場ですし、きっと何かのきっかけになります」。FRATは作り手の顔が見えることを重視した東京発の文具展示会で、共感を軸に商談が生まれる場だ。井口は即答した。
出店は成功だった。コーリンのブースに視線が集まり、「あのコーリンか⁉」「懐かしい」という声が寄せられる。井口が何よりうれしかったのは「タッチが昔よりなめらかになっている」「発色が際立っている」という試し書きをした人たちの反応だった。
FRATを契機に、コーリンの鉛筆は関西の老舗卸業者を通じ、再び日本国内の文具店に流通することが決まった。22年ぶりの「里帰り」となった。
■「まだ続いているよ」と伝えたい
日本国内の鉛筆市場は縮小を続けている。コーリンはなぜ日本に“帰ってきた”のか。井口には大量に売るつもりも、過去の栄光をなぞる気もなかった。
「荒くれ者な自分を受け入れて育ててくれた会社ですから。あんな形で終わったままでは、悔しかったんです。だからもう一度、日本に届けたかった。コーリンは『まだ続いているよ』と伝えたくて」
倒産の荒波のなかで支えてくれた人々へ、そしてかつてのコーリンへの恩返し。それこそが、再上陸の本当の理由だった。
来年還暦を迎える井口は、いまも現場に立ち続けている。
「いいものを作って、売れて、喜ばれて、みんなが幸せになる。それだけを信じて、ここまできました」
夜遅く、工場2階の作業部屋に明かりが灯る。「ベストな配合はまだあるはず」と信じ、井口は遊ぶように試作を続けている。SINCE1916。パッケージに刻まれた文字とともに、今日もコーリンの鉛筆は、タイの子どもたちに笑顔を届けている。
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日向 みく(ひなた みく)
タイ在住ライター
岡山県出身。住宅リフォーム会社で4年間営業を経験後、中南米やアフリカなど世界各国を巡る。2019年にタイへ拠点を移し、2021年からライター活動を開始。経営者や企業の挑戦を企画から取材・執筆し、日本およびタイのメディアに寄稿。現場の熱量を伝え、社会に小さくても確かな一歩をもたらす記事づくりを目指す。著書に『人生デザインのロードマップ』(Kindle版)。
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(タイ在住ライター 日向 みく)
年間販売本数は再建当初の6倍、2019年には日本市場への“里帰り”を果たした。再生の立役者は、月給12万円、肩書きもないまま現地工場に踏みとどまった“破天荒な元社員”だった。その執念と再建の歩みに、タイ在住ライターの日向みくさんが迫る――。
■日本から消えた「鉛筆ブランド」がタイで大人気に
「コーリン鉛筆って知ってる?」
筆者の問いに、タイ人の友人は懐かしそうに笑った。
「あぁ、赤い箱のやつ! 小学校でよく使ってたよ」
三角顔のロゴで知られる「コーリン鉛筆」。かつて日本の小学生に親しまれたこのブランドは、1997年に負債70億円を抱えて経営破綻し、日本市場から姿を消した。
ところがその後、海を越えたタイで“定番ブランド”として生き延びていた。図工の時間になると、タイの子供たちは赤や青の鉛筆を握りしめ、夢中で紙いっぱいに色を広げている。
かつて三菱鉛筆、トンボ鉛筆に次ぐ業界第3位のシェアを誇った老舗メーカーは、なぜ異国の地で蘇り、独自の進化を遂げたのか――。その舞台裏には、倒産後も現場に踏みとどまった一人の社員・井口英明の執念と20年にわたる再建のドラマがあった。
■破天荒な若手社員だった「復活のキーマン」
井口とコーリン鉛筆の縁は、大学時代にさかのぼる。アジアを旅する途中、バンコクの雑踏に立ち止まった。
経済成長の熱気に圧倒され、「タイで働きたい」と直感した。
1989年、バブルに沸く日本。24歳で就職したのは、1916年創業の老舗メーカー「コーリン鉛筆」だった。鉛筆に興味はなかったが、「タイ工場立ち上げ要員募集」の一行が決め手になった。当時のコーリンは従業員200人ほどの中堅ながら、文具業界で先陣を切って海外進出に挑んでいた。
