■麻生氏の副総裁就任は何の予兆か
自由民主党の総裁に高市早苗氏が選ばれた。野党の党首、代表の中にはすでに女性が就任するケースもあったが、自民党の総裁としては初である。高市氏は、今や日本女性初の内閣総理大臣になろうとしている。
高市総裁の就任を後押しした“キングメーカー”が麻生太郎氏であり、早々に副総裁に就任している。麻生氏はすでに85歳だが、現在の自民党の中で圧倒的な存在感を示している。
高市総裁は、麻生氏に副総裁就任を要請した際、「皇室典範の問題もきっちりとやってほしいとお願いした」と語っていた。麻生氏は、前の国会で皇位継承の安定化に向けて与野党協議が行われた際には、与党の代表として野田佳彦立憲民主党代表と非公式に話し合いをする役割を担っていた。
この両者の協議が不調に終わったのは、女性宮家を創設した場合、その配偶者や子どもを皇族とするかどうかで意見が分かれたからである。
麻生氏は、彼らを「皇族にしない」ことを強く主張した。また、戦後に皇籍離脱した旧宮家の人間を「皇族の養子として皇室に迎え入れる」ことも主張した。いわゆる保守派の立場を取ったことになる。
■ケタ違いで華麗な麻生氏の家系
麻生氏は、非公式とはいえ、なぜそうした役割を果たしてきたのだろうか。
政治家の中に世襲議員が数多く含まれていることはよく知られており、その点は批判の対象にもなってきた。総裁選で敗れた小泉進次郎氏が、かつての総理大臣、小泉純一郎氏の次男であることはよく知られている。
しかし、麻生氏の家系となると、その華麗さはケタ違いである。まず母方の祖父は、戦後の日本の復興において中心的な役割を果たした吉田茂元首相である。それも、麻生氏の母親が吉田元首相の三女だからである。その関係で、文芸評論家の吉田健一は麻生氏の伯父にあたる。
さらに曾祖父は、外務、文部、宮内などの大臣を歴任した牧野伸顕(のぶあき)である。牧野は昭和天皇から厚く信頼されていた。その長女の雪子が吉田元首相の夫人だった。
しかも、牧野の父は明治維新の元勲の一人である大久保利通(としみち)である。
■皇位継承問題で重要な立場となる宿縁
そして麻生氏の妹が、9月30日に創設された「三笠宮寬仁親王妃家」初代当主となった信子妃である。信子妃は、寬仁親王に見込まれ、わずか16歳で結婚を申し込まれた。寬仁親王はその時点で26歳だった。信子妃が高校生だったこともあり、実際に結婚したのはその8年後のことだった。
寬仁親王と信子妃との間には彬子女王と瑶子女王が生まれた。したがって、麻生氏は両女王の伯父にあたる。現在の政治家の中で、皇室とこれだけ密接な関係を持っている人物は麻生氏以外にはいない。
そこにこそ、皇位継承の安定化の協議において、麻生氏が決定的に重要な役割を果たしてきた原因がある。麻生氏を皇室の代弁者としてとらえていいのかには議論もあるだろうが、麻生氏の家系を考えれば、他の人間がその役割を担うのは難しい。
ではなぜ、麻生氏の家系はそれほどまでに華麗なものになったのだろうか。
そのことは、麻生氏の高祖父にあたる麻生賀郎(よしろう)にさかのぼる。賀郎は息子の太吉に家督を譲った後、「燃える石」の研究に没頭した。石炭のことである。賀郎の生まれ育った現在の福岡県飯塚市は、石炭が多く産出される地域だった。賀郎は太吉とともに炭鉱の開発を進め、太吉は会社を設立するまでに至る。のちの麻生商店の誕生である(「麻生百年史」)。
■麻生グループが歩んできた王道
こうして麻生太吉は炭鉱主となる。明治に入ってからの日本が近代化を果たす上で、日本の中で炭鉱が発見されたことの意義はあまりにも大きい。もし、日本に炭鉱がなかったとしたら、欧米列強に伍しての近代化はとうてい成し遂げられなかったであろう。
太吉は、石炭鉱業連合会会長や九州水力電気社長となり、政治の世界に進出して衆議院議員や貴族院多額納税者議員も務めた。太吉の三男である麻生太郎(麻生氏の祖父で同名)は31歳で亡くなってしまうが、その子である麻生太賀吉(たかきち)はセメント事業にも進出し、麻生セメント社長を務めている。
麻生氏自身も、最初は実業家の道を歩み、麻生グループの中核企業である麻生産業に入社し、1973年には麻生セメントの代表取締役に就任している。
興味深いのは、社長就任後もクレー射撃の選手として活躍したことで、国内の大会では優勝経験もあり、モントリオールオリンピック(1976年)にも選手として出場している。
このように麻生グループは、飯塚市において類いまれな存在感を示している。麻生家の立派な本宅もあるし、太吉とその長男である太右衛門の邸宅となった大浦荘は、グループのクラブとして活用され、年に二度一般公開もされている。
