■健康寿命日本一の意外な秘訣
病気に苦しんだり、介護を受けたりせず、健康に長生きがしたい――。
人口のおよそ3割が65歳以上となり、「超高齢社会」となった今、誰もがそう願っていることだろう。要介護度をもとに算出された「健康寿命」の令和5年値で、長野県は女性が8年連続、男性が3年連続1位となった。
長野県はなぜ、健康に長生きができるのか。高齢者の就業率が高いことや、野菜の摂取量が多いことなどが要因としてあげられることが多いが、実はそれだけではない。
長野県によると、「専門職による活発な地域の保健医療活動」や「自主的な健康づくりの取り組み」が健康寿命を延ばしているという。
これらを支える意外な秘訣が「劇」だ。
私が佐久総合病院の演劇に初めて触れたのは、2009年の5月のことである。高校の同級生から「研修医として劇をやるから」と誘われ、当時住んでいた東京から新幹線に飛び乗り、佐久総合病院の広場に向かった。
そこには、金髪ロン毛のかつらをつけ、作り物の胸を強調したナース服に濃いメイクをした同級生(男性)の姿があった。昨今のジェンダー的視点では不適切と言われるかもしれないが、私は思わず吹き出した。想像していた「研修医」の姿とはまるで違ったからだ。
高校時代は隙がないイメージだった彼が、地域の人たちの前で体を張って笑いをとっている。お堅い印象はガラガラと崩れ、彼の人間的な一面に触れた気がした。
「なぜ医者が演劇を……?」
このときはまだその理由をうまく理解できなかったけれど、楽しそうな研修医たちのことが印象に残った。そして結果的にこのときの出来事は、私自身の人生を大きく変えることになった――。
■すべて研修医の「シンデレラ」を見に病院へ
「ああっ、大変。お母様たち、あんなにお塩をふりかけて、大丈夫かしら……」
2025年5月某日。佐久総合病院の広場に、“シンデレラ”の声が響き渡る。
16年の時を経て、ついにあのときの疑問を解消するべく、私は再び研修医劇を見にきていた。
普段は患者たちが行き交う広場に1日限りのステージができ、客席となった待合用の椅子は満席。
■テーマは減塩、脚本も演出も手作り
佐久総合病院では、年に一度の病院祭で初期研修医が劇を演じるのが慣習となっている。今年は1年目の研修医15人全員が参加し、シンデレラの物語になぞらえて、減塩を啓発するストーリーを演じた。
ブルーのドレスを身にまとって継母と姉たちを心配するシンデレラも、いまいましい顔をして塩を振りかける継母と姉も、さらには脚本を書いたのも、全員この病院の研修医たちだ。上演の前後にはメイク姿の研修医に「がんばって~」「よかったよ!」などと声をかける観客の姿もあった。
コロナ禍で一時休止していた研修医劇を2023年に復活させた福室(ふくむろ)自子(よりこ)さんは、現在入職3年目の専攻医だ。
「学生の頃から佐久総合病院には実習に来ていて、肩書や経済力に関係なく開かれている医療や、地域に入り込んでいく姿勢をかっこいいと思っていました。研修医になったら絶対に劇をやりたいと思ったんです」
福室さんは住民の暮らしを尊重しながら医療活動をする先輩医師の姿に心を打たれ、この病院での初期研修を希望した。
■80年前にはじまった医師の演劇
佐久総合病院は1944年、長野県佐久市の農村地域(旧臼田町)に設立された。1945年に東京から赴任してすぐに院長となった若月俊一医師は、「演説ではなく演劇を」という宮沢賢治の教えに傾倒。医者が知識を振りかざすのではなく、住民たちが「笑ったり泣いたりしながらその中で納得」することで医療を住民のものにしようと演劇を始めた。
若月の著書『村で病気とたたかう』によると、戦後間もない農村の住民たちにとって、医者を呼ぶのは一世一代の大事件か死ぬ間際、という感覚だった。住民たちは医療知識を知るすべがなく、予防医療や早期発見のための受診という発想は論外だ。
当時の農村には、テレビやラジオなどの娯楽はほとんどなかった。若月が脚本を書いた演劇を病院職員が演じると、人々に大ウケ。若月は次々に脚本を書き、公衆衛生から社会問題まで幅広い分野を扱った。
出張診療と演劇を組み合わせて馬車で農村を回ると、驚くほどの高血圧や深刻な心臓病、進行した胃がんなどが次々にみつかった。また、腹痛を訴える人のうち、少なくとも7割以上の人の便に寄生虫卵が含まれていた。それほど衛生意識は低く、生活環境は不潔だった。
■農村の人たちの健康意識を変えた
若月が出張診療と演劇を組み合わせて啓発活動をおこなうと、住民の健康状態は劇的に改善する。
便に寄生虫卵が含まれる確率は、1970年代には全体の4%まで下がり、尿に蛋白や糖が排出される割合も大幅に減った。手遅れによる死亡率は8年間でおよそ半減している。