井口は英語力を買われ、本社(東京・東新小岩)の貿易課に配属される。だが奔放で、上司の指示もお構いなし。昼休みには7キロのランニングに飛び出し、午後の始業に間に合わないこともしばしば。仕事そっちのけでトレーニングに熱を上げる新人に周囲は手を焼き、わずか3カ月で茨城の水海道工場に異動になった。
ここで、思わぬ適性が芽を出す。工場に足を踏み入れた瞬間、機械の唸りと木を削る香りに包まれ、幼い頃からの機械好きが蘇った。井口はたちまち鉛筆づくりの世界にのめり込み、貪るように技術を学んでいった。
一方で、その働きぶりは破天荒そのものだった。40フィートのコンテナの横で大音量の音楽を流し、短パン姿でビールを片手に資材を運び込む。ひと仕事終えるとホースで水を浴び、工場の屋根で昼寝をする――。その豪快さから、周囲には「荷運びなら井口だ」と一目置かれる存在だった。
■工場長と衝突して強制帰国
1990年12月。念願のタイ赴任に胸を躍らせ、井口はバンコク近郊サムットプラカーン県の工場地帯に降り立った。製造技術を身につけた彼を、会社は「戦力になる」と送り出していた。
日本・タイ・台湾の三社合弁で設立されたタイ工場。現地に到着して、井口は唖然とした。コンクリートの匂いが立ち込める真新しい床に並んでいたのは、見たこともないアメリカ製や韓国製の機械が数台だけ。停電や断水は日常茶飯事で、製造ラインはまともに動いていなかった。
任務は「貿易部門の立ち上げ」。
だが商品がなければ話にならない。井口は工具を握り、独断で修理に没頭した。その背中に、日本人工場長の怒声が飛ぶ。
「勝手な真似をするな!」
「一体いつになったら動き出すんですか!」
井口も食ってかかり、両者は激しく衝突。夢見たタイ生活は、工場長との大喧嘩で早くも居場所を失う。わずか1年足らずで帰国を余儀なくされた。
■諦められず、再びタイへ
井口が早々に戻ってきたことに、本社の経営陣も社員も驚いた。賃貸アパートはすでに引き払い、帰る場所もない。そこで井口は、本社上階の会長室に勝手に寝泊まりし、社内ホームレスさながらの生活を送った。
夕方になると「お疲れさまです」と他の社員と一緒に退社するふりをし、夜中に窓から戻り、会長室に布団を敷いて眠る。レンタルショップで借りたビデオを観たり、銭湯が閉まった夜はシンクで足湯をしたり――そんな日々が続いた。
ある晩、忘れ物を取りに戻った部長が、会長室から漏れるビデオの音に気づく。
ドアを開けると、布団にくるまった井口がいた。
「一体何をしているんだ!」
問い詰められた井口は、「そっちこそ何なんですか!」と逆ギレ。その裏には、仕事も居場所も失った彼なりの訴えがにじんでいた。それでも諦めず、「もう一度タイで勝負したい」と主張し続ける。やがて専務の計らいで、ODA(政府開発援助)の海外技術者派遣制度を活用する道が開かれた。
語学と技術の試験に合格し、1992年春。井口は再びタイへ向かった。
■技術で信頼を勝ち取る
タイ工場に復帰後、最初に挑んだのは、木軸に文字やイラストを印刷する「オフセット印刷機」の修理だった。
全長4メートルの印刷機は、海外製の中古で設計図もなく、誰も動かせぬまま倉庫の隅で埃をかぶっていた。
「無理だ」と首を振る声を背に、井口は汗だくで分解に挑んだ。錆にまみれた金属ローラーを磨き、劣化したゴムを取り替え、日本から取り寄せた部品を組み込み、電気系統の不具合を解消していく。
1か月半後。
鉄の塊が低い唸りを上げ、ベルトが回転を始めた瞬間、工場にどよめきが走った。
そこからは修繕の日々。木を削り、芯を組み込み、塗装し、ロゴを印字する――。いくつもの装置がかみ合ってこそ、一本の鉛筆は生まれる。どれか一台でも止まれば生産は立ち行かない。
井口は、止まっていた製造ラインを一つずつ動かし、安定的に稼働させていった。
翌年、鉛筆の年間販売本数は1700万本に達し、わずか1年で3倍に急増。日本向けの大口出荷にも応えられるようになり、周囲の目は一変した。
「この男、本気だ……」
