2025年のノーベル賞受賞者が続々と発表されている。ノーベル賞級の研究はどのように生まれるのか。
イノベーション論を専門とする経営学者の舟津昌平氏は「今回受賞した2氏とも、若手のうちは不遇だった。偉大なる研究は意外にも身近なところから生まれる傾向がある」という――。
■ノーベル賞が選ばれる基準
10月はノーベル賞発表の時期である。2025年はノーベル生理学・医学賞に大阪大特任教授の坂口志文(しもん)氏、ノーベル化学賞に京都大副学長の北川進氏が選出された。個人の日本人としてはそれぞれ29人目・30人目の受賞となる。
坂口氏は「特異的分子マーカーによる制御性T細胞の同定(1995年)」について、北川氏は「多孔性配位高分子(PCP)の構築(1997年)」が受賞理由とされる主な業績である。その細かい中身について理解や説明ができる方は少ないであろうが(筆者もできない)、快挙であることには間違いない。
さて、ノーベル賞が選ばれる基準なるものをご存知だろうか。非公開の基準もあるため全容は明らかにはならないものの、文学賞や平和賞を除く「科学」の分野でノーベル賞に選ばれる研究の条件を概括すると、①新しいこと、②後々多くの研究者が扱うような影響力のあること、が基準であるといえる。
今回受賞したお二人について調べてみると、この1つ目の「新しいこと」について、驚くほど共通した傾向がみられる。ノーベル賞級の評価を得るまでにおいて、新しいがゆえに理解されない、というフェーズを経験しているのだ。
■新しいがゆえに理解されなかった2氏の研究
まず生理学・医学賞を受賞した坂口氏について。
以下、「JT生命誌研究館」にて公開されている自伝(注1)をベースに坂口氏の軌跡をまとめよう。
坂口氏の受賞理由となった「免疫反応を抑える細胞」があるという仮説は、実は1970年代には既に提唱されており、東京大の多田富雄氏らによって「抑制性T細胞(Suppressor T cell)」と名付けられていた。当時の学会はその話題で持ちきりだったという。
坂口氏はその仮説に興味を持ちつつも多田説は不十分だとも考えており、結果的には多田説とは異なるアプローチでの研究を試みる。一貫して「免疫反応を抑える細胞」があると考えていた坂口氏は、1985年に「自信作」の論文を発表することに成功する。
ところが抑制性T細胞が流行ってから坂口氏が研究を発表する10年ほどの間に、周囲に変化が生じていた。抑制性T細胞の実体を誰も確認できなかったため、研究者が次々と研究から撤退していったのである。確認できないことに興味をもって研究を続けた坂口氏と対照的に、周りはみな、できないから止めていったのだ。
かくして、坂口氏の研究は無視されるか、奇異の目でみられることになる。「どうして今さらそんなことをやるのか」という反応だったという。ちなみに日本だけでなく国際的にも同じような流れだったようだ。

注1:JT生命誌研究館「ゆらぐ自己と非自己―制御性T細胞の発見
■周縁に追いやられた坂口氏を救った人
日本で研究を続けるためには、着々と「偉くなる」必要がある。

研究室の中で教授の下について助手になり、ステップアップして教授に、というルートが当時でも支配的だった。しかし「変な研究」をしている研究者はそのルートを歩めない。
かくして周縁に追いやられた当時の坂口氏を救ったのは、アメリカの奨学金だった。8年間給与つきで研究費が支給されるという、当時としても羽振りの良い奨学金を得ることに成功したのだ。
加えて、イーサン・シェバックという学界の大物が、坂口説を支持してくれるようになった。シェバック氏は抑制性T細胞については有名な「アンチ」であったそうだが、坂口氏の研究を追試したところ再現されたため、支持派に転じたのだという。
日本に戻った坂口氏は改めて論文を発表し、シェバック氏が追試研究をすることでその信頼性が担保された。坂口氏が発見した免疫反応を抑える細胞は「制御性T細胞(Regulatory T cell)」と名付けられ、世界に広く認められていくことになる。こうして「決着」がついたのは1995年のことで、坂口氏が仮説を構想してから約20年が経っていた。
■北川氏も最初は「無視」された
坂口氏の物語は「できすぎ」といえるほどだが、北川氏の研究にも似た部分がある。
北川氏にとってのコアの研究が発表されたのは1997年である。ところが論文発表の直後は「常識に反する」と信じてもらえず、関心もほとんど払われなかった。
「はっきり言って無視された」とも述べている。
状況は翌98年に一変した。当時アメリカのミシガン大学で同じ領域を研究していたオマール・ヤギー氏が、気体を出し入れしても壊れない材料の開発に成功したと報告し、北川氏の研究の信憑性が一気に増したのだ(注2)。ヤギー氏は今回、北川氏と同時にノーベル賞を受賞している。
北川氏はこう述べる。
「一般的な学術の流れとして、何か新しいものが出てくると、初めはあまり注目されない。でも、そのうち認知されてくると、急激に興味を持たれて大勢の研究者が群がり、論文が山のように発表されてくる」(注3)
新しいものが認知され、ある日を境に急激に支持されていくというのは、ノーベル賞の受賞要件を満たす過程そのものである。

