※本稿は、竹端寛『福祉は誰のため?』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
■蔓延する「迷惑をかけるな憲法」
先日、小中学生のお子さんのいる保護者の集まりで、拙著『ケアしケアされ、生きていく』の内容について対話をする会がありました。
そこで、今の若者が日本国憲法より「迷惑をかけるな憲法」を遵守しているという話題提供をした上で、人は誰しもお互い迷惑をかけ合いながら生きているのだから、「迷惑をかけてはならない」という規範に子どもが過度に縛られ、他人の目に怯(おび)えていればしんどいのではないか、と提起しました。
すると、その後の感想の中で、「迷惑をかけてはならない、というのは、社会人としての基本であり、子どもにもそれをきちんと学ばせる必要がある」と反論される保護者の方がおられました。
確かに、私も娘に、ワガママ好き放題してよい、と伝えてはいません。列に割り込まず並ぼうね、とか、他人のものを取ってはいけない、などの最低限の常識は伝えています。
でも、社会の最低限のルールを護(おび)ることと、迷惑をかけないように常に周囲に気を遣うことは、大きく違うと思っています。自分が納得してそのルールに従うことと、他者に否定的に評価・査定されないように他人の目を内面化することとは、ずいぶん性質が異なる気がするのです。
■とれるはずのない「自己責任」もある
これは「自己責任」という言葉の捉え方の違いにも、現れているように思います。一般に自己責任とは「自分の行動により発生した結果に責任を持つこと」を指します。確かに他人のものを壊してはならないし、人にぶつかってしまったら「ごめんなさい」と謝るのは、あたりまえです。
ただ、「自分がやったことには自分で責任をとる」というのは、もう少し解像度を上げて検討する必要があります。
例えば、あなたが家族と暮らしていて、その家族が病気や貧困、障害などで支援が必要な状態にあるとき、その家族のケアをあなたが担わなければならない状態であれば、あなたができる「自分の行動」に制限が加わります。
宿題をする時間もなく弟の世話をした、子どもが熱を出したので仕事を他人にお願いして急遽お迎えに行った、認知症の父のトイレ介助で夜何度も起こされるので日中集中できない。
……こういう様々な事情を抱えていても、多くの場合、仕事や学校で課された内容が減らされないし、他人と・以前のあなたと同じようにできることが求められます。でも、こういう負荷がかかれば、できることにはそもそも限界があります。
にもかかわらず、それができない場合、「他人に迷惑をかける」と自分自身を批判して・追い込んでもよいのでしょうか? それって、「取れるはずのない責任」を抱え込んでいる、とはいえないでしょうか?
■2種類の「自己責任」
そして、福祉現場でも、あるいは学生と接していても、「取るべき責任」の範囲を遥かに超えて、「取れるはずのない責任」を「自己責任」として抱え込んでいる人がいるように、私には思えてしまいます。そんな「骨の髄まで自己責任」だとしんどくありませんか? 抱え込めない責任を手放して、迷惑をかけあってもいいのではないでしょうか。
これに関して、政治哲学者の玉手慎太郎さんは興味深い議論をしています。彼は自己責任には「後ろ向き(backward-looking)」の責任と「前向き(forward-looking)」の責任の二つがあるとした上で、両者を以下のように定義しています。
・後ろ向き責任:過去の特定の行為から生じた損失の補償を、当人が個人的に引き受けることを要請する規範
・前向き責任:当人の置かれた状況に応じて、将来ある特定の行為を遂行することを望ましいものとみなす規範
(玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学:国家は健康にどこまで介入すべきか』筑摩選書、175ページ)
前者は、自動車を運転していて止まっている他の車にぶつけてしまったので、その損失の補償を運転していた人が引き受けなければならないなど、起こってしまった事に対する結果責任です。
後者は、風邪が流行(はや)っていて体調もよくないから、早めに寝ることで、風邪を予防しようとする、未来に対する責任の取り方です。前者が過去から現在、後者が現在から未来、と責任を引き受ける時間軸が異なっているのがポイントです。
■後ろ向き責任は「人を見放す視線」
そして、福祉現場で問題になる自己責任論って、「後ろ向き責任」に関するものです。
「不健康な行動」を「自堕落な生活」だとか、「努力不足」、「金銭管理がずさん」などと入れ替えても、同じことが言えると思います。
