高校野球のあるべき姿とは何だろうか。今夏、広島・広陵高校の複数の野球部員が下級生に暴力をふるったことなどをめぐる問題を理由に夏の甲子園を途中で辞退した。
【前編の概要】埼玉県の西端に位置する小鹿野(おがの)町は人口約9900人。町おこしの一環で廃校の危機にある県立小鹿野高校野球部を盛り上げるため、山村留学制度を実施し、各地から生徒を募ると同時に、83歳のプロアマ球界の重鎮を15年前に招聘。野球部は少しずつ強くなっただけでなく、元引きこもりだった野球部員が再生し、その後、大学へも進学するなど人として確実に大きく成長するようになった――。
■3年生7人、2年生と1年生が2人ずつの計11人
酷暑が続いた2025年の夏。埼玉県大会に出場する県立小鹿野高校野球部の「出陣式」が行われたのは田植えを終えたばかりの6月中旬のことだった。
例年通り、地元の須崎旅館に小鹿神社の神主が来て、祝詞をささげた。一人ずつ意気込みを語った部員たちに対して、県や町の議員たちが激励の言葉を送った。
今年度の野球部員は3年生が7人、2年生と1年生が2人ずつの計11人。県内の滑川、鴻巣、飯能、寄居といった遠隔地から入学する部員が多く、地元出身者は2人のみだ。
放課後の練習を終えて夜19時台後半のバスに乗ると、帰宅時間は22~23時となってしまうため、1年生の2人を含め6人の部員が国民宿舎両神荘で山村留学の寄宿舎生活(来期以降の募集は未定)を選択している。
前編で触れたように、公共施設を寮代わりにした山村留学制度には高校生が社会性を学ぶ機会がある。
活動自粛につながるような暴力事件は、甲子園常連の有名校の野球部専用合宿所などでしばしば起こるが、野球部以外の生徒や一般の宿泊者なども滞在して、風通しのいいこの寄宿舎ではそのようなことは皆無だ。
セカンドを守る坂元春太選手(3年)は幸手市の出身だ。父親の篤史さんが言う。
「埼玉の東の端から西の端に移動するので車で2時間以上かかってしまうんです」
息子が小鹿野を選んだ理由をこう話す。
「中3の夏の部活体験のときに、(早稲田大やプリンスホテル野球部監督などを歴任し、読売巨人軍の編成本部長も務めた、招聘コーチの)石山(建一)さんに少しだけ教わったところ、バッティングがすぐに上達して感動しました。寮で一人暮らしを始めた当初は不安もあったんですけど、今では自分のことは自分でやっているようで着実に成長につながっています」
夏の大会を間近に控えたある日の放課後練習は夕方16時に始まった。筆者は長年、有名校を含め多くの高校野球部を取材しているが、この小鹿野高校に今夏数回通って、これまで触れたことのない感慨を覚えた。
なんの変哲もない地方高校の吹けば飛ぶような部活動に過ぎない。でも、なぜか心を打つものがあった。その要因のひとつは、外部コーチである御年83の石山の存在だ。練習の様子を見守っていた石山は言って懐かしんだ。
「(15年前に)最初に来たときは、グラウンドの外野は膝まで雑草が生えていたんだよ。
野球部の父兄らが草刈りをして徐々に整備され、2020年には県が大規模な整備をして、今では鮮やかな黒土が内野に敷かれている。
学校全体の生徒が少ないため、他の部活が活動せず、野球部がグラウンドを占有できる状況にある。
■練習も試合も、打って守って「全員野球」
フリーバッティングでは飯田貴司監督が指摘する声が的確に選手に届く。山深いロケーションである上、少人数の部員ゆえ余計な音が一切しないのだ。
「上手さより豪快さがほしいな」
「下からあおってるよ」
そこに新任顧問の日下春人部長のアドバイスが加わる。
「4球めと5球め、同じ打ち損じしてたんじゃ意味がないよ」
バッティング練習の後は全員で一輪車を押して打ったボールを集める。守備練習は日下が乾いた打球音をさせてノックを散らす。
「受け身でやらないこと、攻めた中で守れ」
「投げっぱなしはダメなんだよ」
ナイスプレーには名前を言って褒める。
「よしき、いいよぉ」
「ナイス、きみと」
日下は野球の名門・上尾高校で3年時にキャプテンを務めた。少人数の指導はどんな心持ちなのか。
「(赴任地が小鹿野と聞いた時)よくわからない土地、学校でしたけど(笑)。この人数だからこそ、できることはたくさんある。
