三重県松阪市の老舗駅弁屋「あら竹」の「モー太郎弁当」は、東京で女優を目指していた新竹浩子さんが作った、全国的にも大人気の駅弁だ。BSE騒動やコロナ禍などの窮地を乗り越えて、あら竹の駅弁はどうやって愛子さまの旅のお供に選ばれるまでになったのか。
フリーライターのみつはらまりこさんがリポートする――。(後編/全2回)
■「あんた、社長やるかな」消去法で社長に
女優を志し上京するも、25歳で見切りをつけて三重県松阪市へUターンした駅弁あら竹の新竹浩子さん。家業では雑用係から始め、BSE騒動による売り上げ10分の1という危機を「モー太郎弁当」で乗り越えた。
しかしBSE騒動と同じころ、あら竹には、もう一つの危機が訪れていた。
父・日出男さんの腎臓機能が低下し、週3回の透析が必要になったのだ。さらに専務で長男の信哉さんは何万人に1人の難病を患い、一時は命の危険もあった。ふたりの体調不良が重なって、取引先や銀行の視線が少し変わったことを浩子さんは感じていた。
ある日の夕食の席で、日出男さんから「あんた、社長やるかな?」と、聞かれた。理由は語らない。
浩子さんは驚いたものの、状況を俯瞰していた。次男は銀行員、三男は当時運営していたドライブインの販売と調理の責任者、四男は経理でまだ若い。一方、浩子さんは取引先との面識もあり、広報として駅弁ファンから認知され、新商品を作った実績もある。

「弟の病を思えば、私しかいない」
こうして浩子さんは48歳で代表取締役社長に就任。この選択があら竹を次のステージへと導くことになる。
■自然発生した“ファンクラブ”
社長になっても、製造・営業・広報・企画など、浩子さんの仕事は変わらない。その1つに、雑用時代からホームページに掲載し続けていた「ぴーちゃんレポート」がある。イベントの様子・新商品の開発秘話・日々の出来事などが飾らない文章で綴られたコラムだ。
この発信が起点となって、駅弁ファンはあら竹が出店するイベントに足を運ぶようになり、いつしか「あら竹駅弁友の会」というユニークなコミュニティが生まれた。浩子さんいわく、「自称3万人いますよ(笑)」
会費、会則、総会はない。メンバーは鉄道会社の社長や社員・旅行会社重役や社員を含め、全国の鉄道・駅弁ファンなど、あら竹を愛する人たちが自然発生的に集まった。
あら竹駅弁友の会の存在が形になったきっかけは、2010年、JR東海からの依頼だった。
「記念イベントの特別列車ツアーで出す牛肉弁当に、特別な掛け紙をかけてほしい」
浩子さんは友の会の鉄道写真愛好家たち、通称・写真名人部会に「紀勢本線らしい、いい写真はありますか?」と声をかける。すると、秘境駅から撮影した国鉄キハ58など貴重な写真が次々と集まり、JR東海の依頼にはその中の一枚を採用することにした。
しかし、浩子さんはそれ以外の写真にも可能性を感じた。

