のび太が独り身のまま50歳を迎えたらどうなるか。家族社会学者の山田昌弘さんは「野比家は、『8050問題(80代の親が50代の子の生活を支える問題)』に直面することになる。
家族を持てば安心ではなく、家族を持ったからこそ逃れられないリスクがある」という――。
※本稿は、『単身リスク 「100年人生」をどう生きるか』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■サザエさん一家に介護問題は起きるか
まずは、日本の国民的漫画『サザエさん』を思い出していただきたい。終戦直後の1946年に連載が開始された『サザエさん』の家族構成は、波平・フネの夫婦(50代)に、サザエ・マスオの若夫婦(20代)、そして孫のタラちゃん。ここにサザエさんの弟妹のカツオとワカメ(小学生)も交ざり、磯野家は総勢7人の三世代同居を営んでいる。
みなで和気あいあい仲良く暮らしている風景は、微笑ましいだけでなく頼もしくもある。それぞれが学業や仕事、家事や育児を担う大家族では、家族の誰かがケガをしたり病気になったりしても、大きな不安はないはずだ。誰かしらが家にいて面倒を見ることもできるだろう。
漫画で描かれることはなかったが、仮に将来、フネや波平が年老いて介護が必要になっても、その状況は変わらない。専業主婦のサザエさんが中心となり、それにカツオやワカメも協力し合い、外部のサポートも受けながら、なんとか介護を乗り切れるはずだからだ。
少なくともマスオさんひとりが介護に奔走し、疲れ果てて介護離職しなければならなかったり、ワカメやカツオがヤングケアラーに陥ったりするリスクは少ないだろう。
しかし、現代においてこうした大家族はもはや少数派になっている。
2020年の国勢調査によると、サザエさん的な「三世代同居世帯」は全体の9.4%に激減している。その代わり増えたのは、「核家族世帯」の55.3%である。そしてその数値に追いつかんばかりの勢いで増えているのが、「単独世帯」の29.6%である。
■野比家に潜む家族リスクとは
では、今度は『サザエさん』に続いて昭和後期より現在まで人気を博している漫画、『ドラえもん』を見てみよう。1969年に連載が始まったこの作品では、当時増えつつあった「核家族世帯」が描かれている。両親2人に、子ども1人の3人家族という典型的な核家族だ。お母さんは専業主婦、お父さんは勤め人。家族3人(+ドラえもん)で食卓を囲む光景は平和そのもので、いつ見ても和む。そんな野比(のび)家に「家族のリスク」が潜んでいるとは到底思えない。
だが、想像をもう少し未来まで広げてみよう。『ドラえもん』の世界観では、未来はいくつかのバージョンがあるようだが、今回は現実的な路線で行く。もし、のび太があの無気力のまま、勉強にもスポーツにも無関心で、将来ニートになったらどうするか。

おそらくは心優しいパパと、口うるさいが面倒見の良いママは、ひとり息子ののび太を無情にも路上に放り出したりはしないだろう。のび太がのんびりアルバイト程度で小銭を稼ぎつつ、パラサイト・シングルとして実家に寄生し続ける。そんな将来像も容易に想像がつく。
では、そんな非正規雇用者ののび太と、しずかちゃんははたして結婚してくれるだろうか。
のび太が仕事には熱を入れなくても家事や育児をしっかりやってくれる主夫になるならともかく、何事にも無気力のまま日中ダラダラ寝て過ごすならば(仮に小学生時代から成長していなければの話だ)、しずかちゃんにいくら愛情があっても、のび太との結婚生活は大きなリスクを伴うものとなる。
■家族ゆえに逃れられない「8050問題」
さらにシビアに将来予測をするとして、もしのび太が独り身のまま50歳を迎えたらどうなるか。もちろん現実バージョンでは万能ロボット、ドラえもんは存在しない。四次元ポケットで難問を解決してくれる頼もしい相棒はいないのだ。そうなった時、野比家は、「8050問題(80代の親が50代の子の生活を支える問題)」を無事クリアできるだろうか。
大人気漫画を不幸バージョンにしてしまい申し訳ないが、それこそが本書『単身リスク』で前述した、社会学者のウルリヒ・ベックが指摘する「家族のリスク」である。起きる確率は100%ではないし、起きてほしくもない未来。だが、十分ありうる未来像だ。

