なぜ部下は上司に相談せず、生成AIの言うことを鵜呑みにするのか。評論家の與那覇潤氏は「この現象は今に始まったことではない。
“日本人らしさ”の象徴ともいえる」という――。(取材、構成=ライター・島袋龍太)
■日本人は判断を第三者に委ねがち
上司や同僚よりも「生成AI」を頼る若手社員が問題になっています。生成AIは時に支離滅裂な答えを返しますが、それすら鵜呑みのままコピペして、会社の資料や報告書を作ってしまう。書類をチェックする上司は頭を抱えているそうです。
そう聞くと昨今の「AI依存」もここまで来たかと驚きますが、一方ではいかにも「昔ながらの日本人」の行動にも見えてくる。意思決定を「第三者」に委ねることで中立性を装い、こっそり自分の責任を肩代わりさせるのは、この国の悪い習慣でもあります。
名前に「第三者」と付いた途端、信頼度が急騰する現象は、最近ではタレントの不祥事をめぐってフジテレビが立ち上げた「第三者委員会」でもおなじみです。少し前の新型コロナウイルス禍の当初も、政府はいわゆる「専門家会議」を設置して対策を諮問しましたが、この会議も(常設の省庁と異なる)第三者的な性格がありました。
第三者と聞くと、当事者ではない分「公平中立で客観的に検証してくれる」という響きがある。もちろんそうした一面はあります。しかしそれと表裏一体のリスクが、忘れられてはいないでしょうか。
■「第三者」幻想がもたらすリスク
「問題の当事者でなかった」ことは、その人が完全に中立公平で「出す結論が正しい」ことを意味しません。
第三者にせよ、彼ら自身のバイアスから自由ではないからです。依頼主がテレビ局であれば、その局の組織風土よりも「問題を起こした個人」に責任を帰しがちかもしれない。感染予防を最優先する専門家は、「罹っても治ればいい」という観点には立ちにくいかもしれない。
にもかかわらず、批判意識を持たずに彼らの主張を絶対視し、「この人たちはプロだ。素人は黙れ!」と異論を叩いて回るSNSでの取り巻きが、令和には増えました。
また第三者的な存在は、しばしば「相互の責任転嫁」の舞台になります。コロナ禍では不人気な対策について、政府は「専門家がこうしろと言ったから」と説明する。しかし専門家会議も「私たちはあくまで助言者。決めたのは政府です」としか答えない。互いに相手のせいにして、誰も責任を負わない状態が出現しました。
こうした現象には歴史上、先例が多い。有名なのは戦時中の陸海軍です。

■影響力は大きいが責任は取らない「参謀」
戦前の陸軍大臣は陸軍全体のトップではなく、あくまで「陸軍省」を管轄する仕事で、作戦や用兵の責任者は参謀総長でした(海軍大臣に対しては、軍令部総長)。敗北し司令官が更迭されても、当の作戦を立てた参謀はそのまま居座って、次の作戦も立てる例が多かった。名義上の運用者と実権の所在とが異なる「参謀型リーダーシップ」が、無責任をはびこらせ敗戦につながったと、半藤一利氏など多くの昭和史家が指摘しました。
参謀や専門家に判断を丸投げし、「プロの助言に従っただけだ」として責任の回避を図る日本の指導者は、書類づくりを生成AIにやらせれば、ミスを指摘されても「AIが言ったんで……」で乗り切れると思う若者と変わらない。意思決定の責任を負うことを渋ってきた日本人の習い性に、いまはAIが接続されただけとも言えます。
■生成AIが崩壊させる対人関係の安心感
もっとも「人間のAI依存」が加速したのには、新しい要因もあります。SNSが普及し「つながり過ぎた」社会では、対人関係で安心感を得られない人が増えました。
インターネット以前は、トラブルがあっても「その場限り」のことで、よそには波及しなかった。ところがいまや些細な感情のもつれでも、SNSで告発されるや無関係の野次馬が集まり、いつまでも非難し続ける。キャンセル・カルチャーの標的にされ、職や地位を失うことさえ起き得ます。
こうなると、「あの人がこう言ったので」として、他人を信頼することのコストが高くなる。「お前、あんなやつと仲良くしてたんだってな」と、いつ揚げ足を取られるかわかりませんから。
そんな不安から、AIしか頼れない人が増えてしまった面はあるでしょう。
不安と安心の違いは、その気持ちを育てるスピードです。刃物を突きつけて「殺すぞ!」と怒鳴れば、一瞬で相手を不安にできますが、同じ勢いで「安心しろ!」と叫んでも、みるみる安心感が湧き起こることはありません。
安心感が根を下ろすには、「リスクの予測可能性」が不可欠です。この程度の失敗なら、「被害が出てもここまでだろう。それ以上の大ごとにはならないだろう」という見通し、相場観のようなものですね。あらゆる些事がSNSでリンクし、バズりつつ増幅される環境は、そうした相場観を壊してしまいました。
■「一般論」であふれ返る社会はディストピア
しかもリスクの相場が崩壊した社会と、生成AIは相性がいい。出力される文体が網羅的な箇条書きであるように、生成AIは質問された時点での「最大公約数的な一般論」で応答するのが得意だからです。
友人や同僚との関係を思い出してほしいのですが、まだ信頼できるかわからない相手と話す時ほど、人は無難な会話に終始しますよね。つまり、一般論が占める割合が高くなる。逆に「この人は信用できるな」と思った相手にだけ、自分のプライベートを開示し、個別で具体的な相談事を持ちかける。