注2:日経サイエンス2013年3月号「フロントランナー挑む 第24回 呼吸する有機材料を自在に設計する:北川進

注3:Clarivateインタビュー特集「多孔性配位高分子(PCP):ナノスケールの孔から広がる無限の可能性・前編
■新しいものを「最初から」評価する難しさ
このような坂口氏や北川氏のエピソードを、“科学ロマンス”に浸れるような話だと思った方もいれば、どこかで既視感があると思った方もいるだろう。この手の「偉大な発見」には、必ずと言っていいほど「最初は評価されなかった」という枕詞がくっついている。
我々は日常において必ず、何かを「取るに足らない」と言って無視している。これだけ繰り返し「偉大な業績は、最初は評価されないものだ」と学びながら、その教訓から“最初に評価する側”に回った人はほとんどいないはずだ。
実は経営学におけるイノベーション研究では、我々は新しいものを根本的に評価できない、という問題意識に基づいて、この手の話は相当に研究されている。


後々になってスゴイことがわかってくるモノを、大御所や偉人がまったく評価できていなかったというエピソードは、探せばいくらでも見つかる。
口で言う以上に「最初から評価する」ことは困難を伴う。新しいものを認めることすら、とうてい常人の能力の範疇ではないのかもしれない。
■ノーベル賞はいかに生まれるか
ノーベル賞級の研究トピックがいかに出現するかについて研究を重ねている筑波大学の大庭良介は、次のようにまとめている。
まず、「ノーベル賞級トピックは、少人数のチームにより、事前の関連論文発表を介さずに突然発表される傾向が強い」という(注4)。ノーベル賞級の発見は小規模のチームから突然現れるのである。坂口氏や北川氏のケースとも整合的だ。比較的無名の研究者がまず新しい研究を発表し、疑問や反論の声がありながら、追試研究などの関連研究が重なることで支持を得ていく。
他にも、「500万円以下の少額研究費を多くの研究者に配る方が、高額な研究費を少ない人数の研究者に配るよりも、論文数、萌芽的トピック創出、ノーベル賞級キーワード創出のすべてにおいて、より多くの研究成果が得られた」という。新たな発見がほとんど予測できないランダムなものである限り、「薄く広く」がセオリーになるという訳である。
また、いわゆる研究のグローバル化が「萌芽的トピック」、つまり新しいものを生み出す効率には寄与するいっぽうで、それが支持を得てノーベル賞級になることには負の影響をもたらしているとも指摘される(注5)。
これはイノベーションにとっても重要な観点だ。
単に新しいものを生み出すだけではダメで、研究なら多くの研究者に追随研究をされる、製品なら市場を拡大していくことが必要になる。グローバル化は、その拡大するフェーズを阻害し得るというのだ。

注4:筑波大学、弘前大学「ノーベル賞級の研究成果やイノベーションの創出を促す研究費配分を解明

注5:筑波大学「研究のグローバル化が萌芽的・ノーベル賞級トピックの産出効率に影響する
■偉大な研究を生む「ガラパゴス化」と「受け皿」
大庭は、「ノーベル賞級トピックの産出には、むしろ、研究のガラパゴス化が重要であるということが示唆され」たと表現する。
注目されない無名の個人やチームが、主流から外れた周縁から突然新しい研究を生み出し、それが局所的に(つまり、ガラパゴス的に)広まっていくことで「ノーベル賞級」に結実する、というプロセスを経るイメージである。
ノーベル賞が生まれる過程は非常に興味深い。ただ、ここまでの話を総括したとして、無名だったらいいというわけでもない。すごい研究をしていたけど、無名のまま消えていった研究者もごまんといるはずだが、そうした人々の足跡を追うことは容易ではない――無名だからである。
無名な人々が周縁から発信した新しいものがイノベーションになるためには、支持者が必要である。坂口氏におけるシェバック氏、北川氏におけるヤギー氏がそれにあたる。科学の世界では、追試をして信頼性を確かめるといったかたちで支持者になっていく。
ただ支持者になることもまた容易ではない。追試研究にも大きなコストがかかるわけで、そして何より、ほとんどの人は結果が出てからしか判断できないのだから。