部員11人に対して顧問教員は飯田と日下を含め4人。赴任5年目の飯田もやはり野球名門の熊谷商出身で、高校同期は30人以上いた。2つ上の世代は甲子園にも出場している。
「私も日下先生も、高校時代は大所帯でレギュラー争いが激しかったです。レギュラークラスじゃない子は何もせずに一日が終わってしまうこともあった。でも、ここでは一対一。部員のいいところ悪いところがよく見えます。ここなら確実に試合に出られる。部員は『せっかく出る試合で失敗はしたくない、失敗は格好悪い』というから、それなら基本を身につけるためにしっかりやろうよと」
通常、監督と部員には「壁」があるものだが、小鹿野は監督・コーチと部員お互いの思いをダイレクトに伝え合う関係だ。
ノックは部員11人が1球に集中する。全員が共有してプレーの良しあしを評価する。監督・コーチの視線は細部まで奥深くまで届き、選手とのやりとりは常に丁寧で、血が通っている。
飯田監督は付け加えた。
「ウチの野球部員は例年、勉強をいい加減にする子がいなくて、評定4.9とか満点の5.0の生徒もいます。在学中にエクセルや電卓、情報処理の検定を取って県知事表彰を受ける生徒も多いんです。生活指導が必要な子なんていない」
隣町のある県立高校は2年前に募集停止となり近隣校と統合されたが、ここはまだ存続している。この町が採用している高校野球部を盛り上げることによる町おこしは、人と人の見えないつながりを強くし、1万人に満たない人口の町民の連帯感をも確実に増しているように感じられた。
■部員11人に応援団は総勢約100人…みんな「やりきった」
2025年7月13日、上尾球場。初戦の対戦相手は越谷西高校だった。1995年に甲子園に出場したことのある格上チームだ。
初回、サードの大口寛生選手(1年生)がボールをはじくエラーで2失点。だが、大口は気落ちすることなく、その直後に飛んできた打球を冷静にさばいた。
エース兼主将の小田島鉄真選手(3年)は次のイニングから見事に立ち直った。
攻撃陣では4人の3年生がタイムリーヒットを放って一時逆転した。
劣勢の中、ベンチのすぐ上のスタンドでひときわ大きな声で出していた女性がいた。
聞けば、以前、息子が小鹿野野球部3年生2人と同じ少年野球チームだったという母親。地元を離れ、小鹿野で下宿生活を送っている幼馴染を応援するために、時間を作ってわざわざ球場に駆けつけたのだ。
小鹿野の応援団は総勢約100人。部員の10倍だ。それでもチアリーダーがいるわけではない。バンド演奏も在校生6人と父兄が数人、太鼓をたたき、ピアニカを思い切り吹いて音を出した。手作りの応援だ。
2点差を追いかける9回裏、三塁打で1点差に迫った。三塁コーチの3年生は、次の打者である2年生の選手に向かって吠えた。
「まだまだ、終わってねーぞ」
その顔は涙でくしゃくしゃだった。
2ストライクと追い込まれてから、数球ファールで粘った。「3年生のためにも」。そんな気迫で相手投手の球に食らいついた。
カウント2―2。打球は一、二塁間へ。懸命に走り、ヘッドスライディングした。だが、ボールは二塁手から一塁手へ渡り、ミットに収まるほうが早かった。
ゲーム後、目を赤くはらした息子を慰める大口の両親の目にも光るものがあった。母親は「ずっとドキドキしながら試合を見ていました」という。
「中学の時は部員が多くて試合に出られずボールボーイばっかりでした。高校は、試合に出られそうな学校を探していたら、石山先生、飯田先生の名前を見つけて。部活体験に行ってみて、本人が小鹿野を選びましたが、正解だったと思います」
父親も続ける。
「監督さんやコーチの先生、それから優しく、時には厳しい2、3年生のおかげでこんな経験ができた。右も左もわからなかったのに。自分の好きな野球で自信をつけていってくれれば、うまくならなくてもいいんです。失敗できるのは学生の間だけ。社会人になっていくうえで、独立するのは早いほうがいいので山村留学に賛成しました」
大口と同じ、もう一人の1年生は控えスタートだった。ゲーム前に、選手にとっては祖父のような年齢差の石山がやさしく声をかけていた。
「翼(名前)、野球はベンチも大事だから。おまえはさ、サードも外野もどこでも守れるし、ピンチランナーもできるから(ベンチに)残しているんだから、そのつもりでいろよ」
