卑弥呼を女王とする邪馬台国がどこにあったのか、いまだに論争が続いている。駒澤大学名誉教授の瀧音能之さんは「北部九州連合と瀬戸内海東部・畿内連合の大連合によって誕生したのが卑弥呼政権であり、王都として未開拓の畿内が新たに選ばれたと考えられる」という――。

※本稿は、瀧音能之『発掘された日本神話 最新考古学が解き明かす古事記と日本書紀』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
■天岩戸神話は卑弥呼の死を意味する?
記紀における最も有名な神話が天岩戸神話だろう。スサノオの乱暴狼藉に恐れを抱いたアマテラスは天岩戸に隠れてしまうと、世界はことごとく暗くなり、あらゆる災いが起きた。この天岩戸神話について、卑弥呼の死の際に起きた皆既日食をあらわし、岩戸が開かれることは新たな女王・台与が立てられたことを意味する、という説がある。
卑弥呼の死は248年前後と考えられているが、247年と248年に日食が起きたことが判明し、脚光を浴びた。ところが、247年と248年はいずれも皆既日食ではなく、卑弥呼の王都として有力視されている纒向周辺では、247年は半分ほど、248年では8割ほどしか太陽が欠けていないことがわかっている。これより以前の候補とされる158年では、皆既日食となる。
『魏志』倭人伝では、台与が女王に立てられた年齢が13歳とあり、卑弥呼も10代で女王となったとすれば、生年は170年前後ということになる。そのため、158年の皆既日食に卑弥呼は関係しないことになる。
■火山噴火をきっかけに、あらゆる災いが発生
日食が関係しないとすれば、天岩戸神話における昼夜が失われる天変地異とは何だったのか。実際にあったのが、181年にニュージーランド北島にあるタウポ火山の噴火による異常気象である。この噴火は、地球で過去5000年間に起きた火山噴火の中で2番目に大きな規模で、巻き上げられた火山灰や火山ガスは成層圏にまで達し、地球規模で拡散した。

