NHK大河ドラマ「べらぼう」が終盤に入った。脇役が活躍する一方で、主人公の蔦屋重三郎は影が薄い。
■大河の主人公なのになぜ蔦重の影は薄いのか
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第39回(10月12日放送)は、「白河の清きに住みかね身上半減」というサブタイトルがついている。
「白河の清きに住みかね」は、有名な狂歌「白河の/清きに魚も/棲みかねて/もとの濁りの/田沼恋しき」から取られている。白河藩主である松平定信の清廉を求める政治は、窮屈で暮らしにくく、風俗が多少乱れても自由で暮らしやすかった田沼意次の時代が恋しい、という意味である。
一方、「身上半減」は蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が処分され、財産を半分没収されることを指す。つまりサブタイトルは、蔦重が定信の政治に適応できずに処分される、という意味になる。
第39回で描かれるのは寛政3年(1991)。この年の正月、蔦重は山東京伝(古川雄大)作の洒落本(遊廓を舞台に客とのやりとりを描いた文学作品)3作品を刊行したが、しばらくして日本橋通油町の耕書堂に奉行所の与力と同心がやってきて、蔦重と京伝を老屋敷に連行してしまうのである。
このできごとは蔦重の人生における、ひとつのクライマックスだといえる。だが、ここまで「べらぼう」を振り返ってみたとき、喜多川歌麿(染谷将太)や松平定信、田沼意次(渡辺謙)、古くは平賀源内(安田顕)や吉原の花魁瀬川(小芝風花)ら、時々で脚光を浴び、話題になった人物はいる。
■蔦重の財産が半分になったワケ
それを考えるためにも、最初に身上半減の件につい見ておきたい。取り締りの対象になったのは、京伝が挿絵もみずから描いた『仕懸文庫』『錦之浦』『娼妓絹籭』の洒落本3冊。前年の寛政2年(1790)に町触れが出されたのが災いした。
井上祐貴演じる松平定信が老中首座になって以来、「べらぼう」では出版の自由が失われていく様子が描かれていた。ご政道をからかった黄表紙(大人向けの挿絵入り物語)を書いた責任を問われ、朋誠堂喜三二(尾美としのり)は筆を折り、恋川春町(岡山天音)は自殺した。とはいえ、出版への統制は定信がはじめたわけではなかった。
8代将軍吉宗のもとで享保7年(1722)、奉行所が出した町触で、好色本は徐々に絶版にするように命じられていた。だが、年月とともに有名無実化していたが、寛政2年5月、これを増補するかたちであらためて町触れが出された。
それによれば、書物および黄表紙などの草双紙の新規出版は禁止。時事的な内容を1枚絵にして刷るのも禁止。
ただ、これはまじめな本をあつかう「書物問屋」仲間(同業者組合)が対象の町触れで、幕府が問題にした草双紙や洒落本を刊行するのは、娯楽本や浮世絵などをあつかう「地本問屋」が中心だった。
■機転を利かせたつもりだったが
そこで10月には、「地本問屋」にも仲間の結成を認めさせ、彼らを対象に町触れが出された。享保年間の町触れを再確認させるとともに、風俗を乱す本が刊行されないように、出版物に対して行事を2人ずつ定め、内容をチェックさせることにした。対象になったのは地本問屋仲間に加わっている20人で、彼らは奉行所に、町触れを順守する旨の請書を提出した。
ここで蔦重は困ったはずである。京伝に依頼した洒落本3冊は、7月には原稿が仕上がり、この町触れが出された10月には版木もできていた。当該の洒落本は、たとえば『仕懸文庫』は、深川の遊里が描かれながらも鎌倉時代になぞらえ、教訓まで示してある。幕府や奉行所の目を逃れる工夫は凝らしたわけだが、このご時世、どう判断されるかわからない。
蔦重が目をつけたのは、「行事」が許可すれば出版できるという町触れの規定だった。路地裏の長屋で本を仕立てて生計を立て、蔦重の意向に逆らえない立場の弱い2人に行事を頼んだのである。
だが、結果は凶と出た。行事による検閲を機能させるためにも、蔦重は見せしめになったと思われる。寛政3年(1791)3月に下った判決は、洒落本3冊の絶版、京伝の手鎖50日、蔦重の身上半減、つまり財産の半分没収。2人の行事にも重い罰金が科せられた。
■プロデューサーはいつも陰にいる