この1年生は、3年生の選手が少年野球チーム時代の先輩で、入学することを薦められたという。母親が入学の経緯を話す。
「正直、私は家から自転車で通えて背番号をもらえる高校でやってほしいなと思っていましたが、本人が、『おれは小鹿野に行っていることが想像できる』というんです。小鹿野じゃないと後悔するなと思って」
母親は昨年(中3時)から息子とともに新チームの試合を見て回って、入学前から選手みんなのファンになったという。
弱くても小鹿野にはそんな「心から野球をやりたい」という子があちこちから集まってくる。
父兄全員が選手を名前で呼ぶ。「翼、調子よさそうだよね」という感じだ。11人全員が自分の息子なのだ。
前出・セカンドの坂本選手の父親・篤史さんは「アットホーム的なところは全国で一番じゃないですかね」という。
■7-8で負けた…でも、部員も監督・コーチも父兄もやり切った
初戦敗退。「11人のわが子」の短い夏の挑戦が終わった。
「撤収」
父兄会の世話役を務めてきた篤史さんが、選手、父兄の輪に向かって呼びかける。だが自らも目を潤ませながら苦笑いしている。
「帰りたくないよね」
キラキラと輝く「22の瞳」のわが子を見て父兄はその場を動こうとしない。小鹿野という「高校野球」に浸っていたいのだ。
もともと甲子園の可能性はほとんどない。しかし、そんなことは関係ない。筆者は、これまで選手や父兄を数多く取材してきたが、球場の外で一団となった彼らは一番爽やかで「やり切った顔」に見えた。
----------
清水 岳志(しみず・たけし)
フリーランスライター
ベースボールマガジン社を経て独立。総合週刊誌、野球専門誌などでスポーツ取材に携わる。
----------
(フリーランスライター 清水 岳志)
フリーランスライターの清水岳志さんが、勝利至上主義や上級生は絶対的存在といったチームとは別次元の部員わずか11人の埼玉の高校を取材して感じた野球の原点とは――。
【前編の概要】埼玉県の西端に位置する小鹿野(おがの)町は人口約9900人。町おこしの一環で廃校の危機にある県立小鹿野高校野球部を盛り上げるため、山村留学制度を実施し、各地から生徒を募ると同時に、83歳のプロアマ球界の重鎮を15年前に招聘。野球部は少しずつ強くなっただけでなく、元引きこもりだった野球部員が再生し、その後、大学へも進学するなど人として確実に大きく成長するようになった――。
■3年生7人、2年生と1年生が2人ずつの計11人
酷暑が続いた2025年の夏。埼玉県大会に出場する県立小鹿野高校野球部の「出陣式」が行われたのは田植えを終えたばかりの6月中旬のことだった。
例年通り、地元の須崎旅館に小鹿神社の神主が来て、祝詞をささげた。一人ずつ意気込みを語った部員たちに対して、県や町の議員たちが激励の言葉を送った。
今年度の野球部員は3年生が7人、2年生と1年生が2人ずつの計11人。県内の滑川、鴻巣、飯能、寄居といった遠隔地から入学する部員が多く、地元出身者は2人のみだ。
放課後の練習を終えて夜19時台後半のバスに乗ると、帰宅時間は22~23時となってしまうため、1年生の2人を含め6人の部員が国民宿舎両神荘で山村留学の寄宿舎生活(来期以降の募集は未定)を選択している。
前編で触れたように、公共施設を寮代わりにした山村留学制度には高校生が社会性を学ぶ機会がある。
活動自粛につながるような暴力事件は、甲子園常連の有名校の野球部専用合宿所などでしばしば起こるが、野球部以外の生徒や一般の宿泊者なども滞在して、風通しのいいこの寄宿舎ではそのようなことは皆無だ。
セカンドを守る坂元春太選手(3年)は幸手市の出身だ。父親の篤史さんが言う。
「埼玉の東の端から西の端に移動するので車で2時間以上かかってしまうんです」
息子が小鹿野を選んだ理由をこう話す。
「中3の夏の部活体験のときに、(早稲田大やプリンスホテル野球部監督などを歴任し、読売巨人軍の編成本部長も務めた、招聘コーチの)石山(建一)さんに少しだけ教わったところ、バッティングがすぐに上達して感動しました。寮で一人暮らしを始めた当初は不安もあったんですけど、今では自分のことは自分でやっているようで着実に成長につながっています」
