■山東京伝は“できる”商人の父に溺愛された
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)において、戯作者で浮世絵師の山東京伝を演じるのは俳優の古川雄大さんです(朝ドラ『エール』、『大奥 Season2幕末編』などに出演)。京伝が生まれたのは宝暦11年(1761)8月15日のこと。江戸、深川木場町の質屋において京伝は誕生します。
京伝の父は岩瀬伝左衛門(伊勢国出身)と言いました。伝左衛門が奉公したのが深川木場の質屋(伊勢屋)であり、彼はそこの主人に認められて、ついに主家の養子となります。堅実で弁舌も巧みであったことがその要因だったようです。伝左衛門が結婚したのが大森氏の娘でした(伊勢屋は大森氏の実家)。京伝が生まれた時、父は40歳、母は30歳を過ぎていたとされます。
京伝の幼名は甚太郎。京伝は年少の頃より物を大切にする性格であったようで、父から貰った糸印や机を長じてからも大事にしたとのこと。京伝は愛くるしい少年だったようで、両親に溺愛されたと言われています。ちなみに京伝には弟がおり、戯作者として著名になる山東京山がそれです。
安永2年(1773)、京伝の家は木場から銀座に移転します。家が銀座に移ってから、京伝は長唄と三味線を堺町の松永氏から習ったのですが、モノにならなかったようです。しかし、その頃から京伝は浮世絵師の北尾重政(「べらぼう」で橋本淳が演じる)から浮世絵を習っています(京伝は画家としては北尾政演と号します)。多くの小説類を読み、狂歌や俳句を詠んだことも、戯作者・京伝の血肉となったでしょう。京伝の代表作としては黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』が知られています。
■遊郭に通って人脈を作り、才覚を発揮
京伝は若き頃から遊里(遊廓)に通うようになりました。遊郭というと性風俗というイメージを持つ人も多いかもしれませんが、そうしたイメージのみで塗りつぶせるものではありません。「当時の紳士の交際場」であり「富豪や地位の高い武士たちの洗練された遊び」が展開されたところでもあったのです。遊郭は若い芸術家・京伝の「最高学府であった」とするのは日本近世文学の研究者・小池藤五郎(元・立正大学教授)です。遊郭において京伝は繊細な人情の動きなどを学んでいったのです。それが後の作品作りに際して活かされているということです。
■実家の商売を手伝いつつ、戯作執筆に励む
それにしても京伝の遊郭通いを堅実な父は反対しなかったのでしょうか。
京伝は家にいる時はその2階に引きこもって創作に励んでいました。実家の店の経営は父が差配し、息子は煙草入れや煙管のデザインを工夫するのみだったと言います。父が長く家主の立場にあり、店の経営が安定していたこともあり、京伝は生活のためにあくせく働く必要がなかったのです。よって京伝は父が生きている間は、創作に注力することができたのです。
京伝は執筆活動は必ず夜にしていたとのこと。深夜も執筆していたこともあり、京伝が起き出すのは日が傾く頃でした。ある人は京伝のこの習慣を諫めたようです。「朝に太陽の光を受けず、深夜まで起きているのは養生のために良くない」と。が、京伝の深夜の執筆スタイルは変わることはなかったとか。
■最初の妻は吉原の遊女だったが…
さて、吉原に出入りする京伝は容姿の端麗さもあり、かなりモテたようです。京伝の妻となったのは遊女でした。江戸町扇屋の花魁・花扇付きの菊園(番頭新造)が京伝の最初の妻になったのです。2人が結ばれたのは寛政2年(1790)のことでした。京伝とは天明期(1781~1789)から関係があったといいます。ところが2人の結婚生活は3年しか続かなかったのです。
菊園は血塊(体内に血のかたまりができる病気)に罹り、不幸にも亡くなってしまうのでした。菊園が病に苦しむ声を聞くに忍びず、京伝は吉原に居続け家に帰らなかったとの説もあります。そしてこの頃から江戸町玉屋の遊女・玉の井(本名は百合)に馴染んだというのです。しかし、この説には疑いが持たれています。玉の井が「吉原細見」(吉原遊郭の案内書)に登場するのは寛政9年(1797)のことだからです。また京伝は温厚で情にもろい人物であり、病の妻を置いて吉原に居続けるなどは考えられません。
