※本稿は、阿刀田高『90歳、男のひとり暮らし』(新潮社)の一部を抜粋・再編集したものです。
■ユーモアは笑いに直結するものではない
だれかの人柄が紹介されるとき「ユーモアのある方です」と言われれば、これはほとんどの場合、褒められている。ユーモアは褒め言葉なのだ。なぜだろう?
──笑いを誘うからだろ──
確かに笑いは喜びを生む。“笑う門には福来たる”という諺(ことわざ)もあるし、笑うと健康にもよいらしい。
しかしユーモアは笑いに直結するものではない。笑いを誘うとしても微笑くらい。笑いだけを求めるなら落語、漫才、笑話、お笑いタレントの雑技など、ユーモアとは少し異なるものがたくさんある。
ユーモアは必ずしも笑いをともなわないし、どこか知的で、楽しさの中にも苦さ、鋭さ、怖さを秘めていることもある。
広辞苑では“上品な洒落やおかしみ”と解し、日本国語大辞典では “人を傷つけない上品なおかしみやしゃれ。知的なウイット、意志的な風刺に対して感情的なもの。
■巨人が優勝できなかったのは誰のせいか
そこで例えば、どんなときにユーモアを感ずるか、あえて微量のユーモアを並べてみれば、
「失恋しちゃった」
「おいしいショートケーキがあるわ」
失恋を慰めるのではなく、心の悲しみを味覚の楽しさでさりげなく誘い補う。そんなところに私はユーモアを感じてしまう。
あるいは、
「麻雀って健康な遊びだな」
「そうかな。徹夜でやったりして」
「そう。健康でなきゃやれない」
普通の考え方から外れて、そこにユーモアが漂う。もう一つ、
「ジャイアンツ、優勝できんかったなあ」
「ああ」
「どこが悪いんだ」
「俺が悪かった」
なにも関係がない一ファンたる俺が反省しているところが(熱狂的なファンにはこの心理があったりするのだ)おかしい。
■ユーモアを持つ人が好かれる決定的理由
つまりユーモアには、普通なら“こう考える、こうなる”ということに関して、それとはべつな、少しヘンテコな、しかし言われてみれば“それも言えるな”を軽やかに示す要素が含まれているのだ。
そこにちょっとした知性が感じられるのだ。べつに笑わなくてもいい。笑うとしてもかすかである。
日常において普通とは違う知的なアイデアが浮かぶということ、これが尊い。
社会生活において、ほとんどの場合、予測されることがその通りに流れていくのに対し、この奇妙な、ささやかな抵抗が快い清涼剤になったりして、私はここにこそユーモアが注目され褒められる淵源(えんげん)がある、と考えるのだ。
ささやかな、べつな見方、これが大切なのだ。そしてユーモアを持つ人が好まれ、褒め言葉になるのはこれが思いのほか役立つときがあるからだ。
■良いダジャレ、悪いダジャレ
私たちの社会生活において一番繁くこの軽いべつな見方を知るのは、私が思うに“しゃれ”ではあるまいか。言葉遊びの代表である。本当に多い。
先にも触れたが、もともと日本語は音の数が少なく、従って同音異義語や、それに近いものが多く、そのため言葉じゃれが多く語られ、昨今は至るところで眼にする、耳にする。例えば、
「人生にはサカが3つある。上り坂、下り坂、それからまさか、だ」
総理大臣が言ってたなあ。私は、これ大好きだ。90年の人生を顧みて、本当にそう思う。
NHKテレビの天気予報では、珍しい蠟梅(ろうばい)の開花が映り、予報士が「あまり早いので狼狽してます」と周囲は苦笑。
巷間(こうかん)でもこのところのアメリカ大統領について「トランプなのにハートがないね」。確かに温かい心があるかどうか……。
ただし私たちお馴染みの54枚札は英語ではただカード(あえて言えばプレイング・カード)で、トランプとは言わない。トランプは切り札だ。ならば「トランプさんはよくトランプを切りますね」ありうるね。
■日本語はユーモアたっぷりの言語
日本人の庶民的な言葉遊びは(世界的に見ても)多彩なものであり“6月9日はロックの日、11月26日はいい風呂の日”など駄じゃれが親しまれているばかりか、その他、回文“たけやぶやけた”や無理問答“一枚でもせんべいとはこれいかに”“一個でもまんじゅうと言うがごとし”や地口“着たきり雀”や早口言葉“東京特許許可局”などなどいろいろあってユーモアが散っている。
