※本稿は、小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■アメリカで新聞社の職を得て、最初の結婚
アメリカのシンシナティ・エンクワイアラー社に就職したハーンは、恋に落ちます。マティ・フォリーという、白人農園主と黒人奴隷の間に生まれた人です。時に物思いにしずんだ表情を浮かべていました。この人の語る身の上話に、幼い頃から孤独感にさいなまれてきた八雲は感銘を受けたことでしょう。
それに彼女が語る幽霊話が絶品でした。並外れた記憶力があり、描写力は詩人のようでした。話をする時の、低く静かな声の力に圧倒されました。妖精や幽霊といった、目に見えない存在を尊ぶ八雲です。
ついに気持ちが抑えられなくなり、結婚を申し込みました。
当時のオハイオ州の法律は白人と有色人種の結婚を禁じていました。そんな時代に黒人の血を引くマティと結ばれたら、違法行為で罰せられるかもしれません。
■黒人奴隷の娘との結婚が問題になり、解雇
しかし、この結婚を理由にシンシナティ・エンクワイアラー社を解雇されます。ライバルの新聞社で働けるようにはなりましたが、3年ほどで結婚生活は破綻してしまいます。
米国に渡って8年。粘り強く、機会を探り、つかみ、だんだんと順風を感じられた頃でした。それだけに、この離婚は痛かった。世間の目の厳しさが身に染みたことでしょう。この時、そもそも胸の内に秘めていた白人中心主義への反発が燃え上がることになるのです。
八雲は南部のニューオーリンズに移り住み、そこでも新聞記者として働きます。独りに戻り、心機一転を図りたかったのでしょう。行ってみると、肌に合いました。
何より、ニューオーリンズにはフランスでもアフリカでも米国でもない、多彩な世界観を包み込むクレオール文化が息づいていました。人種差別の痛手をこうむった八雲にはそれが心地よかったのです。
この地はジャズ発祥の地です。黒人ミュージシャン、ルイ・アームストロングが1960年代後半、「この素晴らしき世界(What a Wonderful world)」を歌い、ベトナム反戦の世相と相まってヒットし、今も歌い継がれています。
■ニューオーリンズの万博で日本文化に出会う
その地で「万国産業綿花百年記念博覧会」(1884年12月16日~85年5月31日開催)が開かれました。
30代半ばの八雲は、東洋から唯一の参加国だった日本のパビリオンに心をひかれました。出展された織物に描かれた富士山の意匠や、古代の青銅器、陶磁器といった異文化の産物に目を開かれます。責任者だった文部官僚、服部一三(いちぞう)(1851~1929)と意気投合しました。彼の口から聞かされる逸話に、明治期の日本の知的レベルが垣間見え、驚きました。
この頃には神話伝説を再話文学として編み直し、『異邦文学残葉』(1884)『中国霊異談』(1887)といったタイトルで出版する機会も得ました。経験を重ね、いつか新聞社をやめて物書きとして独立しよう、と望むようになります。
■生涯で30冊の本を書いた八雲文学の真骨頂
八雲は作家として、生涯に約30冊を刊行しています。見渡してみて、真骨頂を発揮するのは再話文学、それと紀行文ですね。
取材をして、現場で市井の人たちが語る言葉から通底するものを蒸留して書く。五感から感じ取った熱をもとに書いてゆく、と言ってもいいでしょう。人々に宿る「ひとつの真理」をつかむ書き手でした。
少年時代に身につけたフランス語を武器にフランス文学の翻訳にも努めました。それに2作だけですが、小説も残しています。
小説の方は自然現象や地形などの描写はすごいのですが、人間像を一から描き、物語を紡ぐのには、少々難がある書き手のように僕には思われます。
やはり、新聞記者から出発した物書きなのです。現場の空気感をつかみ、人の肉声や見えざるものの声音を感じ取りながら、積み上げてゆくスタイル。それが八雲には向いているのでしょう。
ニューオーリンズで知ったヴードウ教の呪術やゾンビ信仰への興味が深まってゆきます。
ここではシリリアという地元女性に家事をしてもらいました。彼女の語る幽霊話に耳を傾けたものでした。
■『古事記』を英訳した東大の教師チェンバレン