1993年12月、タイの経営陣は「現場を動かしているのは井口だろう」と認め、日本人工場長を更迭した。井口は新たな工場長として製造の指揮を委ねられた。
夜は街の食堂でスタッフと杯を重ね、流暢なタイ語で冗談を飛ばす。いつしか輪の中心に立ち、連帯感が芽生えていった。
私生活でも節目を迎える。1995年、タイ人女性と結婚し、子どもを授かった。
赴任から7年。順風に見えたその裏で、本社からの給与は滞り、技術支援も途絶えていた。水面下では、崩壊の足音がすでに忍び寄っていた。
■突然の一報、会社が倒産
1997年3月、乾季の穏やかな青空の下。サムットプラカーン県の工場オフィスに、一本の電話が鳴った。
「大変だ。会社が潰れた!」
受話器を握った井口の背筋に、冷たいものが走る。7年かけてタイで築き上げてきた技術と信頼。ようやく軌道に乗り始めてきた矢先だった。
数日後、慌てて帰国した井口が東京本社に到着すると、そこには大勢の債権者が詰めかけ、説明会の会場は怒号と罵声で揺れていた。彼は足元が崩れ落ちるような感覚に襲われ、そこで「再建はもはや不可能だ」と悟った。
混乱を極めるオフィスの片隅で、必死に考えを巡らせる。
「コーリンの海外展開は本社経由だ。このままでは販路が途絶える。いや、それだけじゃない。出向社員の自分たちこそ、真っ先に切り捨てられる……」
井口はひらめく。
「製品を海外に輸出する権利さえあれば、まだ望みはある」
そのまま社長室に飛び込み、オフィスの片隅で作成した契約書を突き出した。
「タイの工場はまだ動かせます。どうか輸出の権利だけでもタイ法人にください!」
顔色を失った社長は、黙って紙に目を落とす。本社はもはや資金が尽きており、退職金も払えない。ならば権利を渡してほしい――そう交渉し、ようやく話がまとまった。
その数枚の紙切れが、後の交渉で会社再建の命綱となった。
■肩書きも後ろ盾も失い、月給は12万円に
「これからどうするんだ」
タイに戻った井口を真っ先に迎えたのは、BKL社(文具販売会社、コーリンのタイ法人に出資する企業の一つ)を率いる同世代の若社長、カモルだった。井口は輸出権の契約書を机に置いた。
「これで事業は続けられる。だから、俺たちを雇ってほしい」
その交渉は、工場の命運を握っていた。当時のコーリンは、タイのみならず、香港や台湾、シンガポール、パナマ、南アフリカへも販路を広げていた。タイ法人が本社を経由せずに売れるようになれば、下請けの立場を脱し、収益構造を一変させることができる。
短い沈黙ののち、カモルは頷いた。彼から提示された月給はわずか3万バーツ(当時約12万円)。それまで20万円以上あった手取りから、ほぼ半減。それでも背に腹はかえられなかった。
こうして井口は、BKL社に身を置くことになった。残ったのは、井口ともう一人の日本人技術者、そして20人のタイ人スタッフ。肩書きも後ろ盾もない。ただあったのは、技術への矜持とコーリンの看板だけだった。
日本・タイ・台湾資本の三者合弁で設立されたタイ法人は、旧コーリンの商標権を受け継ぎ、現地の経営体制のもとで命脈を保った。
■「おたくには売らん」信用ゼロからの再建
コーリンの倒産で明らかになったのは、70億円にも及ぶ巨額の債務だった。市場縮小に逆らう過剰投資、バブル崩壊後の冷え込み、さらにデジタル化と安価な輸入品が追い打ちをかけ、積み重なった綻びが一気に露呈した。
突然の倒産に業界は激震した。未払い代金を回収できない取引先の怒号はやまず、その波紋は海を越えてタイ工場にも及んだ。
「おたくには売らん」
その一言が井口の胸をえぐる。鉛筆づくりに欠かせない成形カッターなどの部品供給は途絶え、「タイに送れば金を持ち逃げされる」という根拠なき噂まで広がった。
30代半ば。気力も体力もみなぎっていた井口でさえ、「工場がいつか潰れるのでは」という不安に襲われ、眠れぬ夜を過ごした。家に帰れば、幼いふたりの子どもの寝息が聞こえる。その横で明かりをともし、妻と徹夜で翻訳の副業をこなす日々を送った。
それでも支えはあった。東京鉛筆製造組合の会長や、顔なじみの下請け業者たちが知恵を惜しみなく伝え、資材を融通してくれた。工場は辛うじて操業を続けた。
