古代中国において、皇帝の至上命令は「子孫繁栄」だった。しかし、歴史の裏側を覗くと同性愛に溺れる皇帝も少なくなく、帝に愛される美少年には、ある共通点があったという。
中国史の専門家2人が解説する――。
※本稿は、中華耽美小説迷倶楽部『中華BL小説ガイドブック』(誠文堂新光社)の一部を再編集したものです。
■なまめかしい白肌を持つ美男子を…
解説:早稲田大学文学学術院教授の柿沼陽平さん
中国古代の王族貴族は、性を問わずに恋愛をした。女性が女性を愛することも、男性が男性を愛することもあった。
子孫を残すことが父母に対する孝行であり、孝行なくしては生きていけぬ時代だったから、子どもは残しておいたほうがよいが、正妻を娶(めと)り、子をなす努力をかかさなければ、それ以外に恋愛対象がいてもあまり問題にならなかった。
むろん、妻との関係はギクシャクするわけだが……。
ところで、中国古代の美男子といえば、色白の美女のごとき男性を指すことが多かった。
たとえば、魏の明帝から「白粉を塗っている」と疑われるほどの「至白」の肌をもつ何晏(かあん)白玉とみまがうばかりの肌をもつ王衍(おうえん)。「凝脂(ぎょうし)」のごとき白肌と漆のごとき瞳(ひとみ)をもつ杜乂(とがい)などがいる。
また、魏晋時代に絶世の美男子として名を馳せた夏侯湛(かこうたん)と潘岳(はんがく)は、いつも仲よく連れ立って遊んでおり、「連璧」と評された。
「璧」とは玉器の一種だから、やはり彼らもなまめかしい白肌をしていたのであろう。
■「私もすぐ捨てられる」と泣く美少年
男が選ぶ男もまた、色白の美男であることが多かった。
君主のお相手として選ばれる美少年は「佼人(こうじん)」や「童(どう)」などと呼ばれ、とくに女性らしさを備えていたようだ。
実際に、戦国時代の魏の龍陽君は「天天(ようよう)たる桃李(とうり)の花」と形容されており、モモやスモモの色鮮やかさに喩えられている。
龍陽君は仙女に比せられ、美女にため息をつかせるともいわれ、女性と競合するような形姿をしていたとみられる。
彼らの台詞もまた愛らしい(と同時に怖い)。龍陽君はあるとき、魏の恵王と釣りを楽しんでいた。魚を釣るたび、さきに釣った小魚を捨てる恵王に対して、龍陽君は「王はすぐ目移りなさる性格ゆえ、私もすぐ捨てられる」と泣いた。
そこで恵王は以後、ほかの美男子の採用を禁じたとか。表向きは龍陽君の愛らしさをしめす故事だが、もちろんその真意はライバルを蹴落とすことである。
■寝室を共にし、「相愛」の関係にあった
こうした故事は数えきれぬほどある。たとえば漢代の歴代君主の多くは男娼を抱えており、「佞幸(ねいこう)」とよばれた。
彼らの多くは、オシャレな冠をかぶり、白粉をつけており、「ガチムチ」というよりも、なよなよした印象を受ける。有名な佞幸としては、前漢の哀帝の腕まくらで昼寝をした董賢(とうけん)がいる。

また武帝などは宦官も愛したようだ。たとえば李延年は腐刑に処され、のちに宦官として武帝に仕えた人物だが、音楽に優れ、武帝と褥(しとね)を共にした。
ちなみに若き武帝のそばには、韓嫣という男性もおり、彼らは10代をともに過ごした。韓嫣は武芸に優れていたとされるので、マッチョだったかもしれない。
やはり好みは人それぞれで、とくに武帝は女性のごとき李延年も、男性らしい韓嫣も好みだったのであろう。
彼は武帝と寝室を共にし、「相愛」の関係にあり、のちに「姦」のゆえに死刑になっているため、やはり武帝とねんごろな関係にあったとみられる。
武帝自身、若い頃にはあまり女性に手を出さなかったことが知られるが、ひょっとして韓嫣がそばにいたからであろうか。
■中華BLの舞台になった魏晋南北朝時代とは
解説:中国史講師の会田大輔さん
中華BLの中には魏晋南北朝時代を題材にした作品がある。例えば墨香銅臭『魔道祖師』は魏晋南北朝時代を参考にした架空世界が舞台となっており、梦溪石『千秋』は南北朝時代後期を舞台にした作品である。
では、魏晋南北朝時代とはどのような時代だったのだろうか。時期は後漢が崩壊した2世紀末から隋が中華を再統一する589年までを指す。
王朝でいえば、三国(魏・蜀漢・呉)→西晋→五胡十六国・東晋→北朝(北魏→東魏・西魏→北斉・北周)・南朝(宋→斉→梁→陳)が相当する。