■政界にも宮中にも手が届く圧倒的な経済力
実は私は、飯塚市と縁がある。母方の祖父母がその出身だからである。もちろん、麻生家と何らかのつながりがあるわけではない。私の祖父母は、大正時代に新婚旅行で東京まで出てきて、そのまま東京に居着いたと聞いている。
その後、祖父母が飯塚に帰ったとかいうことも聞いたことがなかったし、親戚付き合いをしているという話もなかった。これは私の勝手な推測なのだが、飯塚では麻生家の存在があまりに大きく、祖父母はそれを嫌って東京に出てきたのではないだろうか。はっきりとした根拠があるわけではないが、私は勝手にそう思っている。
圧倒的な経済力を背景に政治の世界に進出する。それが、麻生家の「家風」と言えるものかもしれないが、麻生氏の場合、皇室との結びつきを生む上で、もう一つ重要なことがある。
父親の太賀吉は、ロンドンに滞在していた折、吉田茂の側近だった白洲次郎の紹介で、吉田の三女和子と知り合い、それで結婚することになるのだが、首相となった義父の吉田を助けるために1949年の衆議院議員選挙に出馬し当選している。
選挙区は福岡だったが、政治活動のため拠点を東京に移している。そのため、麻生氏は小学校3年で上京し、学習院初等科に編入している。それ以降、中等科、高等科と進み、大学も学習院の政経学部だった。学習院は、周知のように、皇族や華族の教育のために建てられた学校である。
■なぜ「愛子天皇」を容認できないか
学習院とかかわりを持つ上で、麻生氏が初等科からというのは大きい。これは、慶應義塾の場合典型的だが、幼稚舎(小学校)から上がってきた学生が生粋の慶應生であり、途中から入ってきた学生は外様(とざま)として区別される。麻生氏は、ほとんどの皇族と同様に初等科から学習院で、しかも妹は皇族なのだ。
こうした経歴を持つ以上、麻生氏が、皇位継承の安定化の協議において、保守的な立場を取るのも当然のことである。彼の立場からすれば、女性天皇や女系天皇を容認することは、断じて許されないことなのである。
世間では、「愛子天皇待望論」が高まりを見せている。麻生氏のような保守派からすれば、女性はあくまで従の立場にあるべきで、主となるべきではないと考えているはずだ。女性の高市氏を総裁に推したのも、自分が後ろ盾になるためで、高市氏なら容易に操れると判断してのことであろう。
もう一つ麻生氏について注目すべきことは、日本会議の会長となった谷口智彦(ともひこ)氏との関係である。谷口氏が、安倍晋三元首相のスピーチライターであったことはよく知られているが、それ以前、外務大臣であった麻生氏のスピーチライターを務めていた。外務大臣のスピーチライターというのは初めての存在だった。
谷口氏が日本会議の会長に就任して以降、男系男子による皇位継承を強調していることについては、すでに別の記事でふれた。私は、そうした谷口氏を「ラスボス」と評した。ご本人には心外だったようだが、そのラスボスの背後には、麻生氏という「黒幕」がいることになる。このコンビは相当に強力である。
■忘れてはならない麻生政権の“不人気”
今回、麻生氏がその存在感を示すようになったことで「麻生院政」、あるいは「第二次麻生政権」といった言い方がされている。高市総裁を動かしているのは、実質的に麻生氏だというわけである。
しかし、忘れてならないのは、麻生政権が短命に終わった事実である。その成立は2008年9月24日のことだが、衆院選で当時の民主党の前に敗れたことで、2009年9月16日までしか続かなかった。それによって政権交代という事態が起こっている。
それも、麻生政権が不人気だったからで、発足当初の支持率も50パーセント前後だった。その後どんどんと下落していき、2009年6月中旬の毎日新聞の調査では19パーセントにまで下がった。石破政権の支持率が最後、かえって上昇し、NHKの調査では39パーセントまで回復したのとは対照的である。
■もしも黒幕が力を失えばどうなるか
そもそも公明党の連立離脱もささやかれており、現時点では、高市政権が誕生するかどうかも不透明である。たとえ誕生しても、麻生太郎氏が黒幕であるならば、その印象は良くないであろう。
ましてや政権の枠組みが今後変化すれば、麻生氏が皇位継承の安定化の議論で重要な役割を果たすことも不可能になる。
麻生氏という黒幕が力を失えば、皇室をめぐる議論も大きく変わるかもしれない。女性天皇や女系天皇を容認する世論がある以上、政権政党が国民の人気に左右されるポピュリズムの傾向を強めれば、事態はその方向に大きく前進するかもしれないのである。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)