■「色鉛筆を作れない」6年の苦境
最たる問題は、鉛筆の心臓部「芯」だった。
コーリンは創業期から美術や図工に使う描画用の製品に強みを持ち、「色鉛筆のコーリン」と呼ばれるほどブランドの核を築いてきた。しかし、タイ工場の主力は黒芯。いわゆる一般的な鉛筆の芯だが、市場には中国製の安価品があふれ、勝ち目は薄かった。
井口は腹をくくった。
「色芯で勝負する」
だが、発色と書き味で名を馳せたコーリンの色芯は、倒産で供給が途絶えていた。芯が足りない。当時、色芯を本格的に作れる工場は日本国内に3軒しかなかった。井口はその一つひとつを訪ね歩き、倉庫の隅に眠る在庫までかき集めた。
さらに中国やチェコからの輸入にも手を伸ばしたが、硬さも発色もばらばらで、とても均一な製品にはならない。無理にセットを組んで市場に出せば、返品やクレームが押し寄せる。1999年には、倒産後も共に工場を支えてきた日本人技術者が病で他界。コーリンを愛し、現場を守り抜いた職人だった。
ブランドの誇りが崩れていく――。井口の胸には、やり場のない思いが渦巻いた。苦悩の日々は、気づけば6年に及んでいた。だが「このままでいいはずがない」。暗闇の中でもがいた年月が、やがて再建への執念へと変わっていった。
■墨田の町工場との出会いが、運命を変えた
転機は2001年に訪れる。東京鉛筆製造組合の会長に紹介され、井口は東京・墨田区の小さな町工場「興伸色鉛筆」の門を叩いた。
「日本の色芯が、どうしても必要なんです」
金森克己社長(当時50歳)は、目の前の男のただならぬ迫力に息をのんだ。全身から「なにがなんでも切り拓く」という気概が伝わってくる。初対面ながら「この男なら騙されても悔いはない」と直感した。
同時に、金森社長にはもう一つの思いがあった。義理の父が生前追い求めた「海外進出」である。「その夢を、井口となら実現できるかもしれない」と感じていた。二人はたちまち意気投合。東京下町の職人肌の金森社長は、井口の細かな要望にも「いいよ、やってやろうじゃねぇか!」と気前よく応じた。そうして届けられた色芯は、発色も書き味も、かつてのコーリンを思わせる出来栄えだった。
しかし、生産量には限界があり、輸送コストも重くのしかかる。いずれ壁に突き当たると悟った井口は、2003年、覚悟を決めた。
「自分たちで芯を作らなければ未来はない。タイ工場で色芯を生産して、コーリンを本当の意味で再生させるんだ!」
■勝機は足元にあった
一見大胆な挑戦に思える色芯の内製化。しかし井口には、明確な勝算があった。
日本では一箱1万円する色芯製造用のワックスが、タイでは半額以下。調べてみると、工場の近所で製造されていた。顔料や接着剤も現地で調達でき、流通コストは大幅に削減できる。人件費も当時は1日200バーツ(約800円)。製造基盤としての優位性は明らかだった。
追い風は市場の拡大だ。人口増加と教育制度の整備が進むタイでは、色鉛筆の需要が伸び続けていた。加えてアート文化が根強く、学びや創作の場で色鉛筆を使う光景はごく当たり前に見られた。
「品質を保ちながら、手の届く価格で出せば必ず売れる」
そう確信していた。
2006年、井口は金森社長に頭を下げた。
「色芯をタイでつくりたい。力を貸してください!」
返事は一瞬だった。
「やるで!」
畳む予定だった墨田の工場からは、製造レシピや図面、社長が若い頃から使い込んだ芯出し機の原型まで譲り受けた。井口は鉄材を仕入れ、自らの手で7台の機械を再現。資金も託され、内製化への準備は万端だった。
ところが、タイ法人内の意見は割れ、決断は先送りにされ続けた。井口は3年間訴えたが、計画は宙に浮いたまま。2008年、ついに頓挫する。
その頃から、巷には嘲りの声が広がり始めた。
「またコーリンに騙された」
「井口なんて口先だけだ」
その声はやがて、金森社長の家族の耳にも届く。だが社長は動じなかった。
「あいつなら、きっとやる」
■同志・カモルの決断
事態が動いたのは2009年。タイ法人の経営陣が大会議室に集まり、場は重苦しい沈黙に包まれていた。立ち上がったのは、カモルだった。