写真名人部会の思い入れある写真を活用し、鉄道写真の掛け紙シリーズを展開。牛肉弁当の購入者が好きな掛け紙を選べるようにすると、JRの期間限定の乗り放題切符「青春18きっぷ」のシーズンには、掛け紙目当てに買い求める鉄道ファンが殺到した。
仕事のペースは崩さない一方で、アンテナはさらに鋭くなった。駅弁の認知度を高めるための挑戦も恐れない姿勢が形になったのが、漫画『駅弁ひとり旅』とのコラボだ。監修は鉄道写真家の櫻井寛氏、作画ははやせ淳氏。漫画の最後のページに、「コラボ駅弁作りませんか」という募集があったのを見て、即座に電話した。
「駅弁屋として絶対すべきだと思いました。だって、とても光栄なことですもの」
愛のある方から、愛をお借りする。この教訓は、めぐりめぐってあら竹を支える力となっている。
■「売り上げ1日3000円」からの復活劇
2020年4月16日、新型コロナウイルスのパンデミックによる緊急事態宣言が発令された。電車の便数が激減し、松阪駅から人が消えた。ゴールデンウィーク初日の売り上げは前年30万円から、わずか3000円へ。
売り上げは95%減という壊滅的状況だった。「お客様が来られないなら、駅弁屋が出向かないかん」。落ち込む暇はなかった。
まずは、売り上げが1カ月に数千円しかなかった通販を強化。自ら通販サイトをリニューアルし、お取り寄せに特化させた。さらにコラムやSNSを発信し続ける中で、あるアイデアが生まれた。
松阪に来られない人に、旅行気分を感じてもらおう――。
松阪市観光協会の理事でもある浩子さんはそのネットワークを活かし、本居宣長記念館・松阪城址・豪商ポケットパークなど30種類以上の地元のパンフレットを駅弁に添えた。通称「エア松阪」だ。加えて、一人ひとりに手書きの礼状を書く。鉄道好きには鉄道写真に直接お礼を、子どもがいる世帯なら手作りのモー太郎塗り絵。すると、そのサプライズに、SNSには感謝の声があふれた。