そして、玉手さんは「健康をめぐる自己責任論を乗り越えるために」というテーマに関して、以下のように整理しています。
「自己責任論が依拠する「後ろ向き責任」と、望ましい行為を選び取っていくことを各人に求める「前向き責任」とを区別することで、自己責任論を否定しつつ自発的な行為変更を推奨していくことができるのではないか」(前掲書、181ページ)
これは非常に重要な指摘です。先ほどの例で言えば、ある人が貧困や精神疾患、認知症やガンになった時に、「努力が足りなかったから(○○しなかったら)そうなったのだ、自業自得だ」という形でなじるのは、「後ろ向き責任」です。でも、それは現に苦しい状況や困っている状態にある人に対して、見放す視線でもあります。
■「前向き責任」にモヤモヤする理由
他方、どのような事情であれ、現に貧困や精神疾患、認知症やガンに陥った人が、「過去から現在」を非難や否定されることはなく、「現在から未来」に対してどうしたらより良い変化を生み出せるか、そのためにどんな責任なら取れそうかを考えることは、「自己責任論を否定しつつ自発的な行為変更を推奨していく」という意味で、希望ある路線変更になりそうですよね。
でも、前記の説明を読んでも、論理的には分かるけど、モヤモヤする、という人もいるかもしれません。
おそらく多くの人にとって、「自己責任」=「後ろ向き責任:過去の特定の行為から生じた損失の補償を、当人が個人的に引き受けることを要請する規範」という認識が骨の髄まで染みついているのだと思うのです。だからこそ、この「後ろ向き責任」を問わない=免責することに関して、「無責任」ではないか、と感じるのかもしれません。
さらに言えば、「不健康な行動」や「自堕落な生活」、「努力不足」、「金銭管理がずさん」の「結果責任」を「自業自得」としないということは、そういう奴と違い私はこんなに「健康な行動」や「秩序ある生活」、「必死の努力」、「家計簿を付けて貯金」……をしてきたのに、そんな私自身の努力を否定され・台無しにされるようで辛(つら)い・ズルい、という、感情的反発も、あるのかもしれません。
■非難や否定と、批判の違い
でもここで、ちょっと立ち止まって考えてみたいのです。
授業で誰かの何かを「批判」した際、学生たちの中には、「否定」や「非難」だと誤解し、「他者を傷つけることではないか」と勘違いする人がいます。他者を傷つけるのは「人格の否定や非難」であり、「批判」ではありません。では、「批判」とはどのような意味があるのでしょうか。これを、文化人類学者のデヴィッド・グレーバーさんの言葉から考えてみたいと思います。
「人間はなにかをつくる前に、それがどのようなものになってほしいのかを心のなかで思い描く。だから私たちは別の可能性も想像できる。その意味で、人間の知性は本質的に批判的なものである。」(デヴィッド・グレーバー『価値論――人類学からの総合的視座の構築』以文社、102ページ)
彼は批判を「別の可能性を想像すること」と定義しています。「あなたのやっていることはダメだ」であれば、過去や現在に対する否定や非難です。でも、「あなたのやっていることは、こんな風に変えた方がよいのではないか?」というのは、未来に向けて「別の可能性を想像する」批判です。
■批判は未来につながっている
そして、「あなたのやっていることはダメだ」というのは、「後ろ向き責任」への否定や非難、なんですよね。一方、「こんな風に変えた方がよいのではないか?」は「前向き責任」を見据えた批判となります。
「不健康な行動」や「自堕落な生活」、「努力不足」、「金銭管理がずさん」の「結果責任」を否定や非難しても、本人が落ち込むか感情的に反発するばかりで、何も生み出しません。
それだけでなく、生まれながらに「自堕落」とか「ずさん」な人はいません。その人の生きるプロセスの中で、家族関係や生育環境との相互作用の中で、努力をしにくい状況や、健康に価値を見出だせない状況に追い込まれてきた可能性があります。
もちろん、そこには本人の怠けや甘えも反映されているかもしれないけれど、社会構造や環境要因の抑圧を内面化している可能性もあるのです。であれば、否定や非難をしても、先に進めません。
それよりは、今の状況からどうやったら「よい変化」を生み出すことができるか。それを自分一人で考えられない・想像できない状況ならば、その人に関わる他者が一緒に考えながら、「よい変化」という「別の可能性」を生み出すために、共にモヤモヤ画策してみる。この建設的批判は、責任の押しつけや責任放棄ではなく、責任の分有や共有です。そして、福祉は誰のためかを考える際、この責任の分有や共有が重要です。