「やるのか、やらないのか。ここで決めましょう!」
年功序列が色濃く残る華僑一族が集う場で、若手が声を上げるのは大きな賭けだった。だが、その一言で、6年間止まっていた歯車が、ようやく動き出した。
2009年、色芯専門の工場が立ち上がった。スタッフはわずか5人、機械も1ラインだけ。金森社長から託されたレシピを頼りに、工場の片隅で試作が始まった。
しかし現実は甘くない。湿度、気温、水質、すべてが日本と違うタイでは、同じ配合でも芯の色も硬さも変わってしまう。顔料やワックスの比率をほんの少し誤るだけで、発色は鈍り、芯は折れやすくなる。色芯づくりは単なる「再現」ではなく、「再発明」に近かった。
さらに量産となれば難易度は一気に跳ね上がる。集まったのは農村出身の素人ばかり。井口は色芯の製造を25の工程に分け、誰が担当しても同じ品質が出せる仕組みをつくろうと奔走した。
試行錯誤は1年に及んだ。そして、ようやく納得のいく芯が完成する。旧コーリンとはまったく違う、墨田のレシピを組み込み、タイで進化を遂げた新しい色芯だった。「かつての品質を凌駕した」――そんな確信すらあった。
2011年、タイ工場に機械を搬入し、待ち望んだ試験生産が始まった。
■タイ市場に根差した色芯戦略
井口が追い求めたのは、「タイの子どもたちに本当に必要とされる色」だった。
顔料とワックスの配合をわずかに変えては、試作品の鉛筆を何十種類も作る。試作品はスタッフだけでなく、近隣の小学生にも配って反応を伺った。
子どもたちは目を輝かせ、「こっちが好き!」「この色が一番映える!」と無邪気に声を上げる。その反応こそが、井口にとって何よりの判断基準となった。
そうして生まれたのが、南国の太陽にも負けない鮮やかなピンク、オレンジ、黄緑……。その色を収めた「12色セット」は、24色、36色、48色といった上位セットにも必ず組み込まれるベースとなり、量産に適した主力商品となっている。
■120色も、虹色も…“遊び心”で大ヒット連発
現地生産の開始を機にヒット商品を次々と生み出した。
2014年には鮮烈な発色の「ネオンカラーセット」、2018年には多色展開の「120色セット」。そして2019年、1本の芯に7色を仕込んだ「レインボー7」を発売。紙の上をくるくる走らせるたびに色が変わるこの色鉛筆は、子どもたちの心を確実にとらえた。
1本で2色を使い分けられる「バイカラー鉛筆」は、旧コーリン時代から続く定番商品だった。タイでも他社が販売していたが、コーリンタイランドは色芯の品質で群を抜いた。その実用性が支持され、地方の学校や家庭でも広く普及した。
色芯工場の完成は、コーリンにとって決定的な転機となった。2011年にタイ製色芯の供給が安定すると、2019年まで売上は毎年20%前後の伸びを記録し、加速度的に拡大を続けた。その原動力が、製品開発を担う井口にあることは間違いない。
井口は、必要とあれば専用装置を自ら開発し、夜を徹して試作に没頭する。紙に線を走らせて発色を確かめ、重ねた色がなめらかに混ざると、思わず笑みをこぼす。遊ぶように試作を重ねる姿勢こそが、市場に新鮮な驚きをもたらし、タイの子どもたちに愛されるコーリンを築いていった。
■倒産直前から6倍の販売本数に
「真空の市場に製品を放り込んだようだった」と井口が振り返るように、コーリンは自社工場を盾に、市場を切り拓いた。圧倒的なスピード、そして日本品質。これが両輪となって、コーリンの地位を押し上げていった。
「こんな色が欲しい」と要望があれば、わずか数日で試作品を届ける。このスピード感はOEM(他社ブランドを受託生産する製造業者)に依存するタイのマスターアートやドイツのステッドラーといった競合には不可能だった。
コーリンは華美な装飾を避け、番号表記で統一。削減したコストは芯の品質に集中させた。鮮やかな発色で折れにくく、子どもの筆圧でも色がすっと乗る。その確かな「日本品質」で、タイの学校現場でも揺るぎない信頼を積み重ねていった。