異常気象は2年間続き、中国では184年に黄巾の乱が発生し、後漢の衰退を招き、『三国志』の時代へと入る。『後漢書』には、181年2月、太陽が黄色い大気に覆われた(「黄気抱日」)とある。
黄巾(こうきん)の乱を起こした太平道は、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つ」をスローガンとしたが、コンピュータ解析による気候シミュレーションによって実際に中国上空が黄色く染まったことがわかっている。
中国の歴史書における「倭国大乱」の最もピンポイントな時期は、『梁書』倭伝の光和年間(178~184年)であり、このタウポ火山の噴火の時期と一致する。大阪湾から採取された物質の分析によって実際にこの時期に寒冷化が起きたことが確認されている。
タウポ火山の噴火によって、冷夏や旱魃、日照不足による不作、粉塵による健康被害、そして軍事危機が発生し、『古事記』における「あらゆる災いがことごとく発生した」という記述を彷彿とさせる。
■「スサノオ=朝鮮半島からの難民」説
タウポ火山による異常気象は日本や中国のみならず、当然のことながら古代の朝鮮半島にも大きな影響を与えた。『魏志』韓伝では、農民たちが流して韓(朝鮮半島南部)に流入する者が多くいたと記録している。さらにドミノ式に、中国や朝鮮半島の難民が北部九州へと流入してきた。
アマテラスが天岩戸に入るきっかけとなったのは、スサノオがアマテラスのもとにやってきたことが原因である。記紀では、イザナキから命じられた海原の統治を怠ったスサノオは、天上世界からの追放を命じられる。そこでスサノオは別れの挨拶のためにアマテラスのもとを訪れる。
アマテラスはスサノオが攻め入ってきたと考え武装して待ち構えた。
スサノオはもともと朝鮮半島の神である可能性が高く、『日本書紀』一書には、地上世界に追放後、朝鮮半島に降り立った後に船で出雲へ来訪する物語を伝える。そのため、スサノオは渡来人を仮託した存在と見ることもできる。
スサノオの訪問に対するアマテラスの対応は、朝鮮半島から流入する難民に対して、警戒する北部九州の様子をあらわしているとも考えられる。
■難民の流入で北部九州は荒れていった
スサノオは侵攻の意思がないことを示すために誓約(うけい)という古代の儀式を行った。これによって潔白が証明されたスサノオはアマテラスのもとに滞在することが許された。ところが、スサノオは田の畔<あぜ>を破壊して埋める、御殿に糞便を撒き散らす、といった悪行を重ねた。
これらのスサノオの悪行とは、北部九州に押し寄せた難民の姿をあらわしているのではないだろうか。北部九州では、難民受け入れ後の土地や住居、食料の不足などによる混乱があったことをあらわしているように読み取れる。
ところがこれらの悪行に対して、アマテラスは寛容な姿勢を取り続ける。北部九州は、難民受け入れを表明した政策をあくまでも続行したのだろう。
ところがスサノオの悪行はエスカレートして、馬の皮を剥いで機屋(はたや)に投げ込む暴挙に及び、これに驚いた機織りの女官は女陰を突いて亡くなってしまった。
これは難民による暴行をあらわしているとも読み取れる。
また『日本書紀』ではアマテラス自身が機織りをする描写があり、機織りの女官とはアマテラスの分身的存在とする見方もあることから、難民による北部九州の王権への政治的介入や簒奪未遂があった可能性もある。
■吉備や出雲、畿内や東海に対する「鎖国」
軍事危機の痕跡の指標として高地性集落の出現がある。高地性集落とは、稲作を行う平野部とは別に見晴らしがよい丘陵部などに築かれた集落で、敵襲を即座にほかの集落に伝える狼煙(のろし)台を備えていた。農作業を行う田畑から遠い、不便な高台に住居を設けることから、高地性集落の出現は、軍事的な緊張があったことを物語っている。
タウポ火山の噴火による異常気象によって大量の難民が流入した北部九州は、その対応に追われたことだろう。北部九州では争乱の痕跡は見られず、九州の東部に高地性集落の出現が見られる。ここは豊予海峡を挟んで九州と四国を結ぶ要衝である。また瀬戸内海西部(大洲)にも高地性集落が出現し、北部九州が東方に対して備えたことがわかる。
2世紀に入っても伊都国を中心とする北部九州は政治的・経済的に繁栄を続けていたが、吉備の楯築墳丘墓、出雲や越の大型の四隅突出型墓、タニハの大型長方形墳丘墓など、各地で大型の首長墓が造営されるようになった。また畿内や東海では独自の銅鐸文化が発展し大型化していった。
こうした各地の勢力の隆盛によって、北部九州の優位性が失われる中で起きたのが、2世紀後半の社会的混乱であり、北部九州は国外的にも国内的にも内向きの政策を取るようになったと考えられる。