それ以外にもDVや虐待、離婚や介護など、結婚や家庭生活に纏(まつ)わる「リスク」はたくさんある。「家族を持ったから大丈夫」では決してなく、むしろ「家族になったからこそ逃れられない」リスクがある。しかも核家族化する時代、その逃げ場は決して多くはない。
■「我が子はそのうち自立してくれるはず」
2000年。1999年のノストラダムスの大予言で示された世界の終わりの日を無事乗り切り、新しい世紀が始まった。就職“超”氷河期世代が社会に出て、「ニート」「フリーター」「パラサイト・シングル」などが大勢生まれていたが、どこかまだ「自由に生きる」「好きを仕事にする」といった明るい見方が、若者を中心にあった。昭和的な堅苦しいしがらみを捨て、世間体にとらわれない「自分らしい生き方」。それがCMでも雑誌でも喧伝された時代であった。
だが、その“活力”は、比較的裕福な親世代の体力・資本があってこそのエネルギーだった。ちょうど彼らの親世代が昇進していき、収入が増えていく時期に重なってもいた。親としても、いずれ退職・引退するだろうが、それなりの退職金がもらえるはずだし、年金もある。健康面でもいまだ不安はない。
子どもの収入が心もとなくても、実家暮らしなら心配ないし、身の回りの世話もまだしてやれる。
「人生100年時代」という考えはまだ世に出ておらず、退職金と年金を合わせれば夫婦2人と子どもくらいなんとかなるだろう、そう気楽に構えていた家庭も少なくなかったのではないか。何しろ親世代としては、子どもは大人になればみないずれ仕事を持って結婚するものだと信じ込んでいる。「たまたま今は不景気で、不運な我が子は非正規社員やアルバイトだが、やがて時が来ればちゃんと働くか、娘なら正社員男性と結婚して、親から自立してくれるはず」。そんな楽観的希望もどこかにあったはずだ。
■隠された若者の貧困と格差の拡大
だが、これは社会全体としてはとても危険な信号だった。
若者の格差拡大・貧困化が確実に進行しているにもかかわらず、「家族」の存在でそれが隠されてしまったからだ。若者が“寄生”でき、援助を頼める親世代がいる。それが政府の危機感を曇らせた。
当時、非正規職員として貧困化する若者たちにパラサイトする実家がなければ、あるいはパラサイトしたくても実家に経済的余裕がなければ、その時点で「若者の貧困化」はただちに可視化され、憂慮すべき社会課題になっていたはずだ。
街に若者のホームレスが溢れ、犯罪が増え、社会秩序が乱れていけば、日本政府は「若者の貧困化」を見て見ぬふりはできなかったのではないか。実際ヨーロッパではそのような事態になり、政府は若者政策を充実させていった。

■政府が家族に押しつけた若者のサポート
しかし日本では、彼らの存在は隠された。政府は貧困化する若者が大勢存在することを知りながらも、無視することができた。問題を先送りできた。満足な収入を得られず、生活に困窮する若者のサポートを「家族」に押しつけることで、彼らの人生の責任を取ることを一時的に免れたのだ。
正社員として働ける若者の支援は「企業」に頼り、正社員として働けない若者の支援は「家族」に依存する。政府からも子どもからも依存される「家族」にとっては、たまったものではなかった。それでも大切な家族である。多少の無理はしても、我が子を放り出すことは依然しない。
格差社会は、ここから徐々に広がっていった。「親や企業など依存先を持つ者」と、「企業にも親にも依存できない者」、つまり「持てる者」と「持たざる者」の明暗が、くっきりと分かれていったのである。

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山田 昌弘(やまだ・まさひろ)

中央大学文学部教授

1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。
1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主著に『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『「家族」難民』『底辺への競争』(朝日新聞出版)、『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』(光文社)、『結婚不要社会』『新型格差社会』『パラサイト難婚社会』(すべて朝日新書)、『希望格差社会、それから』(東洋経済新報社)など。

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(中央大学文学部教授 山田 昌弘)
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