その後、ニューヨークで、英訳された奈良時代の歴史書『古事記』と出会います。雑誌社ハーパー社にいた仲間に借りて読み、感銘を受けました。これが転機になります。訳者は日本学者の友人バジル・ホール・チェンバレン(1850~1935)。その後、人生の節目節目でつながってゆく英国人の日本学者で、外国人として初めて東大名誉教師になった人物です。
この人の後押しもあって、八雲は後に島根や熊本でポストを得られたと言います。
後に二人は学問上の考えは異なる面が生じますが、チェンバレンは八雲の没後も残されたセツと子ども4人の暮らしを支えてくれた恩人です。英語のできないセツのため、米国の出版社との著作権を巡る交渉の際などに骨を折ってくれました。
■雑誌社の特派員として39歳で初めて日本へ
さて、日本への思いに矢も盾もたまらなくなった八雲です。雑誌社ハーパー社に日本訪問への熱意を伝え、企画を練り、特派員として契約を交わしました。カナダ・バンクーバー経由で日本に向かいます。39歳、1890(明治23)年の春でした。
航海17日目、横浜に上陸した時にはすでに日本に腰を落ち着けて暮らそう、という意志が固まっていたのでしょう。ほどなくチェンバレンに、日本での就職先を求めて手紙を書きます。ニューオーリンズの博覧会で知り合った文部官僚の服部一三も、その後の道をつけてくれました。
ハーパー社とはその契約内容に疑問を抱き、袂(たもと)を分かってしまいます。八雲の想定とは異なり、ともに来日した挿絵画家の方が待遇がよいことを知ってしまったのです。裏切られた思いがして怒りを抑えられなかったのでしょう。思い込むと行動せずにはいられない。八雲はそういう人です。
■「人も物もみな神秘をたたえた妖精の国」
とはいえ、ハーパー社の大きな支援があればこそ、1890年代、はるかな日本に辿り着けたわけです。そのあたり、強引ともいえる攻めの姿勢は、やはり平凡な僕にはとてもまねができません。
身一つで欧州から米国に渡り、寝るところもない境遇から人生を切り開いたことで、こんな力業も身についたのでしょうか。
ともあれ、逆境にもまれたことが図太さを宿しました。それが日本での原動力になります。
「人も物もみな、神秘をたたえた、小さな妖精の国」
来日直後に横浜で見た情景から、八雲は日本の第一印象をそう書き記しました。あこがれの国にようやく辿り着いた時、40歳間近になっていました。
人物紹介
バジル・ホール・チェンバレン(イギリス)1850~1935年
東京帝国大学文科大学教師 博言学、日本語学
明治19(1886)年4月1日~明治23(1890年9月23日)東京帝国大学雇用
明治6(1873)年5月9日来日、同8月15日より個人の英学教師、明治7(1874)年9月1日より海軍兵学寮の英学教師を歴任後、東京帝国大学教師となり、後の文学部国語学研究室の基礎を作った。明治24(1891)年3月7日、外国人として最初の東京帝国大学名誉教師となる。
明治25(1882)年以降、数回英欧日本間を往復したが、最後はスイスのジュネーブに住み、昭和10(1935)年2月15日死去。王堂、チャンブレンと自称して、和歌をよくし、日本語(含アイヌ語、琉球語)についての研究業績や日本文化の紹介などを日本アジア協会・ロンドン日本協会・イギリス人類学会などに発表した。また日本語ローマ字化運動を積極的に推進し、文部省に対して建議書を提出した。
(東京大学附属図書館サイトより。※同サイトでは「バシル」と表記)
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小泉 凡(こいずみ・ぼん)
小泉八雲記念館館長
1961(昭和36)年、東京都生まれ。成城大学大学院で民俗学を専攻し、87年から曽祖父・小泉八雲ゆかりの松江市で暮らす。小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、島根県立大学短期大学部名誉教授を務める。著書に『怪談四代記 八雲のいたずら』(講談社)、『小泉八雲と妖怪』(玉川大学出版部)など。撮影=朝日新聞出版写真映像部・佐藤創紀
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(小泉八雲記念館館長 小泉 凡 取材・文=木元健二)