“草加、越谷、千住の先よ”なんて、ありゃなんなんだ?(答は奥州街道の名所だが「そうか」と頷きたいのです)
さらに言えば川柳、狂歌はもちろんのこと、俳句や和歌にもユーモアを含むものがある。万葉集巻十六の“この頃の吾が恋力記し集め功に申さば五位の冠”なんて恋の努力を立身出世に費せばかなり偉くなれるかも……古き昔のユーモアだ。
■「山田課長ってハゲてる人?」にどう返す
大辞典にユーモアは“人を傷つけないもの”と言っているが、傷つけるケースもよくあって、
石橋を死ぬ気で渡れ困り顔
過日チラリと耳にした。“いしばし”から後ろの“し”を抜く(しぬき)と、どうなるか、もともと困った顔の方ですね。
庶民のあいだなら、
「山田課長って禿げてる人?」
「額が広いんだよ」
いますね。
「その女(ひと)、きれい?」
「個性的だな」
厭味ではあるけれど、嘲笑の中にもユーモアが潜むときがある。
■絞首台に向かう死刑囚が放ったユーモア
ユーモアについてはすこぶる厳しい解釈があって、フランスの文学者A・ブルトン(1896~1966年)によればユーモアの本質は黒く染まり、S・フロイト(1856~1939年)の挙げたエピソードを紹介している。
それは“ある月曜日、絞首台に引かれていく死刑囚が「今週は幸先がいいぞ」と叫んだ”であり、これがユーモアの一形式なのだ、と……。
私なりにやさしく説明すれば、逆境にある者が自分の存在を現実を越えたりっぱなものに伸し上げようとして示す毅然たる心理、それがユーモアなのだ、ということらしい。
おわかりだろうか。日本の俚諺(りげん)にも“引かれ者の小唄”があって、これは負け惜しみの強がりのことだろうが、黒いユーモアととることができるのかもしれない。「俺は平気なんだ」と歌なんか唄って。
■ユーモアは、ガキにはわかるまい
いろいろ御託を並べたが、要はユーモアがひどく複雑で微妙な心理に由来するものであり、軽々にはつかめない。幼少年にはわかりにくい。
子どもは「おそば屋さんには動物が3匹いるんだね、きつね、たぬき、それから大ざる」なんてユーモアを示すことはできても、それをユーモアと感ずるのは大人のほうだ。
端的に言おう、つまりユーモアは世間を知り、人間を知り、知識をえて初めて近づきうるものであり、年齢を重ねてわかる代物なのだ。
多事多難、まっすぐには進まない、おもしろくも悲しい人生の中にヒョイと現れるささやかな笑い、抵抗、あきらめ、などなどから生ずる微妙なものなのだ。だから、
──老いてこそユーモア──
と私は信ずる。今さらまっとうなことばかり考えていても仕方がない。
■「仕方がない」は老人の友
私はこのごろ、“仕方がない”と思い、このエッセイでもしばしばそう綴っているけれど、“仕方がない”は老人の友であり、ユーモアと仲よしなのだ。
「あれも仕方がない、これも仕方がない」。でもなんとかそこそこに生きて御飯を食べ、笑ったり悲しんだり、
──人生ってそんなもの──
そう納得したときユーモアはしたり顔でチョロリと現れて少し頰笑ませ、少し癒してくれるのだ。もうあまり頑張ること、ないんですよね、本当は。あと少しユーモアを抱いて……。
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阿刀田 高(あとうだ・たかし)
作家
1935年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。国立国会図書館に勤務しながら執筆活動を続け、1978年『冷蔵庫より愛をこめて』で小説家デビュー。1979年『ナポレオン狂』で直木賞、1995年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。
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(作家 阿刀田 高)