■2人目の妻にもわざわざ遊女を選んだワケ
両親は良家の子女を望みますが、京伝は再び遊女出身の玉の井を妻に迎えるのでした(1800年)。玉の井の境遇は憐れむべきものでした。両親は既に亡く、弟は奉公に出て、妹は他家に貰われていくことになります。そうした生い立ちに京伝は同情したことでしょう。「京伝に逢んとならば、玉屋へゆくべし」との諺(ことわざ)ができたほど京伝は玉の井にのめり込み、遊郭を宿にしていた訳ですが、倹約を旨としており、1日に金1分のほかは使わなかったと言います。
また玉の井も賢い女性であったようで、費(つい)えを省き、美服を嫌ったとのこと。それでいて、美女で性格も良かったので、京伝は玉の井(以後、百合と記載)と結ばれてからは遊郭に足を踏み入れなかったとの話もあります。京伝と百合は17歳の年の差がありました。京伝は自分の方が百合よりも先に死ぬと思い、自分が亡き後の百合の身を案じていました。よって倹約していたのです。
倹約して貯めた金150両(現在の750万円ほど)で株を購入し、百合に与えたとされます。
■松平定信の出版統制で手鎖50日の罰を受ける
さて次々と黄表紙や洒落本を発表する戯作者・京伝の人気は上がっていき、蔦屋(重三郎)の看板作家にまでなります。京伝は寛政3年(1791)、蔦屋から洒落本『仕懸文庫』『娼妓絹籭』『錦の裏』を刊行しますが、それが騒動を巻き起こします。時は老中・松平定信による寛政の改革(その1つに出版取締令があった)の最中。前述の3作品が「不埒の読本」であるとして、蔦屋重三郎は重過料、京伝は手鎖50日という罰を受けるのです。
しかし3作品と似たような本はこれまでにも刊行されており、特段問題になるようなものではなく、重三郎と京伝は見せしめにされたとの見解もあります。重三郎は豪胆な男であったので、おとがめをそれほど気にする風はなかったが、京伝は「謹慎第一の人」になったと言います。だが、この出来事は京伝の名を一段と高めることになるのです。手鎖刑に処された京伝は自由に往来する人々を見て、とてもうらやましく思ったそうです。
■創作は本業ではなく副業にすべきだと考えた
この前年、京伝は重三郎に断筆宣言をしていました。戯作というような「無益の事に日月および筆紙を費やすことは戯けの至り」と京伝は重三郎に話したとされます。
寛政2年(1790)は京伝と最初の妻・菊園が結婚した年。新婚生活を送る京伝が戯作によってこれ以上、窮地に陥ることを回避しようとしたとしても不思議ではありません。断筆宣言をした京伝に対し、重三郎は「そのようなことになっては、私の店は衰微してしまいます。是非、当年ばかりは作品を書いてください」と懇願。京伝は重三郎とは久しい知音ということもあり、重三郎の願いを聞き入れます。
しかしその翌年に筆禍に遭うのですから、京伝は断筆宣言を撤回したことを後悔したかもしれません。元より京伝は、戯作は「世をわたる家業があった上で、その傍らで慰みにすべきもの」という考えを持っていました。戯作者志望であった曲亭(滝沢)馬琴にそのように諭しているのです(1790年)。
寛政5年(1793)、京伝は銀座に煙草入れ店を開きますが、それは前述の京伝の考え方をまさに実行したものといえるでしょう。洒落本の筆は折った京伝ですが、黄表紙は書き続けていくことになります。しかしその過程においても戯作執筆を「せねばならぬせつなし業」「ますますいやに相成候」(曲亭馬琴宛書状)と京伝は漏らしていました。家業ある京伝にとり、原稿料が貰えるとはいえ、執筆に追われる生活は嫌で嫌で仕方なかったのです。作家志望の人にとっては「ぜいたくな悩み」というべきでしょう。
参考文献
・小池藤五郎『山東京伝の研究』(岩波書店、1935)
・佐藤至子『山東京伝』(ミネルヴァ書房、2009)
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(歴史研究者 濱田 浩一郎)