ここで蔦屋重三郎という人物の立場を考えてみたい。蔦重は「江戸のメディア王」と称されもするが、要するに、出版社の社長であり編集者である。裏方としてプレーヤーを起用し、彼らの力を引き出し、出版物の制作を促す。
プロデューサーと言い換えてもいい。
編集者にしてもプロデューサーにしても、表にいるプレーヤーを動かし、活躍させ、彼らが価値を生み出してナンボという仕事である。
だから、大河ドラマ「べらぼう」のプロデューサーも、メディアで紹介されることはあっても、出演者はもちろん、脚本家らを差し置いて自分が前に出ることはない。ところが「べらぼう」とは、本来は前に出ないはずの人物を前に出すドラマなのである。
これまで「べらぼう」では、蔦重が世に出したり、蔦重のおかげで大成したりした何人ものアーティストが描かれてきた。朋誠堂喜三二、恋川春町、大田南畝(桐谷健太)、山東京伝、喜多川歌麿。今後、東洲斎写楽も登場するはずだ。花魁の瀬川や誰袖(福原遥)も、蔦重のプロデュースだったといえるかもしれない。そして、それぞれが輝き、いまから輝こうとしている。
だが、彼らが輝くのは、蔦重が強烈な光を当てているからで、そのとき光源の後ろにいる蔦重自身は陰になって、顔すら判別しにくいのが普通である。
■裏方よりもスターを応援する
歴代の大河ドラマの主人公を見ると、いわゆるプレーヤーに該当する人物ばかりである。政治家、武将、それらの伴侶、仇討の主人公、剣術師、貿易商、女優、志士……。
主人公が地味だった大河ドラマを挙げると、旗本の三姉妹を描いた「三姉妹」(1967年)、架空の会津藩士と薩摩藩士を描いた「獅子の時代」(1980年)、日系アメリカ人2世を描いた「山河燃ゆ」(1984年)、第二次大戦後を生きた女医を描いた「いのち」(1986年)、架空の琉球人を描いた「琉球の風」(1993年)、1964年の五輪までを描いた「いだてん」(2019年)――。
だが、これらも題材や主人公こそ地味だが、主人公がプレーヤーとプロデューサーに分けるなら、みなプレーヤーに該当する。
大河ドラマは80年代から90年代初頭まで、積極的に近現代を対象にしたり、架空の人物を描いたりした時期があったが、やはり歴史大作のほうが視聴率はとれるので、それが中心になっている。もちろん、「べらぼう」はその路線である。
しかし、陰にいるべきプロデューサーに光を当てることの限界が、「べらぼう」の蔦重を見ていると感じられる。たとえば、蔦重が無意識ながら歌麿に冷たくすれば、視聴者の多くは歌麿に同情する。松平定信の出版統制に抗おうとする蔦重が、時代に媚びるような戯作を書いた山東京伝を叱責しても、無理難題を高圧的に押しつけているようにしか見えない。
プロデューサーとはプレーヤーをスターに育て上げるもの。スターはプロデューサーのおかげで育ったとしても、視聴者はスターを応援するのが人情というものだろう。
■だから視聴者が感情移入しづらい
それでも、かつて吉原で暮らしていた蔦重が、抵抗勢力に必死に抗っていたころは、応援する気になった人も多いと思う。しかし、いまでは大店の主人で、自分が是と思ったことには、だれにも有無をいわさない。これでは視聴者はなかなか感情移入できない。
さらにいえば、第37回「地獄に京伝」(9月28日放送)で妻てい(橋本愛)が、世の中をこれ以上に悪くしないようにと、定信の統制に抗おうとする蔦重に放った言葉が印象的だった。
蔦重はいくら足掻こうとも、田沼意次や松平定信のようには、世の変革にコミットできない。力を発揮できるのは、売れるものを発想し、売れっ子を生み出すことに対してで、それ以上ではない。それなのに、それ以上に足掻こうとするから、視聴者は蔦重から一歩引いてしまう。
だが、それもこれも、このように大河ドラマの主人公として限界だらけの蔦重を、横浜流星がまさに限界だらけの人物として、見事に演じているからでもあるが。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
なぜか。歴史評論家の香原斗志さんは「これまでの大河作品とは主人公の立場が明確に異なる。悪役・松平定信にいじめられても視聴者の同情が集まりにくい構図になっている」という――。
■大河の主人公なのになぜ蔦重の影は薄いのか
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第39回(10月12日放送)は、「白河の清きに住みかね身上半減」というサブタイトルがついている。
