※本稿は、一ノ瀬俊也『〈国防〉の日本近現代史 幕末から「台湾有事」まで』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
■軍部が後押しした「女性の社会進出」
昭和戦前期の女性たちは、総力戦思想下の〈国防〉にどう関与して/させられていったのか。
石原莞爾が主導して1931(昭和6)年9月に起こした満洲事変は、国際社会から武力による侵略とみなされ、批判を招いた。しかし日本国内では中国の利権回収運動に対する自衛、正義の行動と宣伝されたため、国民のあいだに高揚感をもたらした。
事変下の32年3月、大阪で主婦の安田せいたちが「大阪国防婦人会」を結成し、兵士たちへの見送りや慰問などの活動を行った。この会は軍部の支援を受けて急速に発展し、10月、東京で「大日本国防婦人会」が結成された。やがて多数の会員を獲得し、同種の女性団体である愛国婦人会や、連合婦人会をしのぐ巨大組織となる。
国防婦人会は、白のかっぽう着に会名を記した襷をかけた会員の女性たちが各地で「国防は台所から」をスローガンに、出征兵士の見送りや慰問などの軍隊支援活動を積極的に展開した。その背後には陸軍の強力な支援があり、会の組織は陸海軍の予・後備役軍人の統制団体である帝国在郷軍人会をモデルにしていた。
婦人運動家の市川房枝は『女性展望』1937年9月号で、国防婦人会について「いうべき事はあるが、然(しか)しかつて自分の時間というものを持った事のない農村の大衆婦人が半日家庭から解放されて講演をきく事だけでも、これ婦人解放」であると好意的に評した(鹿野政直「ファシズム下の婦人運動」)。同会は女性の社会進出の一環としても語られるが、それを支援した軍部の意図はどこにあったのか。
■女性軍事支援団体の会員争奪戦
女性の大規模官製軍事支援団体として、すでに前出の愛国婦人会が存在した。
国防婦人会は女性たちに、総力戦体制確立への貢献を求めた。たとえば、同会総本部が1936年4月に発行した『大日本国防婦人会の栞』は、
国防施設の元素たる人と金と物に就(つい)ては、女子は匿れたる重要基礎を与えるものです。よき子を生んで之を忠良なる臣民に仕立て、喜んで国防上の御用に立て其の任に精進せしめ、立てた以上精神的にも物質的にも其の後顧の憂を除くよう家事を整え、又家庭経済を確立して国家経済に寄与すると言うことは実に女子の責任であり、此の責任を果すことは、実に国民皆兵の鉄則と、家族制度の本義に基く、女子に与えられました護国の基礎的務めです。此の務めさえ行わば我が国防の礎は鞏固(きょうこ)となるのです。
と、女性の務めは将来の兵士を産み育て、留守家族を思う兵士の悩み(「後顧の憂」)の除去、家庭経済の安定にあり、「国民皆兵の鉄則」上からも女性たちにはその責任があると述べた。
■発足宣言から透ける「思想統制」
このような女性の大衆動員は、従来の戦争ではなかった事態である。しかし会の目的はそれだけではなかったことが、会発足時の「宣言」(大日本国防婦人会総本部編『大日本国防婦人会十年史』)から読み取れる。
一 世界に比(たぐ)いなき日本婦徳を基とし益々之を顕揚(けんよう)し悪風と不良思想に染まず国防の堅き礎となり強き銃後の力となりましょう
二 心身共に健全に子女を養育して皇国の御用に立てましょう
三 台所を整え如何(いか)なる非常時に際しても家庭より弱音を挙げない様に致しましょう
四 国防の第一線に立つ方々を慰め其の後顧の憂を除きましょう
五 母や姉妹同様の心を以て軍人及傷痍軍人竝(ならび)に其の遺族、家族の御世話を致しましょう
六 一旦緩急〔有事〕の場合慌てず迷わぬよう常に用意を致しましょう。(同)
ここにみられる会の目的は、「二」の子育てや「四」の慰問よりもむしろ、彼女たちの思想統制であったといえる。「一」では「悪風と不良思想に染ま」ないこと、「三」では「如何なる非常時に際しても家庭より弱音を挙げない」ことを強調している。