娯楽として受け入れられ、健康状態を大きく改善することに効果を発揮した演劇は、村の保健師や保健補導員(または衛生指導員)と呼ばれる住民組織の役職者たちにも広まっていく。さらに、住民自ら受診内容を記録し、経過を継続的に観察する「健康台帳」が導入されると、一人あたりの医療費は8年間で約0.4%減少した。
演劇を通じて住民と目線を合わせる医療活動をしたことが、今につながる住民の自主的な健康意識をつくっていった。
若月は1976年、住民が参加する医療の大切さを広めた功績で、アジアのノーベル平和賞といわれるマグサイサイ賞を受賞し、「農村医療の父」と呼ばれる。
2006年にその生涯を閉じたが、今も佐久総合病院での研修では、初日に若月の取り組みについて紹介があるという。研修医が毎年演劇を行うのは、若月が掲げてきた「医療の民主化」の象徴が演劇だからなのである。
■「伝説の劇団部員」に聞く病院の原点
「すごくよかったよ。あとは楽しんでやるだけ!」
2025年の研修医劇前日、最終リハーサルを終えた研修医たちに、まるで監督のように声をかけている人物がいた。長年放射線技師として勤務し、現在も参与として佐久総合病院の運営に関わる鷹野邦一さん(67)。伝説の劇団部員と呼ばれる人物だ。
「佐久総合病院は医療と健康を通じた運動体なんですよ。その中心にあるのが劇団部です」
そう言い切る鷹野さんだが、最初からそう考えていたわけではない。
ところが入職からおよそ20年がたったある日、たまたま劇団部の主要メンバー2人が「おい、いつやめる?」と相談している場面に遭遇する。
「あいつらがやめちゃったら、劇団部はなくなってしまうじゃないか……!」
鷹野さんは、病院の活動の原点とも言える劇団部の存続を自分が強く望んでいることに、その時初めて気がついた。
■最初は演劇が嫌だったが…
こうして鷹野さんは、あれだけ嫌だった演劇の舞台に立つことになる。佐久総合病院のイベントでの公演だけでなく、系列病院のお祭りや自治体の健康祭りなどに呼ばれて、各地を飛び回った。
「劇団部の仲間たちと演目の練習をしていると、『若月先生が言いたかったことはこうなんじゃないか』と解釈をめぐって議論するので、やり終える頃にはなんでも言い合える仲間になってるんですよ。そうすると普段の業務でも、違う部署や違う職種の人とも話がしやすくなるんですよね」
演劇は、いくつもの部署にまたがるさまざまな職種の医療スタッフが信頼関係を築くことに、一役買っていたのだ。鷹野さんはいつしか次々に若手スタッフを劇団部に口説き入れるようになった。それが“伝説の劇団部員”と呼ばれるゆえんだ。
研修医劇を経験して以来、今も率先して病院の演劇活動に関わる医師の福室さんは、「劇をやったことで、今まで接点がなかった科を回っても『あ、オオカミ(役)の人ですか』って声をかけてもらうことがよくあります」と笑う。
■研修医劇が医師を育てる
病院祭で研修医が劇をやるようになったのは、2006年のことだった。最初のテーマは、当時社会的に注目され始めていた「うつ病」。
2008年に研修医劇の脚本を書いた加藤琢真さんは、劇でエイズを取り上げた。当時この地域で問題視されていた中高年男性のHIV感染に対し、なにかできないかと考えたのだ。1947年から続く病院祭には、コロナ前は例年1万人以上が来場していた。さらに、客層のメインは40代から50代の中高年とドンピシャだった。
エイズの啓発劇は大盛況に終わり、劇を披露した病院祭の翌月は、30人ほどが無料のHIV検査に訪れた。それ以前は、ショッピングモールや保健所で無料検査を実施しても、月に1~2人訪れればいいほうだったという。
「診察は基本的に患者さんと1対1ですが、劇ではどうしたら多くの人たちにちゃんと伝わるかを考えます。研修医の時代に最も公衆衛生的なアプローチをとっていたのが劇でした」
このときの経験をもとに、加藤さんはエイズ孤児支援のために自身がたちあげたNGOでも劇を取り入れ、ウガンダとケニアで実際に啓発劇をおこなった。
「劇って何もなくてもできますからね。アフリカの村でもできちゃうんですよ」
その後、厚生労働省勤務を経て、現在はニューヨークの国連代表部に参事官として赴任している。加藤さんは、佐久での経験をふまえて公衆衛生の道へ進んだ1人だ。
■佐久にある“医療者と住民”の独特な関係性
佐久総合病院で初期研修をした医師たちが、口を揃えて言うことがあった。それは、「佐久には地域が医療者を育てる空気がある」ということだ。
例えば採血がうまくいかないと、「腕のいい人に代えてくれ」と言われることはよくあること。ところが佐久では「自分の腕をいくらでも使っていいからしっかり練習しろよ」と言ってくれる人が多くいる。
加藤さんは「こんなふうに言ってくれるところは他にないと思います。劇を通じて医者以外の一面を見てもらえることで、同じ住民の一人なんだと思ってもらえる。それが『地域が医療者を育てる』っていう感覚をつくりだすんだと思います」と話す。