「白河の清きに住みかね」は、有名な狂歌「白河の/清きに魚も/棲みかねて/もとの濁りの/田沼恋しき」から取られている。白河藩主である松平定信の清廉を求める政治は、窮屈で暮らしにくく、風俗が多少乱れても自由で暮らしやすかった田沼意次の時代が恋しい、という意味である。
一方、「身上半減」は蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が処分され、財産を半分没収されることを指す。つまりサブタイトルは、蔦重が定信の政治に適応できずに処分される、という意味になる。
第39回で描かれるのは寛政3年(1991)。この年の正月、蔦重は山東京伝(古川雄大)作の洒落本(遊廓を舞台に客とのやりとりを描いた文学作品)3作品を刊行したが、しばらくして日本橋通油町の耕書堂に奉行所の与力と同心がやってきて、蔦重と京伝を老屋敷に連行してしまうのである。
このできごとは蔦重の人生における、ひとつのクライマックスだといえる。だが、ここまで「べらぼう」を振り返ってみたとき、喜多川歌麿(染谷将太)や松平定信、田沼意次(渡辺謙)、古くは平賀源内(安田顕)や吉原の花魁瀬川(小芝風花)ら、時々で脚光を浴び、話題になった人物はいる。
一方、主人公の蔦重の影はなぜか薄く、彼のことを書いた記事も、いま挙げた人物のものよりだいぶ少ない。なぜなのだろうか。
■蔦重の財産が半分になったワケ
それを考えるためにも、最初に身上半減の件につい見ておきたい。取り締りの対象になったのは、京伝が挿絵もみずから描いた『仕懸文庫』『錦之浦』『娼妓絹籭』の洒落本3冊。前年の寛政2年(1790)に町触れが出されたのが災いした。
井上祐貴演じる松平定信が老中首座になって以来、「べらぼう」では出版の自由が失われていく様子が描かれていた。ご政道をからかった黄表紙(大人向けの挿絵入り物語)を書いた責任を問われ、朋誠堂喜三二(尾美としのり)は筆を折り、恋川春町(岡山天音)は自殺した。とはいえ、出版への統制は定信がはじめたわけではなかった。
8代将軍吉宗のもとで享保7年(1722)、奉行所が出した町触で、好色本は徐々に絶版にするように命じられていた。だが、年月とともに有名無実化していたが、寛政2年5月、これを増補するかたちであらためて町触れが出された。
それによれば、書物および黄表紙などの草双紙の新規出版は禁止。時事的な内容を1枚絵にして刷るのも禁止。
異説を書いた本も禁止。好色本も禁止。古い時代を装って不束なことを書くにも禁止。さらに、内容が禁止事項に触れていないか、書物問屋仲間が検閲するように命じた。
ただ、これはまじめな本をあつかう「書物問屋」仲間(同業者組合)が対象の町触れで、幕府が問題にした草双紙や洒落本を刊行するのは、娯楽本や浮世絵などをあつかう「地本問屋」が中心だった。
■機転を利かせたつもりだったが
そこで10月には、「地本問屋」にも仲間の結成を認めさせ、彼らを対象に町触れが出された。享保年間の町触れを再確認させるとともに、風俗を乱す本が刊行されないように、出版物に対して行事を2人ずつ定め、内容をチェックさせることにした。対象になったのは地本問屋仲間に加わっている20人で、彼らは奉行所に、町触れを順守する旨の請書を提出した。
ここで蔦重は困ったはずである。京伝に依頼した洒落本3冊は、7月には原稿が仕上がり、この町触れが出された10月には版木もできていた。当該の洒落本は、たとえば『仕懸文庫』は、深川の遊里が描かれながらも鎌倉時代になぞらえ、教訓まで示してある。幕府や奉行所の目を逃れる工夫は凝らしたわけだが、このご時世、どう判断されるかわからない。
とはいえ、版木までできた書物を無駄にはできない。
蔦重が目をつけたのは、「行事」が許可すれば出版できるという町触れの規定だった。路地裏の長屋で本を仕立てて生計を立て、蔦重の意向に逆らえない立場の弱い2人に行事を頼んだのである。
だが、結果は凶と出た。行事による検閲を機能させるためにも、蔦重は見せしめになったと思われる。寛政3年(1791)3月に下った判決は、洒落本3冊の絶版、京伝の手鎖50日、蔦重の身上半減、つまり財産の半分没収。2人の行事にも重い罰金が科せられた。
■プロデューサーはいつも陰にいる