■ドイツ敗北の原因とされた「婦人の不良思想」
『大日本国防婦人会十年史』には、同会の女性たちが排除すべき「悪風と不良思想」が、じつは第一次世界大戦の独国の敗戦と深く関係していたことを示す記述がある。
戦場に於ては到る所連戦連勝致して居りました独逸(ドイツ)が、最後に脆くも破れました其の原因も種々ありますが、国内に於て独逸婦人の気力が挫けたことも、亦(また)其の重大原因の一つと見られましょう。〔中略〕英国の食糧封鎖に遭い物資は欠乏する。〔中略〕もう戦争はやめて貰いたいと言う気分は婦人の間に流れました。〔中略〕独逸は遂に内より崩ずるるの悲運となり、敗戦となったのです。〔中略〕若(も)し此の時機に、独逸婦人が今一息頑張りましたならば、或(あるい)は斯様なことにならなかったかも知れませぬ。今後の我が国に降りかからんとする重大時局のことを思いますと、我が国婦人は大いに覚悟して、独逸婦人の二の舞を演じないようにすべきであります。(同、「二、本会創立の必要」)
この文章から、国防婦人会の設立目的の一つが、長期経済封鎖下の食糧不足、生活苦に対する女性たちの不満の抑圧にあったことがわかる。
■女性の相互監視は「国防の躾」
同会の活動を背後で支援していた陸軍は、第一次大戦時の独国が国内の不満高揚により最終的に内部崩壊したという認識を有していた。こうした認識は、当の独国でもいわゆる「背後からの一突き」論としてユダヤ人排斥の根拠となった。
陸軍の目的は、独国の「二の舞」を避けるために女性たちを組織化して思想を統制上から指導し、相互監視させることにあった。
彼はこのとき「米騒動の前例」を挙げ、国内の女性たちが「○国」(ソ連)の煽動に乗って反戦運動を起こしたが最後、「戦場に於ける吾々軍人は此の騒動を背後にして敢然前進出来るか! 必ずや敗けである」と危機感をあらわにしていた。
戦時における男女国民の戦意崩壊を極度に警戒していたのが、大正・昭和期の陸軍改革派の旗手と目される永田鉄山である。
永田は歩兵少佐当時の1920(大正9)年に記した「国防に関する欧州戦の教訓」で、日本国民に対し「戦争末期においてとくに高調されたデモクラチックの潮流が独逸の国民を軍国主義の悪夢から取り出した」とか「英米流の自由思想乃至(ないし)世界的新潮流の外的支配の結果であると観るのは中(あた)らぬ」と訴えた(永田鉄山著、川田稔編・解説『永田鉄山軍事戦略論集』)。
■「76万人の餓死者」では我慢が足りない
永田は独国が降伏して平和を求めたのは、その国民がデモクラシーや自由主義の理想に目覚めて軍国主義の誤りをさとったからではなく、「無識[階]級にあっては、戦争に倦(う)み生活が苦しくなったという単なる理由にもとづくものであ」る、これは当時自分が駐在していたスウェーデンでつぶさに独国内の情勢を観察して得た感想であり、間違いないと確信する、という。
日本国民は庶民に至るまで将来の戦時における生活苦に耐えよ、独国民のような醜態をさらしてはならぬ、というのである。
永田は26年の「国家総動員準備施設と青少年訓練」でも、
「戦争遂行にもっとも肝要な事柄は食糧を完全に供給することである。空腹は戦争のために第一の障碍である。現に世界大戦における露独の崩壊もある程度までは国民の空腹に源を発するというも差し支えあるまい」
「とくに四面封鎖の中にあった独逸等は1916年の冬を「蕪(かぶ)の冬」と呼んでいまも思い出の種となっている。当時独逸は麦粉や馬鈴薯(じゃがいも)が欠乏したので国民は蕪を主食として冬を過ごさなければならなかったのである」(同)
と、独国の内部崩壊の原因を飢えた国民の不満爆発に求めた。このとき独国では、女性と子どもを中心に76万人が餓死したとされる(藤原辰史『カブラの冬』)。
■陸軍が問題視した日本国民の危うさ