もう少し詳しくみていこう。地球が寒冷化した2世紀末、黄巾の乱を契機に後漢が崩壊し、群雄割拠を経て皇帝が鼎立する三国時代が到来する。
曹操の息子の曹丕が建国した魏(220~265)、劉備が建国した蜀漢(221~263)、孫権が建国した呉(229~280)である。
■漢人による南朝vs遊牧民を中心とする北朝
このうち魏では司馬一族が台頭し、蜀漢を滅ぼした後、魏を簒奪(さんだつ)して西晋(265~316)を建国した。
西晋は呉も滅ぼして三国時代を終わらせた。魏・西晋では貴族社会が成立し、哲学的談義が流行した(清談)。この魏晋期の社会や文化が『魔道祖師』には取り込まれている。
しかし、4世紀初めに五胡(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌などの遊牧・牧畜民)が挙兵・侵入した結果、五胡十六国が黄河流域を支配し、生き残った西晋の皇族によって長江流域に東晋(317~420)が成立した。
5世紀には五胡十六国の中から北魏(386~534)が台頭し、439年に華北統一を果たした(北朝成立)。一方の東晋も420年に宋(420~479)にとってかわられた(南朝成立)。
南朝では魏晋以来の貴族社会が継続した。遊牧民を中核とする北朝と漢人による南朝が対峙する南北朝時代を迎えたのである。

遊牧民を支配者層の中核とする北魏は中国的制度と遊牧的制度を併用していたが、5世紀末に孝文帝によって中国化政策が断行された。しかし、その反動で六鎮の乱が発生し、北魏は東西に分裂するに至った(534)。
■陳を滅ぼし中国再統一を成し遂げる
華北東半を支配した東魏(534~550)は北斉(550~577)にかわり、華北西半を支配した西魏(535~556)は北周(557~581)にかわった。
北周の武帝(宇文邕)が北斉を滅ぼして華北統一を果たしたが、武帝没後ほどなくして楊堅が帝位を簒奪して隋を建国した(581)。
一方、南朝は宋→斉(479~502)を経て、6世紀初めから半ばまで梁の武帝(蕭衍)が君臨していたが、侯景の乱(548~552)を契機に梁は崩壊し、陳(557~589)が建国された。
最終的に陳を滅ぼして中国の再統一を果たしたのは、北朝の系譜を引く隋である。この南北朝時代末期(北周・北斉・陳)から隋を時代背景とした作品が『千秋』である。
■日本に「輸入」された制度・社会・文化の土台
魏晋南北朝時代は激動の時代であった。
しかし、同時期のユーラシア西部でも、フン族の影響でゲルマン民族の大移動が始まり、ローマ帝国が東西に分裂しており、ユーラシア中央部でも遊牧民のエフタルがイランのササン朝に大打撃を与えていた。
これは偶然ではない。2~3世紀の地球寒冷化を機に遊牧・牧畜民が大移動を始め、4世紀にはユーラシア各地の古典文化圏に大打撃を与えたのである。すなわち魏晋南北朝時代とは世界史の画期に当たっているのだ。

また、魏晋南北朝時代に生み出された新たな制度・社会・文化は、隋・唐に発展的に継承され、朝鮮半島や日本列島にも伝播して大きな影響を与えた。この点でも魏晋南北朝時代の意義は大きいのである。

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柿沼 陽平(かきぬま・ようへい)

早稲田大学文学学術院教授

1980年、東京生まれ。2009年早稲田大学大学院博士後期課程修了。日本学術振興会特別研究員、中国社会科学院歴史研究所訪問学者、早稲田大学文学学術院助教などを経て、 現在、早稲田大学文学学術院教授、長江流域文化研究所所長、日本秦漢史学会理事、中国出土資料学会理事等を務める。中国史専門。2006年3月に小野梓記念学術賞、2016年3月に櫻井徳太郎賞大賞、2017年3月に冲永荘一学術文化奨励賞を受賞。著書に『中国古代貨幣経済史研究』、『中国古代の貨幣 お金をめぐる人びとと暮らし』などがある。

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会田 大輔(あいだ・だいすけ)

中国史講師・明治大学兼任講師

1981年、東京出身。専門は中国史 (おもに南北朝隋唐史)。明治大学大学院修了。博士(史学)。
日本学術振興会特別研究員 (PD) を経て現在、明治大学・東洋大学・山梨大学等非常勤講師。2021年に初の単著『南北朝時代―五胡十六国から隋の統一まで』を上梓。大恵和実名義で中国SFの翻訳・編集も手がける。

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(早稲田大学文学学術院教授 柿沼 陽平、中国史講師・明治大学兼任講師 会田 大輔)
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