日本人の寿命がどんどん延びている。作家の五木寛之さんは「人生100年時代は50歳をひとつのピークと考えて、まずは最初の50年で山の頂をめざし、残りの50年でゆっくりと下山をしていくのだ」という――。

※本稿は、五木寛之『あきらめる力』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■「いいこともあるし、悪いこともある」
問 五木さんご自身が「長生きしてよかった」と思えることは何でしょうか?

答 世の中の趨勢を見続けられること
歳をとれば、いろいろ不自由なことも増えますし、病気もします。ですから、長生きしてよかったかと聞かれれば、「いいこともあるし、悪いこともある」としか答えようがありません。
よかったことを挙げるとすれば、多くの人と出会い、話ができることでしょうか。もともと私は人と話すことが好きで、昔から対談集、対話集を数多く出してきました。80代半ばを過ぎたいまでも、毎月二人ずつぐらい対談をしています。
私がこういう年齢になったからこそ、会って話をしたいと思ってくださる方もいらっしゃるでしょうから、歳を重ねるのも悪くはないなと思ったりします。
■トランプ大統領の登場は「面白そう」
もうひとつ、いまも世の中の動きを見続けられることは、長生きをしたおかげだと言えるでしょうね。インタビューなどで「いまの趣味は何ですか?」と聞かれることが多いのですが、そんなとき私は、「世の中を見ること」と答えています。
たとえば、アメリカでトランプというとんでもない大統領が出てきた。意外に思うと同時に、「これからどうなるんだろう?」「面白そうだ」と思ってしまう。
反知性主義がどこまで広まっていくのか。
アメリカのリベラル派はどう対抗していくのか。興味は尽きません。
世界経済を見ても、かつては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代がありましたが、いまの日本経済は低迷し、代わりに中国が台頭している。中国の勢いはこのまま続くのか。一方で、もうひとつの超大国であるアメリカは、どう中国と対峙していくのか。壮大な歴史ドラマを見るような気分で眺めています。
■日本がどうなるのか、この目で見続けたい
また、私はこれまで文章を書くことを生業(なりわい)としてきましたが、これから新聞社や出版社がどうなってしまうのかも気になるところです。昨今の出版不況の中、週刊誌はかなり苦しいようです。
数年前、『週刊現代』で『青春の門』の連載を再開したとき、編集者に「何歳ぐらいをターゲットにしているんですか?」と尋ねてみました。私としては、昔に比べて読者層が上がっているとしても、せいぜい50歳ぐらいだろうと思っていました。しかし、編集者が言うには、60歳なんだとか。私の予想を遥かに超えていたことに驚きましたし、いまが60歳ならば10年、20年後はどうなってしまうのかと思いましたね。

長く生きていれば、いろいろなことを見聞きし、経験することができます。中には凄惨(せいさん)な出来事もあり、気持ちが沈むこともありますが、一方でかつては想像もできなかったようなことが次々と起こる。
2020年には東京オリンピックもあり、オリンピックそのものもそうですが、オリンピック後の東京がどう変わっていくのか見てみたい、という気持ちをいまは持っています。
いまは時代の大転換点に差し掛かっています。これから先、日本や世界がどうなっていくのか、許されるかぎり、この目で見続けたいですね。楽しみです。
■人間が100歳まで生きる「未曽有の時代」
問 自分はいま50代前半ですが、人生100年と考えると、やっと折り返しを過ぎたところです。後半生を見据え、いまからやっておくべきこと、準備しておくべきことを教えてください。

答 未曾有の時代に直面する「覚悟」
この数年、私は事あるごとに「いまは未曾有の時代だ」と書いたり、しゃべったりしてきました。未曾有とは「いまだかつてなかったこと」という意味です。
では、何が未曾有なのか。
ひとつは、質問者の方がおっしゃるように、「人生100年」ということがあります。