アマテラスが天岩戸に隠れる描写は、伊都国の王権による北部九州の「鎖国」状況をあらわしているとも読み取れるのだ。伊都国、奴国、筑紫平野、瀬戸内海西部を範囲とする、いわばブロック経済で、タウポ火山の噴火にはじまる危機を乗り切ろうとしたのだろう。
■瀬戸内海を挟んで鉄を巡る争いが勃発
『後漢書』東夷伝では、2世紀後半の倭国の状況について、「こもごも相攻伐し、歴年主なし」とあり、「倭国大乱」の様子を伝えている。天岩戸隠れと考えられるタウポ火山の噴火は、東アジア全体に社会的混乱をもたらした。
古代日本にとってとりわけ大きな問題は、朝鮮半島からもたらされる鉄の供給が不安定化したことだ。比較的、鉄を確保しやすい北部九州や日本海沿岸部に対して、瀬戸内海東部から畿内、東海にかけてでは、少ない鉄の確保を巡る争いが発生することになった。
2世紀後半から3世紀後半までの鉄器の出土量を見ると、九州が突出して多く、次いで出雲、瀬戸内海西部となっている。さらに、これらの地域の鉄器のほとんどは工具や農具といった生活に用いるものだ。一方で、瀬戸内海東部や東海地方では鉄器の出土量は少なく、氷上回廊でつながるタニハや播磨では鉄器が多く出土しているが、圧倒的に武器が多い。
■「倭国王」の後継者がおらず、大乱へ
瀬戸内海沿岸部には2世紀中頃から後半にかけて、ほぼ全域にわたって高地性集落が出現している。令和5年(2023)には、兵庫県明石市の東野町遺跡で、2世紀後半の高地性集落が発見された。見つかったのは竪穴住居跡2棟で、そのうちの1棟の柱穴からは炭化した垂木材が発見され、火災によって焼失したことがわかっている。
このエリアは氷上回廊の瀬戸内海側の出入り口である播磨文化圏の東端にあたる。
東野町遺跡は稲作が可能な平野部から約40メートル高い位置にある。この東野町遺跡から東に約2.5キロの地点にも高地性集落跡(石ケ谷遺跡)がある。二つの高地性集落の前面には明石海峡があり、交通の要衝を監視する役割があったと考えられる。
自給できない鉄の不足によって、帥升が倭国王となった吉備の求心力は急速に低下したことは想像に難くない。これを物語るように楯築墳丘墓以降に吉備で、巨大な墳丘墓が造営されることはなかった。
楯築墳丘墓の北西約700メートルの位置には鯉喰(こいくい)神社墳丘墓がある。墳丘規模は東西約40メートル、南北約32メートルの長方形で、弧帯文石や特殊器台の破片が発見されたことから、楯築墳丘墓に続く首長墓と考えられているが、墳丘規模は大幅に縮小している。
このことは帥升の後継者は「倭国王」として盟主となることができなかったことを示している。こうして「主なし」の状態となった瀬戸内海東部から畿内にかけて、「倭国大乱」とされる混乱期に入ったのである。
■北部九州のブロック経済vs諸勢力連合
瀬戸内海東部から畿内にかけての混乱に対して、北部九州連合は九州東部に高地性集落を造営し、ブロック経済を構築した。これによって、瀬戸内海東部から畿内における鉄供給量はますます減ったことだろう。