第一次大戦の独軍を指導した将軍ルーデンドルフも、総力戦では「国民の精神的団結」の重要性を説き、「総力的政治と総力戦の指導」の一環として「厳密なる新聞検閲」や「『不平分子』中少くともその首脳者の拘禁」を挙げている(ルーデンドルフ『国家総力戦』)。
次の戦争では国民の不平不満の拡大を阻止して「精神的団結」の維持に努め、勝たねばならないというのである。
永田から見ると、幸か不幸か過酷な大戦を経験せずに済んだ日本国民の状況は、以下にみるようにきわめて危ういものだった。
余事ながら一言しておくが、かく苦痛を体験して欧米国民はその間測(はか)るべからざる精神上の宝物を握り得たとも考え得られるのである。〔中略〕〔欧米〕国民の大部分は喪服を纏(まと)いつつ哀愁の裡(うち)にしかも最大の生活苦を忍びよくその試練を堪えてきたのである。幸か不幸か我が国民は当時戦争惨禍の外に超然として思い掛けない経済好況時代を迎え、滔々(とうとう)として成金気分に浸り何の屈託もなく栄華の夢を貪(むさぼ)っていたのである(永田著、川田編・解説『永田鉄山軍事戦略論集』、「国家総動員準備施設と青少年訓練」)
こうして陸軍は国民の思想統制を課題とみなし、その一策として国防婦人会への関与をはじめたのである。
■軍上層部が恐れた共産革命
国民の不満に対する極度の警戒心は、当時の支配層に共有されていた。思想検事として国民の取り締まりにあたっていた吉河光貞という人物は、1939(昭和14)年の著書『所謂(いわゆる)米騒動事件の研究』で、
騒動の実態は米価高騰で生活不安に陥った「一般下層民衆」の成金富豪の奢侈(しゃし)、米穀商の利己的な行為に対する「社会的不平」の「暴発」が群集心理に誘導されて「模倣的に伝播したる一の偶成的騒擾」に過ぎない、いささかも「反国体的動向」を発現しなかった事実を強調する必要がある(社会問題資料研究会編『所謂米騒動事件の研究』)と述べている。
吉河が米騒動は共産革命ではなかった、単なる「偶然」だったと強調したことはかえって、国民の食糧に対する不満が積もり積もって爆発し、共産革命へと発展することへの恐怖心を浮き彫りにしている。
このような態度は、独国民はけっしてデモクラシーや自由主義の正しさにめざめ、軍国主義の誤りをさとったのではない、と力説した永田鉄山とも共通している。
■戦争責任を問われた女性運動家
東京市防衛課勤務の上坂倉次は、1941(昭和16)年に刊行した啓蒙書『国民防衛の書』で、「総力戦に於ける思想もまた重要なる国防要素である」、いくら物資や労働力が豊富でも、国民の抗戦意識が弱ければ敗北は避けられない、第一次世界大戦で独国が敗れたのも、宣伝戦の失敗と経済的困窮が「国民の思想動揺の根源」となり抗戦意思を失ったためである、流言に惑わされるのは、国民が正確な知識と確固たる信念を持たないからだ、などと永田と同様に独国民の意志薄弱を引用して、日本国民が来るべき戦争に耐えられるかについての疑念を述べた。
ここでは、永田や上坂が国民の思想統制を「宣伝戦」と名付け、総力戦の一環として重視していた点に注目しておきたい。
戦時下の女性運動の指導者たちは女性の地位向上、または国家のため戦争協力に向かう。
前出の市川房枝は1940年に婦選同盟を解散して積極的に戦争への協力を説き、同じく女性運動家の奥むめおに「創立当初の目的からは次第に外れて、年々婦人による傍系の国策宣伝係に転化しつつあったことですから」と厳しく批判されてしまう(藤井忠俊『国防婦人会』)。
市川は政府にただ従うのではなく「協力しつつ、注文しつつのコースをたどっていった」ため、大日本婦人会からけむたがられて事実上追放される(鈴木裕子『新版 フェミニズムと戦争』)。
市川は敗戦後、GHQに戦争責任を問われて公職追放処分とされたが「それを不名誉とは思いません」「国民の一人である以上、当然とはいわないまでも恥とは思わない」と語っていた。
鈴木裕子は「『女権』とナショナリズムが、戦時下にあってはひときわ、市川房枝の心をとらえていたのではなかろうか」とみる(同)。