明治時代、日本人の平均寿命はだいたい43歳ぐらいでした。終戦直後でもやっと50歳を上回るぐらい。ところがその後、平均寿命は年々延び続け、2017年時点で男女ともに80歳を超えているらしい(男性は81.09歳、女性は87.26歳)。将来的には、寿命が100歳まで延びる日がもうすぐそこまで来ています。
■「地図も羅針盤もない旅」を生き抜くには
もうひとつは「人口100億人」です。世界の人口は現在、75億人を超えています。日本をはじめとした先進国では減少傾向にあるものの、新興国で人口が爆発的に増えているためです。このままの勢いで増え続ければ、40年以内に100億人になるだろうと言われている。地球環境がその100億人という人口に耐えられるのか。まったく想像もつきません。
「人生100年」と「人口100億人」――人類はいま、この2つの未曾有の出来事に直面していると言っていいでしょう。
そんな経験はこれまでになく、誰も想定していなかったのではないでしょうか。
まさに現代は人類史の大転換の時代だと言えます。
半世紀近く前、『地図のない旅』というエッセイ集を出しましたが、これから先、私たちはまさしく「地図も羅針盤もない旅」をしていかなければなりません。
そんないまだかつてなかった時代を生き抜くために、いまの自分たちにできることは何か。
■事実を受け止める「覚悟」が必要
正直に申し上げれば、私自身もまだわかっていません。というか、いくら考えたところで、答えは見つからないんじゃないかと思っています。人類史的な問題なわけですから、私たちの日常的な発想の範囲内では到底及びません。
われわれにできることがあるとすれば、まずは「覚悟」を決めることでしょうか。自分たちはいま、これまでの人類が経験したこともない時代に突入しようとしている。そうはっきりと腹をくくる。
人間はつい、自分にとって不快なこと、恐ろしいことから目を背けようとします。本当は薄々気づいているはずなのに、知らないふりをして日々を送る。それは進行しつつある事態を直視したり、不確実な未来を想像したりすることが、不安で苦痛だからです。

しかし、私たちはいつまでも目を閉じたり、目を背けたりしているわけにはいきません。事態はいまも確実に進行しています。とすれば、事実は事実として受け止めるしかない。その覚悟を持たなければ、何も始まりません。
■これまでの仕事やライフスタイルを手放す
覚悟を決めたら、次に従来の常識や考え方、身のまわりの様々なシステムをいったんご破算にする必要があるのではないか。
私たちがこれまで慣れ親しんできたありとあらゆるもの――文化や芸術、仕事、ライフスタイル、政治・経済のシステム、思想や哲学などは、人生50年時代の産物であり、必ずしも人生100年時代に通用するとはかぎりません。たぶんほとんどは役に立たなくなるでしょう。
ですから、取捨選択をして、人生100年時代に無用なものは躊躇(ちゅうちょ)なく手放してしまう。
と同時に、人生100年時代にふさわしい新たな生き方をこれから模索していかなければならないのです。
■人生の「ピーク」から下山するときの景色
私がずっと一貫して言い続けてきたことは、「いま、いかに下山するか」ということでした。人生50年だった時代は、50年間で人生の山を登り、そして下っていきました。幸運にも長生きができたとしたら、50歳以降はおまけの人生、つまり余生です。

しかし、人生100年時代は違います。50歳をひとつのピークと考えて、まずは人生の前半期で50年かけて山の頂をめざしていく。そして後半生、残りの50年でゆっくりと下山をしていくのです。
下山というと、登山に比べて、少し寂しげな印象があるかもしれませんが、決してそうではありません。下山にこそ、自分の人生をより豊かなもの、より幸福なものにするための本質的な何かがある。私はずっとそう訴え続けてきました。また、過去を振り返り、回想することは、むしろ下山の醍醐味だと思います。
登るときには、脇目もふらず、後ろも振り返らず、必死に上へ、上へと登っていきます。まわりを眺める余裕なんてなかったはず。だからこそ、山を下りるときは、自分の歩んできた道や下界の景色、自分が立った頂上などをのんびりと眺めながら下っていく。そうすることで登りでは気づかなかったこと、見えなかったものが見え、それが人生を豊かなものにしてくれるのではないでしょうか。

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五木 寛之(いつき・ひろゆき)

作家

1932年、福岡県生まれ。戦後、朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。81年から龍谷大学で仏教史を学ぶ。主な著書に『青春の門』『百寺巡礼』『孤独のすすめ』、『うらやましいボケかた』(新潮新書)など。

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(作家 五木 寛之)
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