■勤務時間外でも医療者たちが演劇を続ける理由
演劇は、職種や立場を超えて地域で信頼関係を築くことに効果を発揮した。それが結果的に、医療や医療者は与えられるものではなく地域が育むものであり、自分の健康は自分で守るものだという意識を定着させた。
しかし、80年続いてきた演劇の伝統は今、揺らいでいる。
かつては「医療情報が届かない人々に伝える」という大きな役割があったが、いまは誰もがスマホで最新情報を得られる時代である。さらに働き方改革で、勤務時間外に職員を文化活動へ誘うことは難しくなった。ともすれば労働力の搾取と見なされることもある。
それでも佐久総合病院が演劇を続けるのは、それがこの病院が掲げる「医療の民主化」の原点だからだ。
病院祭の取材に同行した7歳の息子は、最初は柱の陰に隠れてマンガを読んでいたものの、劇がはじまると食い入るようにステージを見つめ、客席に着席した。その様子を見た伝説の劇団部員・鷹野さんは、「あなたのお子さんの姿が全てですよ」と目を細めた。
息子が体調を崩して病院で出会う医師が、白衣とともに専門性をまとった権力者なのか、「ドレスを着て走り回っていたシンデレラ」なのかは、大きく異なる体験になるだろう。その出会いこそが、地域医療を支える生命線なのだ。
■「医療の原点」を問い直してきた医療者たち
一代前の劇団部部長をつとめた由井和也さん(58)は、佐久総合病院が育んできた「医療の民主化」とそれを支える演劇活動を大切に考えている医師の一人だ。
由井さんが劇団部の部長だった2018年、長野市芸術館の大ホールで公演をおこなったことがある。『志願兵』という戦争や軍隊の理不尽を描いた演劇だった。
舞台の最後、由井さんは劇団部部長として次のように語っていた。
「私たちは、日々病院で地域の人たちの命を救ったり、尊厳のある旅立ちを支援したりする仕事に取り組んでいます。でも、ひとたび戦争が起こってしまえば、その中で失われる命をつなぎとめることは、私たちが医療者であっても難しいと思います。健康を守るということは、単に病院で治療をすることだけではありません。予防することでしか失われる命をつなぎとめることができないとすれば、私たちは一生懸命その手立てを講じるべきだと思います。戦争をテーマにしたこの劇を、命を守る仕事をする私たち病院職員が演じることの意味は、そういうところにあるのかなと考えています」
この挨拶を聞いて、医療者が現在も演劇をする意味が、ストンと腑に落ちた。
佐久総合病院が始めた演劇による予防医療活動は、健康長寿日本一の長野県を支えてきただけでなく、医療の原点を問い直してきた。
■「健診屋になりさがるな」受け継がれる若月院長の遺志
このことは、16年前に私自身が感じた驚きと重なる。隙のない印象だった同級生が研修医らしからぬ衣装を身にまとい、舞台の上で人間らしい一面を見せたあのとき、私にとって医療者は権威的な存在から、自分と地続きの場所に生きる人に変わった。
それ以来、今もなお私は佐久の住民であり続けている。あのとき同級生が演じる研修医劇を見ていなかったら、私はきっと今、佐久に住んでいないだろう。
コロナ禍で下火になっていた演劇活動だが、今年は5月の研修医劇に加え、9月には地区の人権講演会でも演劇をおこなった。11月には健康祭りでも劇を上演する予定があるという。
仕事とプライベートの線引きを明確にすることは大切なこと。だがそれがいきすぎると、失われるものがあるのもまた事実である。若月はかねてより「健診屋になりさがるな」と医療の本質を訴えてきた。
医療とはいったいどこからどこまでなのか――。
この問いは、決して医療者だけに向けられたものではない。肩書や立場を離れて、人と正面から向き合い、何のために仕事をするかを常に頭の片隅で考え続けること。それは医療者だけでなく、あらゆる職業に求められる普遍的な姿勢である。
佐久総合病院の演劇活動は、その80年の歴史とともに、私たち一人ひとりに「仕事とは何か」を問いかける。
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ざこうじ るい
フリーライター
1984年長野県生まれ。東京大学医学部健康科学看護学科卒業後、約10年間専業主婦。地方スタートアップ企業にて取材ディレクション・広報に携わった後、2023年よりフリーライター。WEBメディアでの企画執筆の他、広報・レポート記事や企業哲学を表現するフィクションも定期的に執筆。数字やデータだけでは語りきれない人間の生き様や豊かさを描くことで、誰もが社会的に健康でいられる社会を目指す。タイ・インド移住を経て、現在は長野県在住。重度心身障害児含む4児の母。
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(フリーライター ざこうじ るい)