■因果関係が見えにくい現象もある
私たちは、原因と結果の対応関係が明確であることのほうが「わかりやすい」と思っています。頑張って勉強したから、テストの点数がよかった。
その一方で、「不健康な行動」や「自堕落な生活」、「努力不足」、「金銭管理がずさん」といった現象は、その因果関係が見えにくいものです。
アルコール依存症を例に出せば、赤ちゃんの時からアルコールが好きな人はいません。一定の年齢でアルコールを口にしたとき、もしかしたら最初はまずかったかもしれません。でも、人間関係の不和や様々な失敗、心身の不調、経済的困窮や事業の失敗、失業などが重なる中で、アルコールを飲むことでしか自己を表現できない状況に構造的に追い込まれていったのかも、しれません。
すると、原因と結果の因果関係はよくわからないけど、気づけばアルコール依存に陥っている場合もあるのです。確かに依存症という結果への責任はあるかもしれないけど、それを他者が非難や否定をしたところで、何も現状が変わらないのであれば、その非難や否定は無効である、とも言えます。
■「話してみる」と「離して見る」
この時に、私たちが慣れ親しんだ因果モデルを横に置き、その人は過去から現在にかけて、どのような背景や人生上のストーリーが重なって、いま・ここでの苦しい状況にあるのか。その人の「苦しいこと」の合理性を教えてもらうことは、すごく大切なことです。
ここで、非難や否定という「評価」枠組みも横に置き、「苦しいこと」を抱えたその人が、いま・ここに至るプロセスを、知らない私があなたに教わる。そのつもりで聞いてみると、「不健康な行動」や「自堕落な生活」、「努力不足」、「金銭管理がずさん」に至る、様々な苦境の物語を伺うことができます。
「以前はこんなに成功していたんだ」「元々は努力家だったのに」「奥さんが亡くなるまではきちんとした暮らしをしていたんだ」「人に騙(だま)されて自暴自棄になったんだ」といった、その方の語られざる内面の歴史が見えてきます。
そして、相手からすると、否定や非難をすることなく、自分のこれまで歩んできた歴史に興味を持って聞いてくれる存在は、実に貴重です。「言い訳のできない汚点」「不幸や不運のデパートだ」と思ってきた自分の失敗や苦境の歴史について、他者が誠実に・関心を持って聞いてくれるなら、話してみる価値はあります。
そして、他者に話すことによって、そのプロセスを「離して見る」こともできます。そのような「物語の共有」は、やがて固着した自己責任を開くことも可能になります。
■悪循環の物語を共有する
悪循環に陥っている人とは、「過去の特定の行為から生じた損失の補償を、当人が個人的に引き受けることを要請する規範」としての「後ろ向き責任」に縛られている場合が少なくありません。それを引き受けてドツボに陥っている人も、あるいはそこから逃げようともがいている人も、この「後ろ向き責任」に囚われています。
でも、起こってしまったことに否定や非難をしたり、なじっても、そこからよい変化は生まれてきません。それよりは、悪循環の物語を他者が聞いてくれて、自分自身もその循環プロセスを「離して見る」ことができれば、そこに物語の共有が生まれます。
すると、過去から現在までの固着した物語から、どんな風に違う未来を作りだしていけるか、を一緒に考えてもらうことができます。これが「前向き責任」の魅力です。そしてこの「前向き責任」は、「後ろ向き責任」の(しばしば「失敗」の)物語の否定や非難ではなく、共有してもらうことから、はじまります。
このプロセスが、「別の可能性を想起すること」としての批判的意識化の根底にあります。
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竹端 寛(たけばた・ひろし)
兵庫県立大学環境人間学部教授
専門は福祉社会学、社会福祉学。著書に、一児の父として子育ての経験を綴ったエッセイ『家族は他人、じゃあどうする?――子育ては親の育ち直し』(現代書館)、『ケアしケアされ、生きていく』(筑摩書房)、『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)、『福祉は誰のため?』(ちくまプリマー新書)など。兵庫県立大学環境人間学公式サイト/教員プロフィール
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(兵庫県立大学環境人間学部教授 竹端 寛)

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