夏の大会を間近に控えたある日の放課後練習は夕方16時に始まった。筆者は長年、有名校を含め多くの高校野球部を取材しているが、この小鹿野高校に今夏数回通って、これまで触れたことのない感慨を覚えた。
なんの変哲もない地方高校の吹けば飛ぶような部活動に過ぎない。でも、なぜか心を打つものがあった。その要因のひとつは、外部コーチである御年83の石山の存在だ。練習の様子を見守っていた石山は言って懐かしんだ。
「(15年前に)最初に来たときは、グラウンドの外野は膝まで雑草が生えていたんだよ。
ボールがどこにいったかわからなかった」
野球部の父兄らが草刈りをして徐々に整備され、2020年には県が大規模な整備をして、今では鮮やかな黒土が内野に敷かれている。
学校全体の生徒が少ないため、他の部活が活動せず、野球部がグラウンドを占有できる状況にある。
■練習も試合も、打って守って「全員野球」
フリーバッティングでは飯田貴司監督が指摘する声が的確に選手に届く。山深いロケーションである上、少人数の部員ゆえ余計な音が一切しないのだ。
「上手さより豪快さがほしいな」
「下からあおってるよ」
そこに新任顧問の日下春人部長のアドバイスが加わる。
「4球めと5球め、同じ打ち損じしてたんじゃ意味がないよ」
バッティング練習の後は全員で一輪車を押して打ったボールを集める。守備練習は日下が乾いた打球音をさせてノックを散らす。
「受け身でやらないこと、攻めた中で守れ」
「投げっぱなしはダメなんだよ」
ナイスプレーには名前を言って褒める。
「よしき、いいよぉ」
「ナイス、きみと」
日下は野球の名門・上尾高校で3年時にキャプテンを務めた。少人数の指導はどんな心持ちなのか。
「(赴任地が小鹿野と聞いた時)よくわからない土地、学校でしたけど(笑)。この人数だからこそ、できることはたくさんある。
今では来れてよかったと思っています」
部員11人に対して顧問教員は飯田と日下を含め4人。赴任5年目の飯田もやはり野球名門の熊谷商出身で、高校同期は30人以上いた。2つ上の世代は甲子園にも出場している。
「私も日下先生も、高校時代は大所帯でレギュラー争いが激しかったです。レギュラークラスじゃない子は何もせずに一日が終わってしまうこともあった。でも、ここでは一対一。部員のいいところ悪いところがよく見えます。ここなら確実に試合に出られる。部員は『せっかく出る試合で失敗はしたくない、失敗は格好悪い』というから、それなら基本を身につけるためにしっかりやろうよと」
通常、監督と部員には「壁」があるものだが、小鹿野は監督・コーチと部員お互いの思いをダイレクトに伝え合う関係だ。
ノックは部員11人が1球に集中する。全員が共有してプレーの良しあしを評価する。監督・コーチの視線は細部まで奥深くまで届き、選手とのやりとりは常に丁寧で、血が通っている。
飯田監督は付け加えた。
「ウチの野球部員は例年、勉強をいい加減にする子がいなくて、評定4.9とか満点の5.0の生徒もいます。在学中にエクセルや電卓、情報処理の検定を取って県知事表彰を受ける生徒も多いんです。生活指導が必要な子なんていない」
隣町のある県立高校は2年前に募集停止となり近隣校と統合されたが、ここはまだ存続している。この町が採用している高校野球部を盛り上げることによる町おこしは、人と人の見えないつながりを強くし、1万人に満たない人口の町民の連帯感をも確実に増しているように感じられた。
■部員11人に応援団は総勢約100人…みんな「やりきった」
2025年7月13日、上尾球場。初戦の対戦相手は越谷西高校だった。1995年に甲子園に出場したことのある格上チームだ。
初回、サードの大口寛生選手(1年生)がボールをはじくエラーで2失点。だが、大口は気落ちすることなく、その直後に飛んできた打球を冷静にさばいた。
エース兼主将の小田島鉄真選手(3年)は次のイニングから見事に立ち直った。
攻撃陣では4人の3年生がタイムリーヒットを放って一時逆転した。
だが7回に小田島が相手打線に集中打を浴びて再逆転を許した。
劣勢の中、ベンチのすぐ上のスタンドでひときわ大きな声で出していた女性がいた。
