■Karoshi大国・日本のトップの「馬車馬」発言に世界中が震撼
2025年10月、自民党初の女性総裁となった高市早苗氏は「私自身がワーク・ライフバランスという言葉を捨てます。働いて働いて働いて働いて働きます」と宣言した。
国民への献身的な姿勢を示す発言として頼もしく思える人が多くいた一方で、「Karoshi(過労死)」という言葉が世界的に知られる労働環境であるだけに内外で物議を醸している。少子高齢化危機に直面する日本が、持続可能な働き方をどう実現するのか。この問いは今、より切実になっているからだ。
高市氏の発言よりも、ずっと深刻な政治的潮流がある。
7月の参院選で自民党、公明党、参政党が「働きたい改革」を公約に掲げた。「働きたい人がもっと働けるように」というポジティブな言い回しになっているが、実態は労働時間規制の緩和だ。
これに対し、コンサルティング企業のワーク・ライフバランス(港区)、過労死の遺族会、労働専門家らが7月16日に緊急声明を発表した。「『働きたい改革』は実は『働かせたい改革』である」と。
※東京新聞デジタル「『働かせたい改革だ』労働時間の規制緩和をにおわせる公約に過労死遺族らが反対声明 3党に意図を尋ねたら」
■経済問題としての働き方改革
「『働きたい改革』という名前で公約に入っていますが、結局その裏には経営者側がもっと働かせたいという意図が見え隠れしています」
そう指摘するのは、省庁のアドバイザーも務める、ワーク・ライフバランスで働き方改革コンサルタントを担当する大西友美子氏だ。高市新総裁の発言はそうした潮流にお墨付きを与えかねないのだ。
かつての人口ボーナス期には、労働力人口が豊富で、大量生産・低価格路線が利益と直結していた。しかし現代は知的労働の割合が高く、付加価値型のサービスや知識で価値を生み出す時代だ。「長時間労働で疲弊している状態では、イノベーションは起きません」と大西さんは強調する。
働き方改革は個人の問題ではなく、経済の問題なのだ。
「すべての従業員が健康でい続けることは、企業としてもパフォーマンス高く働いてくれる人材を確保し続けることにつながります。慶應義塾大学の山本勲教授の分析によると(※1)、睡眠時間と利益率にはプラスの相関関係が見られます。さらに石田陽子氏によれば(※2)、日本の平均睡眠時間が増えると、一人当たりGDPも世界でトップレベルに伸びると試算されています。これは個人の健康の話だけではなく、日本の経済発展の話なんです」(大西さん)
※1:NIKKEI睡眠カンファレンス2022
※2:著書『Dr.Yokoの睡眠マネジメント 眠るほど、ぐんぐん仕事がうまくいく』(文芸社)
後述するように、日本人の睡眠時間は世界の中でも最低レベルであり、経済にも悪影響を与えていることは自明のことだ。
■労働時間は減ったのに、メンタル不調は激増
2024年のOECDデータによると、日本の年間平均労働時間は約1617時間で、38カ国中22位、OECD平均の1736時間を下回る。しかし、この改善は生産性向上には結びついていない。
生産性が向上しないこととの関連が指摘されるのは、精神障害の労災請求件数が2019年の2060件から2024年の3780件へと、わずか5年間で1.8倍に急増していることだ。厚生労働省によると、精神障害の労災認定の主な原因は「上司などからの身体的攻撃、精神的攻撃等のパワーハラスメント」で224件を占めている。
※独立行政法人 労働政策研究・研修機構「『精神障害』の労災支給決定件数が6年連続の増加――厚生労働省の2024年度『過労死等の労災補償状況』」
■1億総睡眠不足がパワハラを生む
さらに、大西さんは慢性的な睡眠不足を指摘する。
「睡眠不足になると、怒りの発生源である脳の扁桃体が活性化し、それをコントロールする前頭前野の機能が低下します。怒りやすく、理性が利かずに感情のままに怒鳴り散らす状態になるのです。さらに受け止める側のレジリエンスも低下します」
睡眠不足の上司ほど部下に侮辱的な言葉を使うということがウォールストリートジャーナルでも報じられている。
元・陸上自衛隊衛生学校心理教官の下園壮太氏によれば、この回復がないままに次のショックがあると、同じショックでも2倍以上傷つき、2倍以上の回復期間が必要になるという。この状態では、ちょっとした言葉でもより深く傷つき、過労自死に追い込まれてしまうのだ。
※下園壮太公式HP
「日本の睡眠時間はOECD33カ国中、最下位です。1億総活躍どころか、1億総睡眠不足状態によって、攻撃的な言動と、それを受け止めきれない精神状態の双方を生み出す最悪な事態となっています。これが、“働きたいなら働かせておけばいい”という発想の落とし穴です。睡眠不足は、加害する側にも被害を受ける側にもなりやすい――まるで交通事故のような構造です」(大西さん)