■銃後の相互監視社会
のちの対米英開戦後の1942年2月、国防婦人会と愛国婦人会、連合婦人会は大日本婦人会に統合される。その事業に「国防思想の普及」「家庭生活の整備刷新」「国防に必要なる訓練」などを掲げて未婚・満20歳未満の者を除く全女性を参加させ、会勢2000万と称する巨大組織となった。
同会の会誌『日本婦人』には、会が女性たちに行っていた言論統制の目的をうかがわせる興味深い記事がある。1943年、日婦本部弘報部長の高樹嘉一は「誤ったことを伝えて前線を心配させるのは、まるで敵に味方するようなものです」(座談会「銃火の前線慰問行より還(かえ)りて」同誌一巻八号)と、女性たちが前線兵士に送る慰問文の内容に注意を払うよう発言している。
1943年の『日本婦人』の別の記事でも、本部理事の林喜代子は「慰問文については余程書き方に注意が必要です。現地で兵隊さんから「品物ひとつ買うにも行列をしなければならぬと書いてあったが本当ですか」と質問されて驚きました。〔中略〕遠く離れていて銃後の様子がおわかりにならないのですから、誤解を招くようなことをただ書き放しにするのはいけません」と発言し、陸軍恤兵監(じゅっぺいかん)の倉本敬次郎少将は「第一線の士気を昂揚しなければならない慰問袋が、いい加減な手紙ひとつの為に却(かえ)って逆な影響を与えます」と応じている(「あなたの慰問袋の作り方・考え方は間違っていませんか 慰問袋座談会」同誌1巻12号)
■女性の国防とは何だったのか
こうした慰問文への口出しも、じつは「思想戦」の一環ではなかっただろうか。というのは、前出の上坂倉次『国民防衛の書』は「手紙のやりとりには特に防諜の着意を必要とする」「銃後から出す慎重を欠いた四方山(よもやま)の記事は、意外にも飛んでもない不安を戦線の兵員に伝播させ、米や木炭や、マッチ・砂糖等の生活必需品が国内に影も形もなくなって、銃後は塗炭の苦しみをして居るかのような印象を与え、後髪をひかれるような思いをさせて居る結果となったものが、相当多いのは遺憾である」と述べているからだ。
林と上坂の目的も、じつは銃後国民の“口封じ”にあったのではなかったか。
【まとめ】軍人たちは女性に家を守って兵士を支えるよう求めたが、同時に彼女たちに生活上の不平不満を言わせないことを「国防の躾」あるいは「思想戦」――内なる〈国防〉の一種と認識していた。国防婦人会、その後継の大日本婦人会は、女性どうしの相互監視を可能にする一大組織となった。
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一ノ瀬 俊也(いちのせ・としや)
埼玉大学教養学部教授
1971年、福岡県生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究科博士課程中途退学。博士(比較社会文化、九州大学)。専門は、日本近現代史。著書に、『近代日本の徴兵制と社会
』『銃後の社会史――戦死者と遺族』(いずれも吉川弘文館)、『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」――帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』(文春文庫)、『戦艦大和講義――私たちにとって太平洋戦争とは何か』『昭和戦争史講義――ジブリ作品から歴史を学ぶ』(いずれも人文書院)、『戦艦武蔵――忘れられた巨艦の航跡』(中公新書)など多数。講談社現代新書に『皇軍兵士の日常生活』『日本軍と日本兵――米軍報告書は語る』『飛行機の戦争1914-1945――総力戦体制への道』がある。
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(埼玉大学教養学部教授 一ノ瀬 俊也)