聞けば、以前、息子が小鹿野野球部3年生2人と同じ少年野球チームだったという母親。地元を離れ、小鹿野で下宿生活を送っている幼馴染を応援するために、時間を作ってわざわざ球場に駆けつけたのだ。
小鹿野の応援団は総勢約100人。部員の10倍だ。それでもチアリーダーがいるわけではない。バンド演奏も在校生6人と父兄が数人、太鼓をたたき、ピアニカを思い切り吹いて音を出した。手作りの応援だ。
2点差を追いかける9回裏、三塁打で1点差に迫った。三塁コーチの3年生は、次の打者である2年生の選手に向かって吠えた。
「まだまだ、終わってねーぞ」
その顔は涙でくしゃくしゃだった。
ツーアウトになってバッターは初回に痛恨のエラーをした1年生の大口。登録上160cmとあるが、どうだろう、そこまでの身長はないように思う。中学を卒業したのは数カ月前。黒縁眼鏡をかけた、硬式野球をやるようには見えない雰囲気だが、ミスした後は強烈なサードゴロを何本も処理してチームに貢献した。
2ストライクと追い込まれてから、数球ファールで粘った。「3年生のためにも」。そんな気迫で相手投手の球に食らいついた。
カウント2―2。打球は一、二塁間へ。懸命に走り、ヘッドスライディングした。だが、ボールは二塁手から一塁手へ渡り、ミットに収まるほうが早かった。
ゲーム後、目を赤くはらした息子を慰める大口の両親の目にも光るものがあった。母親は「ずっとドキドキしながら試合を見ていました」という。
「中学の時は部員が多くて試合に出られずボールボーイばっかりでした。高校は、試合に出られそうな学校を探していたら、石山先生、飯田先生の名前を見つけて。部活体験に行ってみて、本人が小鹿野を選びましたが、正解だったと思います」
父親も続ける。
「監督さんやコーチの先生、それから優しく、時には厳しい2、3年生のおかげでこんな経験ができた。右も左もわからなかったのに。自分の好きな野球で自信をつけていってくれれば、うまくならなくてもいいんです。失敗できるのは学生の間だけ。社会人になっていくうえで、独立するのは早いほうがいいので山村留学に賛成しました」
大口と同じ、もう一人の1年生は控えスタートだった。ゲーム前に、選手にとっては祖父のような年齢差の石山がやさしく声をかけていた。
「翼(名前)、野球はベンチも大事だから。おまえはさ、サードも外野もどこでも守れるし、ピンチランナーもできるから(ベンチに)残しているんだから、そのつもりでいろよ」
この1年生は、3年生の選手が少年野球チーム時代の先輩で、入学することを薦められたという。母親が入学の経緯を話す。
「正直、私は家から自転車で通えて背番号をもらえる高校でやってほしいなと思っていましたが、本人が、『おれは小鹿野に行っていることが想像できる』というんです。小鹿野じゃないと後悔するなと思って」
母親は昨年(中3時)から息子とともに新チームの試合を見て回って、入学前から選手みんなのファンになったという。
弱くても小鹿野にはそんな「心から野球をやりたい」という子があちこちから集まってくる。
父兄全員が選手を名前で呼ぶ。「翼、調子よさそうだよね」という感じだ。11人全員が自分の息子なのだ。
前出・セカンドの坂本選手の父親・篤史さんは「アットホーム的なところは全国で一番じゃないですかね」という。
■7-8で負けた…でも、部員も監督・コーチも父兄もやり切った
初戦敗退。「11人のわが子」の短い夏の挑戦が終わった。
「撤収」
父兄会の世話役を務めてきた篤史さんが、選手、父兄の輪に向かって呼びかける。だが自らも目を潤ませながら苦笑いしている。
「帰りたくないよね」
キラキラと輝く「22の瞳」のわが子を見て父兄はその場を動こうとしない。小鹿野という「高校野球」に浸っていたいのだ。
もともと甲子園の可能性はほとんどない。しかし、そんなことは関係ない。筆者は、これまで選手や父兄を数多く取材してきたが、球場の外で一団となった彼らは一番爽やかで「やり切った顔」に見えた。
----------
清水 岳志(しみず・たけし)
フリーランスライター
ベースボールマガジン社を経て独立。総合週刊誌、野球専門誌などでスポーツ取材に携わる。
----------
(フリーランスライター 清水 岳志)
編集部おすすめ