確かに日本人の労働時間は全体としては減少傾向にあるが、睡眠時間がOECD最下位なのは、労働以外の社会的・構造的要因が根強く存在しているためだと考えられる。
サービス残業や持ち帰り仕事が労働時間にカウントされない上、都市部の通勤時間は長いことも要因として挙げられるだろう。また、日本社会には睡眠不足や忙しさを美徳とする価値観が今なお根付いていることも背景にある。
筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構 機構長・柳沢正史教授は、今年3月、厚生労働省の健康・生活衛生局健康課からのインタビューに答えている。
「子どものころから勉強もサークル活動も忙しい、大人になったら仕事も忙しい、自分の時間も友達との時間も欲しい――本当に忙しいので「残りの時間で眠りましょう」というのが典型的な働く世代の日本人の考え方だと思います。頭の片隅では睡眠不足だと良くないとわかっているのにやめられない、私はこれを覚醒に対する依存の状態だと言っています」
■「残業キャンセル界隈」は若者の問題ではない
ワーク・ライフバランスを取ろうと定刻で帰宅しようとする社員への攻撃もある。「残業キャンセル界隈」という言葉が、仕事があるのに放棄して帰る若者を批判する文脈で使われているが、大西さんは仕事設計とマネジメント責任の問題だと断言する。
「定時で帰る若手を一律に“責任放棄”と断じるのではなく、現場の構造を見直すことが組織の生産性と人材定着を高めます。残業は『例外の手段』であり、『前提の仕組み』ではありません」
大西さんが提唱するのは、①仕事の見える化、②属人化の排除、③働き方を振り返る機会を作る、④評価は“時間”ではなく成果と付加価値で行う、という4点だ。
■成功事例が示す希望
働き方改革を成功させた企業も現れている。グループウェア大手のサイボウズは、かつて離職率28%という深刻な状況に陥っていたが、「100人100通りの働き方」を掲げた改革により、現在は離職率4%まで改善した。
※リコー 働き方改革ラボ「離職率を7分の1に低減、サイボウズが先進的な働き方改革を実現できた理由」
同社が2018年に導入した「働き方宣言制度」では、社員一人ひとりが働く時間と場所を自由に宣言できる。育児休暇は最長6年、副業も自由、在宅勤務の設備費用として月5000円を支給するなど、徹底的に個人の事情に合わせた制度設計を行っている。
※サイボウズ「社内制度」
■若者が残る国へ
大西さんの娘がカナダに留学した際、現地の人が日本について知っている言葉は「Karoshi(過労死)」と「Chikan(痴漢)」だったという。そうした海外の人々にとって、今回の高市新総裁の「働いて働いて働いて……」発言は、日本はさらにカロウシを量産しようという狂った国だというように映ったのではないか。
「日本のブランディングを変えていかないと、若者もいなくなりますし、国の価値が下がっていきます」
大西さんがある仕事で関わった高校生の「労働の未来会議」では興味深い結果が出た。現状の日本で働くことについての質問では回答が分かれたが、働き方が改善すれば100%がポジティブに回答し、日本での就職希望も90%に上った。
「働き方が変われば、日本の優秀な若者たちが残るんです」(大西さん)
長時間働けば成果が出る時代ではない。ましてや、馬車馬のように働かされていいことなど何もない。高市新総裁においては、企業や社会には「人を無理やりにでも働かせよう」とする人々による被害者が女性を含めたくさん出ているという事実の再認識と、少子高齢化対策や日本経済成長の戦略としてのワーク・ライフバランス重視をぜひ、新政権の方針としてほしいものだ。
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池田 和加(いけだ・わか)
MCC(マティアス・コルヴィヌス・コレギウム)若者研究所研究員・ジャーナルマネジャー/フリーランスジャーナリスト
文化、社会、ジェンダー、家族政策などについて様々な国際的メディアから日本語と英語で発信。ハンガリーの研究機関で若者研究にも携わる。
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(MCC(マティアス・コルヴィヌス・コレギウム)若者研究所研究員・ジャーナルマネジャー/フリーランスジャーナリスト 池田 和加)