江戸時代後期に活躍した喜多川歌麿とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「世界的に評価されている『美人大首絵』は、蔦重がいたからこそ誕生した。
男女の情交を観察して描く機会を与えられたことで、歌麿の才能は大きく羽ばたいた」という――。
■歌麿が伴侶の写生から生みだした世界的絵画
喜多川歌麿(染谷将太)がようやく出逢い、生涯の伴侶になるはずだった「きよ」(藤間爽子)。だが、運命とは残酷なもので、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第37回「地獄に京伝」(9月28日放送)では、足に発疹が出ているのが映され、病気にかかっていることが暗示された。
そして、第38回「地本問屋仲間事之始」(10月5日放送)では、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が連れてきた医師が「瘡毒」、つまり梅毒だと診断し、「難しいかもしれませんよ」と告げた。その言葉どおりに、「きよ」はしばらくして帰らぬ人になった。
歌麿は必死に看病しながら病床の顔を描き、「きよ」が事尽きて、遺体の腐敗が進んでいる状況でも、狂ったように彼女の顔を描き続きた。
続く第39回「白河の清きに住みかね身上半減」(10月12日放送)では、深い悲しみに沈んだままの歌麿は、蔦重の実母の「つよ」と一緒に江戸を離れ、心の傷を癒すために栃木に向かったが、歌麿が「きよ」と暮らした居宅には、歌麿が描いた「きよ」の絵がたくさん残されていた。
それらは歌麿の「きよ」への愛情を象徴するように、バストアップで描かれ、彼女の顔が強調されていた。それを見た蔦重は一案を思いつき、歌麿がいる栃木に向かう。こうして誕生するのが、のちに歌麿の名を世界に知らしめることになる美人大首絵である。
■代表作は虫、貝、鳥だったのに
東京都世田谷区の専光寺にある歌麿の墓には、「理清信女」と「蓮室涼圓信女」という2つの戒名が刻まれている。前者が亡くなったのは寛政2年(1790)8月26日。
つまり、第38回で描かれた地本問屋仲間結成の少し前だ。
歌麿の私生活については記録がないが、「理清信女」が妻だった可能性は指摘されており、その場合は「清」が名だったと考えられる。「べらぼう」での役名「きよ」はそこから取られていると思われる。一方、文政8年(1825)に亡くなった「蓮室涼圓信女」は、娘だとも後妻だとも推測されている。
いずれにせよ、「理清信女」が亡くなった翌々年の寛政4年(1792)から、歌麿の代名詞たる美人画、それも「大首絵」といわれるバストアップの斬新な絵が、蔦重のもとから続々と刊行される。
歌麿の名を世に知らしめた出世作は、天明8年(1788)正月に蔦重の耕書堂から刊行された豪華な狂歌絵本『画本虫ゑらみ』だった。蔦重はおそらく狂歌師たちの入銀(出資を募って出版費用を集めること)で、この贅沢な本をつくった。そこには虫を詠題にした狂歌に沿って、トンボやチョウなどの昆虫から、ヘビやカエル、カタツムリまでが、オールカラーで植物とともに活き活きと緻密に描かれている。
翌寛政元年(1789)には続編で貝を描いた『潮干のつと』、その翌寛政2年(1790)には鳥が詠題になった『百千鳥』が刊行された。このように、寛政2年の時点では、歌麿の代表作といえば、虫や貝や鳥だったわけで、そこから眺めると、「美人」は意表を突いた対象にも思える。
■春画で鍛えられた人間観察眼
だが、蔦重は『画本虫ゑらみ』が刊行された天明8年に、歌麿の春画本『歌まくら』を刊行している。「べらぼう」では、歌麿が「きよ」と暮らすことで、過去のトラウマを克服して「遊び絵(春画)」を描けるようになり、蔦重がよろこぶという場面があった。

実際、『歌まくら』のために歌麿が描いた春画は非常に写実的で、想像を働かせるだけで描けたとは思えない。おそらく蔦重は歌麿を、自分の故郷でなにかと顔が利く吉原に派遣し、男女の営みを観察させたのだろう。その際、歌麿は虫や鳥に向けたのと同じ観察眼をフル稼働させたのだろう。
こうして人間を深く観察して描く機会を得たことが、「美人大首絵」の誕生に大きく寄与したことは疑う余地がない。