やがて、北部九州の経済圏に対抗するために、「相攻伐」する状態だった瀬戸内海東部から畿内にかけての諸勢力は連合を組むことになったと考えられる。
この様子は、記紀における天岩戸神話にも描かれている。天岩戸が閉じたことで発生した社会的混乱に対処するために、神々は天安河原に集まり、話し合うことになったのだ。この神議に参加した神々を見れば、「倭国大乱」後に瀬戸内海東部から畿内にかけての各勢力が行った連合結成会議の実態が見えてくる。
■神議に集まった神々はどこから来たのか
記紀では、天安河原の神議を開催するにあたって主催者は特に記されておらず、主語は「八百万の神々」となっている。「倭国大乱」によって盟主的存在が失われている状態が、ここからもうかがえる。
ただし、神議自体は、知恵の神とされるオモイカネが議長的な役割を担っている。オモイカネはタカミムスヒの子であることから、帥升の後裔の吉備王と推測できる。また同じくタカミムスヒの子である力の神アメノタヂカラヲは吉備の軍事を司る者だったのではないだろうか。
神議に参加した神々にゆかりが深い地を見てみると、アメノコヤネ(河内)、アメノフトダマ(讃岐・阿波・紀伊、タカミムスヒの子)、イシコリドメ(大和)、タマノヤ(イザナキの子=淡路島)となっており、瀬戸内海東部から畿内にかけての諸勢力が集まっていることがわかる。
ここから見えてくるのは、北部九州との通商交渉のための、瀬戸内海・畿内連合の誕生である。瀬戸内海沿岸部に広がった高地性集落の分布だが、実際に戦闘が行われた痕跡はほとんど発見されていない。北部九州が朝鮮半島からの難民に対処するために結束したのに対して、瀬戸内海東部から畿内の勢力もまた、競争・対立ではなく、連合する道を選び、鉄の安定確保のために一大経済圏を構築したのである。
■「鏡・勾玉・剣」のセットで北部九州を懐柔
瀬戸内海東部・畿内連合は、北部九州が独占していた交易の主導権を奪うために圧力と懐柔の両面でアプローチした。
記紀には天岩戸を開くために、後に三種の神器となる八咫鏡をイシコリドメが、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)をタマノヤが作ったことが記されている。その際、アマツマラという鍛治職人が八咫鏡を作ることを補助する。アマツマラはこの時に剣あるいは矛を作ったとする説がある(この剣は後にスサノオから献上される天叢雲(あめのむらくも)の剣(つるぎ)に置き換えられたとする)。
鏡・勾玉・剣(矛)のセットは北部九州の副葬品の文化である。瀬戸内海東部・畿内連合が北部九州を懐柔する姿勢がうかがえる。
準備が整うと、神々は天岩戸を開く儀式を行い、やがてアメノウズメが滑稽な踊りを披露した。これを見た神々が笑うと、訝(いぶか)しがったアマテラスが天岩戸を少し開けてアメノウズメに理由を尋ねた。アメノウズメは「貴方よりも貴い神が現れたからである」と答え、八咫鏡が掲げられた。
■「開国」と卑弥呼政権の誕生を象徴している
アマテラスがよく見ようとさらに天岩戸から出たところをアマノタヂカラヲがアマテラスの手を引っ張り、天岩戸の外に出したとある。
「貴方よりも貴い神が現れた」ことは、瀬戸内海東部・畿内連合の誕生を意味し、北部九州の王権の象徴である八咫鏡にアマテラスを映す行為は、伊都国王の地位を保証した上で、連合に加わることとすればわかりやすい。
天岩戸開きとは、北部九州連合が瀬戸内海東部・畿内連合に対する「開国」を意味し、「倭国大乱」後に成立した卑弥呼政権の誕生を象徴する神話と推測できる。
■纏向遺跡は卑弥呼政権の王都以外ありえない
天岩戸開き神話に象徴される北部九州と瀬戸内海東部・畿内の大連合によって誕生したのが卑弥呼政権である。この卑弥呼政権には、アマテラス系統であり北部九州を代表する神聖王(卑弥呼)と、吉備のタカミムスヒ系統で瀬戸内海東部・畿内を代表する執政王(男弟)の二重統治体制でスタートしたと考えられる。
『魏志』倭人伝では、卑弥呼が立てられたのは188年頃とされる。タウポ火山の噴火から10年弱で卑弥呼政権は誕生したことになる。
卑弥呼政権の王都があった邪馬台国がどこにあったか、現在でも畿内説と九州説を主として論争が続いているが、ここでは畿内説を取ることにする。
3世紀初頭に突如として出現した纏向遺跡は、面積約300万平方メートルに及ぶ巨大集落であり、遺跡全体に水路が巡らされた計画都市だった。さらに発見された建造物は南北約19.2メートル、東西約12.4メートルに及び、付随する建築物の軸線をそろえた最先端かつ最大級の建築物群である。これほどの規模の王都を持つのは、日本列島で卑弥呼政権以外にあり得ないためだ。
畿内説のウィークポイントは、北部九州の先進性に対して、畿内の後進性が挙げられる。畿内勢力は銅鐸文化圏を形成した一大勢力ではあるが、北部九州や吉備、出雲などに対して、強力な首長は誕生せず、鉄器や銅鏡などの出土数が少ない。
しかし、これまで述べてきた通り、卑弥呼政権はアマテラス系統の北部九州とタカミムスヒ系統の吉備を中心とする勢力との連合政権であり、畿内は必ずしも中心地ではない。二重統治体制を取るにあたって、北部九州と吉備は互いの本拠地を王都にするのではなく、まだ未開拓の畿内が新たに選ばれたと考えられる。
また、タウポ火山の噴火に端を発する食糧危機と人口減少に対して、四方を山に囲まれ風水害が少なく、かつ大陸の動乱の影響を受けにくい場所だったという点も指摘される。

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瀧音 能之(たきおと・よしゆき)

駒澤大学名誉教授

1953年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、明治大学大学院文学研究科博士課程中退。博士(文学)。専門分野は、日本古代史。著書・監修書に『出雲古代史論攷』(岩田書院)、『図説 出雲の神々と古代日本の謎』(青春出版社)、別冊宝島『日本の古代史 ヤマト王権』『完全図解 日本の古代史』『完全図解 邪馬台国と卑弥呼』、宝島社新書『巨大古墳の古代史 新説の真偽を読み解く』『隠された古代史 記紀から消された古代豪族』、TJ MOOK『古墳で読み解く日本の古代史』『今こそ知りたい日本の古代史』(以上、宝島社)などがある。

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(駒澤大学名誉教授 瀧音 能之)
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