現地パートナーの尽力もコーリン急成長の鍵を握った。井口が「同志」と呼ぶ若社長のカモルは、工場立ち上げ当初から支え、日本の美意識を理解しつつ、タイ人ならではの発想を吹き込んだ。販路を切り開いたのは、そのカモルの弟・カビン。タイ全土を回って文具店や卸業者に売り込み、コーリンの名を広めていった。
企画はカモル、販売はカビン、生産は井口――。三者の役割がかみ合い、コーリンブランドは瞬く間にトップへと駆け上がった。
この結果は数字が物語る。タイ国内の色鉛筆市場でのシェアは、倒産直前の2割から5割に上昇。さらに、1580万本だった年間販売本数は、1億300万本と6倍強に跳ね上がった。従業員は100人を超え、海外代理店との絆も倒産直後に確保した輸出権に支えられ、今なお息づいている。
■再び日本へ、22年ぶりの里帰り
再建の道を走り抜いた井口には、一つやり残したことがあった。それは「いつかコーリンを日本に帰してやりたい」という長年の願いを遂げること。
色芯の内製化が動き出した2009年、井口は日本法人を設立し、商標を整理するなど再上陸の準備を進めていた。だが本格的な販売網は整わず、タイ側との調整も難航。展示会への出展にとどまって実現には至らなかった。
それでもネットに「コーリン懐かしい」という声が上がるたび、まだ忘れられていないと確信し、その思いは強まっていった。
再上陸に向けた歯車が動き出したのは2018年。文具メーカー「Beahouse」の阿部ダイキ代表が、タイ工場を訪れたことがきっかけだった。鉛筆づくりに真摯に向き合う井口の姿に胸を打たれ、こう提案した。
「来年の『FRAT』に出てみませんか。気軽な場ですし、きっと何かのきっかけになります」。FRATは作り手の顔が見えることを重視した東京発の文具展示会で、共感を軸に商談が生まれる場だ。井口は即答した。
出店は成功だった。コーリンのブースに視線が集まり、「あのコーリンか⁉」「懐かしい」という声が寄せられる。井口が何よりうれしかったのは「タッチが昔よりなめらかになっている」「発色が際立っている」という試し書きをした人たちの反応だった。
FRATを契機に、コーリンの鉛筆は関西の老舗卸業者を通じ、再び日本国内の文具店に流通することが決まった。22年ぶりの「里帰り」となった。
■「まだ続いているよ」と伝えたい
日本国内の鉛筆市場は縮小を続けている。コーリンはなぜ日本に“帰ってきた”のか。井口には大量に売るつもりも、過去の栄光をなぞる気もなかった。
「荒くれ者な自分を受け入れて育ててくれた会社ですから。あんな形で終わったままでは、悔しかったんです。だからもう一度、日本に届けたかった。コーリンは『まだ続いているよ』と伝えたくて」
倒産の荒波のなかで支えてくれた人々へ、そしてかつてのコーリンへの恩返し。それこそが、再上陸の本当の理由だった。
来年還暦を迎える井口は、いまも現場に立ち続けている。
「いいものを作って、売れて、喜ばれて、みんなが幸せになる。それだけを信じて、ここまできました」
夜遅く、工場2階の作業部屋に明かりが灯る。「ベストな配合はまだあるはず」と信じ、井口は遊ぶように試作を続けている。SINCE1916。パッケージに刻まれた文字とともに、今日もコーリンの鉛筆は、タイの子どもたちに笑顔を届けている。
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日向 みく(ひなた みく)
タイ在住ライター
岡山県出身。住宅リフォーム会社で4年間営業を経験後、中南米やアフリカなど世界各国を巡る。2019年にタイへ拠点を移し、2021年からライター活動を開始。経営者や企業の挑戦を企画から取材・執筆し、日本およびタイのメディアに寄稿。現場の熱量を伝え、社会に小さくても確かな一歩をもたらす記事づくりを目指す。著書に『人生デザインのロードマップ』(Kindle版)。
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(タイ在住ライター 日向 みく)
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