ここで蔦屋重三郎という人物の立場を考えてみたい。蔦重は「江戸のメディア王」と称されもするが、要するに、出版社の社長であり編集者である。裏方としてプレーヤーを起用し、彼らの力を引き出し、出版物の制作を促す。
プロデューサーと言い換えてもいい。
編集者にしてもプロデューサーにしても、表にいるプレーヤーを動かし、活躍させ、彼らが価値を生み出してナンボという仕事である。
編集者やプレーヤーが表に出すぎてしまうと、裏方のバックアップで力を発揮しているプレーヤーたちの存在感が削がれることになりかねない。
だから、大河ドラマ「べらぼう」のプロデューサーも、メディアで紹介されることはあっても、出演者はもちろん、脚本家らを差し置いて自分が前に出ることはない。ところが「べらぼう」とは、本来は前に出ないはずの人物を前に出すドラマなのである。
これまで「べらぼう」では、蔦重が世に出したり、蔦重のおかげで大成したりした何人ものアーティストが描かれてきた。朋誠堂喜三二、恋川春町、大田南畝(桐谷健太)、山東京伝、喜多川歌麿。今後、東洲斎写楽も登場するはずだ。花魁の瀬川や誰袖(福原遥)も、蔦重のプロデュースだったといえるかもしれない。そして、それぞれが輝き、いまから輝こうとしている。
だが、彼らが輝くのは、蔦重が強烈な光を当てているからで、そのとき光源の後ろにいる蔦重自身は陰になって、顔すら判別しにくいのが普通である。
■裏方よりもスターを応援する
歴代の大河ドラマの主人公を見ると、いわゆるプレーヤーに該当する人物ばかりである。政治家、武将、それらの伴侶、仇討の主人公、剣術師、貿易商、女優、志士……。
主人公が地味だった大河ドラマを挙げると、旗本の三姉妹を描いた「三姉妹」(1967年)、架空の会津藩士と薩摩藩士を描いた「獅子の時代」(1980年)、日系アメリカ人2世を描いた「山河燃ゆ」(1984年)、第二次大戦後を生きた女医を描いた「いのち」(1986年)、架空の琉球人を描いた「琉球の風」(1993年)、1964年の五輪までを描いた「いだてん」(2019年)――。
だが、これらも題材や主人公こそ地味だが、主人公がプレーヤーとプロデューサーに分けるなら、みなプレーヤーに該当する。
大河ドラマは80年代から90年代初頭まで、積極的に近現代を対象にしたり、架空の人物を描いたりした時期があったが、やはり歴史大作のほうが視聴率はとれるので、それが中心になっている。もちろん、「べらぼう」はその路線である。
しかし、陰にいるべきプロデューサーに光を当てることの限界が、「べらぼう」の蔦重を見ていると感じられる。たとえば、蔦重が無意識ながら歌麿に冷たくすれば、視聴者の多くは歌麿に同情する。松平定信の出版統制に抗おうとする蔦重が、時代に媚びるような戯作を書いた山東京伝を叱責しても、無理難題を高圧的に押しつけているようにしか見えない。
プロデューサーとはプレーヤーをスターに育て上げるもの。スターはプロデューサーのおかげで育ったとしても、視聴者はスターを応援するのが人情というものだろう。
■だから視聴者が感情移入しづらい
それでも、かつて吉原で暮らしていた蔦重が、抵抗勢力に必死に抗っていたころは、応援する気になった人も多いと思う。しかし、いまでは大店の主人で、自分が是と思ったことには、だれにも有無をいわさない。これでは視聴者はなかなか感情移入できない。
さらにいえば、第37回「地獄に京伝」(9月28日放送)で妻てい(橋本愛)が、世の中をこれ以上に悪くしないようにと、定信の統制に抗おうとする蔦重に放った言葉が印象的だった。
「旦那様は所詮、市井の一本屋にすぎません。弱い立場の方を救いたい、世をよくしたい。その志はわかりますが、少々己を高く見積もりすぎでは」。
蔦重はいくら足掻こうとも、田沼意次や松平定信のようには、世の変革にコミットできない。力を発揮できるのは、売れるものを発想し、売れっ子を生み出すことに対してで、それ以上ではない。それなのに、それ以上に足掻こうとするから、視聴者は蔦重から一歩引いてしまう。
だが、それもこれも、このように大河ドラマの主人公として限界だらけの蔦重を、横浜流星がまさに限界だらけの人物として、見事に演じているからでもあるが。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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