また、「べらぼう」では前述のとおり、歌麿は「きよ」の顔を描いて、描いて、描き倒した。寛政2年(1790)8月26日に亡くなった「理清信女」が歌麿の妻だったとすれば、生前の彼女を観察し続けたことが、死の翌々年から美人大首絵が登場するにあたって、なんらかの影響をあたえたとしても不思議ではない。
■美人大首絵が誕生した背景
ところで、山東京伝の洒落本3作の刊行に関して、身上半減の重い処分を受けた蔦重は、これ以上、松平定信の治世に逆らい続けても、到底勝てないと思い知ったことだろう。
いよいよ方向転換しなければ、今度は身上を潰してしまいかねない。朋誠堂喜三二のような武士なら、戯作が本業ではなかったから、筆を折っても生活に困ることはなかった。しかし、町人の場合はそうはいかない。蔦重の耕書堂のような地本問屋は、出版物を刊行し続けなければ、たちまち干上がってしまう。
そこで蔦重がはじめたのが、歌麿が描いた大判の錦絵を販売することだった。
美人大首絵の誕生である。それまでは錦絵に女性が描かれる場合、立ち姿や歩く姿が一般的で、背景には町や自然の情景が描かれた。
一方、大首絵はブロマイドのように顔に焦点を当てた構図で、背景にはなにもない。現代の白い背景紙(白バック)の前で撮られた写真、または背景を白く飛ばした写真に近い。その代わり、雲母の粉末を使った「雲母摺り」をほどこし、背景が明るく輝くように見せている。
方向転換しつつ店を立て直すには、強いインパクトが必要だ。そこで蔦重が思いついたのが、この新しい様式の錦絵で、それが歌麿には描けると判断したということだろう。
■歌麿が描く美人がみな同じ顔をしている理由
歌麿による美人大首絵は、それまでの表情に乏しく個性が希薄だった美人画と一線を画していた。初の美人大首絵シリーズは寛政4年(1792)の『婦人相学十躰』である。そのなかの有名な『ポッピンを吹く娘』にせよ、『浮気之相』にせよ、少しの手の動きや身体の傾き、わずかな表情の違いで、女性のイメージを描き分け、その女性の性質や感情を見事に伝える。
ただし、顔に関しては、歌麿が描く女性はみなほとんど同じに見える。だが、それは多くの人に絵を買ってもらうために必要なことだった。
歌麿は似顔絵ではなく、この時代に理想とされた美人顔を描いたのだ。それが蔦重の指導によるものか、歌麿自身の発想なのかわからないが、大衆に広く売るためには必要な戦略だった。
ところで、最初に出された『婦人相学十躰』『婦女人相十品』『姿見七人化粧』は、モデルが一般女性なので、名前は記されていない。だが、それ以後の作品のモデルについては、田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)はこう指摘する。
「遊女以外の女性は水茶屋の女性と矢場の女性である。水茶屋は茶と菓子を出すいわば喫茶店で、矢場は楊弓で遊ばせる場所である。どちらも、客の応対は女性がおこなう」
■宣伝媒体としての美人画
ということは、吉原はもちろんのこと、水茶屋や矢場の入銀で、美人大首絵が刊行された可能性があるということだろう。
実際、寛政5年(1793)ごろに出された『当時三美人(寛政三美人)』は、難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊雛の3人を一緒に描いたもので、3人のうち最初の2人は水茶屋の看板娘で、もう1人が富本節の名取だった。歌麿の絵は身近なアイドルのブロマイドのように機能し、彼女たちを一目見に、多くの人が集まったという。
そうであれば、『当時三美人』が入銀によって出されたのかどうかはともかく、客を集めるために浮世絵に入銀する事例は、少なくなかったものと思われる。
いずれにせよ、こうして歌麿は、当代一の売れっ子画家になり、危機に陥っていた蔦重を救い、のちに浮世絵が世界的な評価を得るきっかけをつくったのである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。
早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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