また坂口氏のケースでは、アメリカの奨学金という受け入れ先があった。北川氏も博士号を取得した後の就職が難航し、ようやく就職した近畿大で学生時代とまったく違うテーマを与えられ、それがノーベル賞の研究に繋がることになったという。最初は取るに足らない研究だからこそ、社会のどこかに受け皿がないといけない。それをインクルージョン(包摂)と呼ぶのではないか。
未知ですばらしいものは、未知であるからこそ、支持者と居場所が必要である。ノーベル賞を日本から生みたいなら、支持者と居場所に困らない国にしないといけない。
■40代はまだ若いかもしれない
さらに触れておきたいことがある。新しいものが認められることの難しさと無関係ではない、年齢の問題である。
坂口氏と北川氏が核心的な研究を発表したときの年齢は、くしくも両名とも44歳である(プロフィールより概算)。44歳。決して若くはないように思える。エイジズム(年齢差別主義)のはびこる現在だと、オジサンが40超えて頑張ってもムダ、みたいな意地悪な声しか聞こえてこない。
今回の受賞者2名にもゆかりのある京都大学は、今年2025年に「レクチャーシップアワード」を創設した。MBSニュースによると、「将来的にノーベル賞級の活躍が期待される50歳未満の若手研究者を表彰する国際的学術賞」らしい。
50歳未満の若手研究者。最初は誤植かと思って笑ってしまった。京都大学のウェブサイトを覗くと「若手」という表現は公式サイトでは用いられていない。ただ、「次代の科学技術を切り拓く新進気鋭の卓越した研究者を顕彰」とある。初代受賞者はクリフォード・ブラングウィン氏で、47歳。京都大学が47歳を「新進気鋭」だと思っていることは確かであろう。
■「時間軸の長さ」を見習ってはどうか
ノーベル賞の対象となるような基礎研究の世界と、民間企業やビジネスの世界とは様々な意味で異なっている。しかし、ノーベル賞を狙うような世界では、アラフィフすら「若手」なのだ。
新しいもの自体が長い時間をかけて生み出されるし、それが認められて後続が研究を重ねていくことにも時間がかかる。その気の遠くなるような長い道のりは、結果的にアラフィフを若者だとみなす世界観に繋がっている。
昨今話題になる「黒字リストラ」において、整理のターゲットとなるのは主に40~50代であるといわれる。そのくらいの年になるともう未来などなくて、デジタルツールが使えないとかでいじめられて、みな若い人にベットするようになる。この排除されようとしている人たちが「ノーベル賞級」である可能性も、なくはないはずなのだが。
もちろん繰り返すように、基礎研究の世界とビジネスの世界は異なっている。ごく少数の成功例を引き合いに出されても、当の中高年も困るかもしれない。
ただ、ノーベル賞級の人々がもつこの時間軸の長さは、あらゆるものが短期間化していく社会において、見習うべきものはあるのではないだろうか。
もしもあなたの周りにノーベル賞級と思えるような方がいたら、その人が中高年でも、不遇でも、周縁的でも、支持者になってみてほしい。少なくともノーベル賞は、そのような過程で生まれているようである。

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舟津 昌平(ふなつ・しょうへい)

経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師

1989年、奈良県生まれ。京都大学法学部卒業、京都大学大学院経営管理教育部修了、専門職修士(経営学)。2019年、京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)。京都産業大学経営学部准教授などを経て、2023年10月より現職。著書に『経営学の技法』(日経BP社)、『Z世代化する社会』(東洋経済新報社)、『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房/2023年度日本ベンチャー学会清成忠男賞書籍部門、2024年度企業家研究フォーラム賞著書の部受賞)、『組織変革論』(中央経済社)、『若者恐怖症 職場のあらたな病理』(祥伝社)など。

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(経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師 舟津 昌平)
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