なので仲間意識を持たず、信用しあわない社会では、人間どうしの会話も生成AIに似てきます。仕事の書類をAIに作ってもらい、そのまま上司に提出する若手社員は、そもそも職場の誰も仲間だと思っていないのです。
理解不能な若い世代の出現を、昭和には「新人類」などと呼びましたが、令和の「AI若者」の原点を描いたとも言えるのが、有名なカミュの『異邦人』です(1942年)。第二次大戦の後に実存主義のブームを起こした小説ですが、殺人を犯す主人公の特徴は「誰とでも等距離」であること。母親の葬式でも、恋人とのデートでも、のっぺらぼうで表情が変わらない。つまり相手を「親密か否か」で、見定める感覚がない。
『異邦人』の原題はフランス語の“L'Étranger”で、英訳だと“The Stranger”ですが、精神科医の土居健郎はむしろ『他人』と訳すことを提唱しました(『「甘え」の構造』1971年)。家族や彼女も含めて、全員を「他人」としか感じない主人公は、ある意味で究極の平等主義者ですが、それゆえに人として壊れている。
不安の中で失敗を恐れ、第三者こそが「客観的で、価値中立だ」との幻想を膨らませた結果、生成AIが打ち出す一般論しか頼れない社会。それは『異邦人』の主人公が多数派となり、職場にひしめく状況と大差ないのです。
■「忖度しない」という人間らしさ
だいぶ前から、ビジネスメディアでは「AIに代替されない人材」の議論が花盛りです。先日、大学の同窓会に出た際にも、面白い話を聞きました。
いまや就活生のエントリーシートも、生成AIに下書きしてもらうのが基本だから、選抜する側もそれを見抜くのが仕事になっている。
ではどうやって、AIにはできないコミュニケーションをしかけて、その人の本質を見出すか。皮肉な話ですが、相手の気持ちを忖度せず「前提をひっくり返す」応答を試すことだというんですよ。生成AIは意外に、質問文の語彙や語尾を「こういう答えが欲しい」というシグナルに変換して、それに応じた答えを返しますから。
■全人類“ひろゆき化”する未来
例えば「子どもが不登校で困っています」と生成AIに入れたら、各種の相談窓口を見繕ってくれる。むしろ、「そもそも学校に行く必要ってあるんですか?」と返すことの方が、人間にしかできない。ひろゆきさんとかが、よくやる喋り方ですよね。
その意味で彼はAIに代替されない人材かもしれませんが、しかしあらゆる人がAIにできないコミュニケーションをめざして「ひろゆき化」したら、社会が崩壊します。相互不信の究極系で、互いに相手を「論破してやったぜ!」と思いあいながら暮らす状態ですから。すでにSNSの一部はそうなっていますが。
それ以外の道を探すには、不信ではなく相互の信頼、安心感を回復することが鍵になります。他の人とぶつかればいつかはトラブるけど「大したことにはならないさ」という楽観を、どこかで得てもらえるようにしないといけない。
若手社員が書類の間違いを恐れて生成AIを使ってきたなら、まずは「間違えていいんだって。それがきっかけで覚えるんだから」と声をかけてあげることです。
■上司は“失敗”をどんどん語るべき
いま若い人がミスを怖がる以上に、上司にあたる年長者もまた、自分の負の側面を見せたがらないように感じます。つまり、ポジティブなことばかり口にしている。
自己啓発の本や動画は「これで成功した」「こうして乗り切った」といった、輝かしいエピソードばかりで、あたかもその人にはマイナスの側面は「なかった」かのような顔をしている。そんな話ばかりを聞いていれば、たった一度のやらかしでも「終わりだ」、なら言い訳のできる生成AIに……となってゆくのも当然でしょう。
AIでなく人間の上司にできるのは、むしろ積極的に自分の失敗や躓きの体験をシェアして、「それでも大丈夫」という感覚を次の世代に育てること。人生からゼロにできないネガティブな要素を、諦めや露悪趣味に陥らずに語れることが、これからのリーダーの条件だと思います。

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與那覇 潤(よなは・じゅん)

評論家

1979年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験をつづった『知性は死なない』を刊行し、以降は在野で活動。著書に『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』『歴史なき時代に』『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞。最新刊は、戦後80年に際した『江藤淳と加藤典洋』(プロフィール撮影:中村治)

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(評論家 與那覇 潤)
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