「三重県に旅をした気分になるおもてなしに、感激!」

「おまけもいっぱいで、今夜は旅行気分♪」
「“日本一美味しく、日本一楽しい駅弁を目指す”。その一心です。ご注文には感謝しかありませんでした」。静かに目を閉じて、浩子さんはゆっくりと言う。
この取り組みは数々のテレビで紹介され、放送直後には1日300件もの注文が殺到した。当時の注文対応はすべて手作業。駅弁の特性上、届いた日が消費期限になるので、購入者が確実に受け取れる日を確認し、製造日を調整し、金額と配送日を返信した。
「1分ごとにメールが届いて、母指関節炎になっちゃって(笑)。でも、お客様に少しでも早くお届けしたい一心。全力でお返ししたいという使命感でした」
テレビ放送から数日たっても新たな注文は入り続け、売り上げは70%まで回復。だが、数字以上に価値があったのは、客との「つながり」だった。
手書きメッセージへの返礼、エア松阪への感謝、「コロナが明けたら松阪に行きます」というSNSでの約束。
実際に、緊急事態宣言が解除された時期には通販で購入した客が松阪を訪れ、本店で大量に弁当を購入して帰った。
「デジタルの時代だからこそ、アナログな温かさが心に響くと思っています。効率は悪くても、手間をかけることに意味がある」
その後、通販システムは整備したが、手書きメッセージは今も続けている。あら竹の駅弁は人気だけではなく、記憶に残る駅弁となっていった。
■愛子さまのお眼鏡にかなった、あら竹の駅弁
迎えた、2024年3月27日。
その1カ月前に近鉄から依頼が入った。「特別仕様ではなく、一般の客が駅で買う普通の駅弁をというご要望が皇室から入ったので、あら竹の駅弁をお願いしたいです」
注文商品は、「モー太郎弁当」8個、「特撰牛肉弁当」2個。愛子さまは26日に伊勢神宮を参拝し、27日の午後からは近鉄宇治山田駅から電車で奈良県橿原市の神武天皇陵を参拝される予定だった。
駅弁を宇治山田駅に届けたのは、かつて腎臓の病気で生死の境をさまよい、今も透析を続けながら会社を支えている弟で長男の信哉さん。「この上ない光栄なお役目、彼が適任です」と浩子さんは微笑む。
後日、関係者から、「愛子さまも随行のみなさまも大変お喜びで、おいしくお召し上がりいただき、メロディーもお楽しみいただけた」という連絡があった。
「愛子さまは車内に響く音楽に驚き、随行員の方々と笑い合われたのではないかと想像しています。
きっと動画でモー太郎弁当を撮影して、天皇皇后両陛下にお見せしたんじゃないかしら」と、浩子さんは顔をほころばせながら振り返る。
なぜ、数ある選択肢の中であら竹の駅弁だったのか。
多くの駅弁会社が効率化のために大量生産へ移行する中、あら竹は今も手作りを貫いている。機械化せず、効率化せず、「お母さんが作るお弁当」を一つひとつ手で詰めて作り続けている。その姿勢が、皇室からの信頼につながったのではないだろうか。
手作りを貫くのは、もはや普通ではなく、特別。手間暇かけて作る特別な弁当だから、選ばれたのではないかと思う。
しかし、今後の展望について問うと、「本当のことを言うと、駅弁の未来は暗いですよ」と浩子さんは渋い顔をした。
■「主要駅には置かない」あら竹の戦い方
浩子さんいわく、1985年は駅弁マークが付いている会社は400以上あったそうだ。しかし2025年8月現在、81社にまで減少しており、40年で市場は80%も縮小している。要因にはコンビニ弁当の普及、車内販売の廃止、駅構内の再開発などが挙げられる。
その中で、松阪駅構内にも店舗を構えるあら竹の売り上げ構成は、本店が50%(近隣の配達も含む)、松阪駅の売店が25%、残り25%は三重県の安濃サービスエリアやイベント、通販と、売店の比率は高い。
「主要駅には置かないのですか?」。思わずつぶやいた筆者に、浩子さんは微笑みながら迷わず答えた。
「駅弁って、“高い・まずい・冷たい”っていうイメージありませんか? 私はその概念を“できたて・あったか・美味しい”に変えたいんです。
松阪に来て作りたてを食べてもらえれば駅弁のイメージは変わると信じています。主要駅に置けば、あら竹の駅弁は何千個と売れると思う。でも実際は、手数料や輸送費を引けば利益は数百円。うちのような小さな駅弁屋は、そこに賭ける体力はない。だからこそ、今は売れ筋の美味しさを際立たせるのが、あら竹の戦い方だと思っています」
目先のわずかな利益よりも「できたての体験価値」を前面に据え、松阪に人を呼び込む戦略を貫いている浩子さんは、観光協会理事としての立場からもこう言い切る。
「駅弁はその土地の顔。松阪をもっと盛り上げなければ、あら竹の未来はありません」
■車内で鳴り響く「ふるさと」のメロディー
筆者が初めてあら竹の駅弁を知ったのは、帰省途中の近鉄特急の車内だった。隣の席のスーツを着た男性が弁当を開けた瞬間、「ふるさと」のメロディーが流れて、響いた。男性は窓の外を流れる田園風景を眺めながら15分ほどで食べ終わると、黒い牛の容器を大切そうにカバンへしまった。
このエピソードを伝えると、浩子さんは少女のように目を輝かせた。
「100人いれば100通りのモー太郎の物語ができる。まさに理想の食べ方ですね! その時間に寄り添えること、“おいしかった”の声をいただけること、それが私の原動力です」
黙っとったら潰れる――。
子どもの頃からの危機感は彼女を常に動かし続けてきた。しかし、走り続ける理由はそれだけではない。駅弁を通じて旅人の思い出を彩れることが浩子さんにとって何よりの喜び。愛を届け、客に寄り添い、物語の一端を担う。元女優の駅弁屋社長は、今日も駅弁を手渡しながら、「よい旅を!」と願っている。

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みつはら まりこ
フリーライター

1986年生まれ、香川県出身。大学卒業後、大手コーヒーチェーン店で6年、薬局事務8年の勤務を経て、2022年に独立。現在はインテリアデザイン・SDGs・社会福祉分野を中心に、オウンドメディア・PR記事・地方自治体の広報など幅広く執筆中。従来の常識や価値観をそっと解きほぐし、新しい生き方や心の豊かさに光を当てながら、誰かの小さな一歩となる記事を目指して取材を行う。

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(フリーライター みつはら まりこ)
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