■図らずも誕生した「女性宮家」
思わぬ形で「女性宮家」が誕生した。
三笠宮家の百合子妃が昨年101歳で亡くなった後、同家は当主が不在だった。先月9月30日に開かれた皇室経済会議では、三笠宮寛仁(ともひと)親王(2012年逝去)の長女である彬子女王が、当主となることが決定された。それにあわせて、母親である信子妃は、新たに「三笠宮寛仁親王妃家」を創設することとなった。三笠宮家のほうには、彬子女王の妹である瑶子女王も属している。
宮家では私的に雇う職員の人件費や祭祀に関わる費用を必要とする。そこで、信子妃にはこれまで年額1525万円の皇族費が支給されていたのが3050万円に増額された。彬子女王についても年額640万5000円から1067万5000円に増額された。瑶子女王に関しては、立場が変わらないので増額はない。
これは、三笠宮家が分裂したことを意味し、そこには母子の間での確執があるとされる。全体でかなりの増額になり、それは税金で賄われるので、釈然としない国民もいるようだ。
ただ、注目されるのは、女性皇族を当主とする2つの宮家が誕生したことである。
国会ではこのところ、皇族数を確保する1つの解決策として、女性皇族が結婚後も皇室に残る「女性宮家の創設」が議論になってきた。図らずもそれに近い宮家が誕生することとなったのである。
■皇室典範にはない女性皇族の「当主」
今回の決定は異例のこととも言えるが、宮家で男性の当主が亡くなった場合、妃がそれを継ぐ先例がある。今回はそれにならった形になるが、実は、皇室のあり方を定める「皇室典範」には、宮家のことはまったく規定されていない。それは、明治期に天皇家の家憲として定められた「旧皇室典範」でも同じである。
新旧の皇室典範では、皇位の継承に関わることについては細かく規定されているが、それ以外のことにはほとんど関心が向けられていない。旧皇室典範が定められた時点では、女性を当主とする宮家が生まれることなどまったく想定されていなかったはずだ。
したがって、「当主」という形で報道はされているものの、この名称は皇室典範には出てこない。あくまで慣例であり、法的な概念ではないのである。
その当主に近いものとしては、戦前の家督相続の時代にあった「戸主」が相当する。宮家というあり方自体が、戦前の制度を引きずったひどく古めかしいものである。
ただ、女性皇族を当主とする宮家が誕生したということは、天皇家においても、その可能性があることを意味する。それは、女性天皇、さらには女系天皇に道を開くものなのではないか。そのような考えが生まれてきても、不思議ではない。
■皇室典範の想定外が勃発する現状
皇室典範は、男性皇族が数多く存在する状態を想定し、それをもとにそれぞれの条文が作られている。ところが、現実には男性皇族の数は減り続け、今や天皇を含めて5人しかいない。しかも、今上天皇より年下なのは、秋篠宮と悠仁親王のわずか2人である。想定外のことは、これからも頻繁に勃発(ぼっぱつ)するはずである。
こうした状況が生まれる中、それに関連して注目すべき本が刊行された。それが、本郷恵子氏の著作『天皇家の存続と継承 中世の転換から現代へ』(吉川弘文館)である。本郷氏は、テレビでも活躍する歴史学者の本郷和人氏の夫人で、最近まで東京大学史料編纂所の所長を務めていた。
私は、和人氏とは対談本である『鎌倉仏教のミカタ 定説と常識を覆す』(祥伝社新書)を出しているが、恵子氏の著作も読んできた。
■異母兄妹婚による古代の皇統
『天皇家の存続と継承』の中で、私が特に興味深く思ったのが「古代天皇家の婚姻政策」の章である。皇位の継承をめぐっては中世に転換期が訪れたというのが恵子氏の見立てだが、それについて語るためには、それ以前の古代において、どのような状況になっていたかが重要になってくる。歴史学の世界では、古代と中世とは、「院政」のはじまりが境目になっているとされている。
恵子氏は、既存の研究を基に、「八世紀初めまでの皇統は、天皇家の内部メンバー同士の婚姻を軸として維持されてきた。とくに目につくのは異母兄妹婚である」と指摘している。
異母兄妹婚などと聞いても、現代に生きる私たちは、そのあり方を想像することも難しい。それも、古代においては一夫多妻で、母を異にする兄妹が珍しくなかったからである。異母兄妹婚とは、父は同じだが、母が異なる兄妹の間の結婚のことである。
母も同じである同母兄妹婚もあり得るわけだが、こちらの方は、「国津罪(くにつつみ)」とされていた。あってはならない重罪だというわけである。
■王権奪取とは天皇の娘の争奪だった
異母兄妹婚が成り立つには、当然ながら異母姉妹の存在が不可欠である。先代の天皇が妃以外に多くの女性と関係を持ち、そこに娘が生まれていなければならないわけだ。
これも、現代の感覚では想像もできないことだが、異母姉妹が複数いた場合、すべての姉妹と婚姻関係を結ぶこともあった。
たとえば、第29代の欽明(きんめい)天皇の場合である。先代の宣化(せんか)天皇には4人の皇女がいたが、欽明天皇はその4人すべてと婚姻関係を結んでいる。また、蘇我稲目(そがのいなめ)の2人の娘とも婚姻している。現代の私たちの感覚からすれば、とうてい理解できない婚姻のあり方だが、皇位継承を安定化させるには、皇子の数はできるだけ多いほうがいいとされたわけである。
しかし、ここで重要なポイントがある。それは、京都大学の研究員だった山本一也氏が「日本古代の近親婚と皇位継承 異母兄妹婚を素材として(上・下)」(『古代文化』2001年8・9月号)で指摘していることだが、皇位継承の前提として、天皇の娘と婚姻関係を結んでいることが大きな意味を持っていて、王権の争奪は、天皇の娘の争奪と一体化していたというのである。
■先代の天皇の娘との婚姻が最上の手段
古代において、天皇の政治的な基盤は安定したものではなかった。皇位の継承をめぐって争いが起こることも珍しくはなく、それが殺戮(さつりく)戦に結びつくこともあった。
たとえば、第40代の天武(てんむ)天皇の場合である。天武天皇は、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)をはじめ、第38代の天智(てんじ)天皇の4人の皇女を妻にしている。この場合、4人の皇女は天武天皇にとって姪にあたるのだが、天皇の娘であることが決定的に重要だった。それによって天智天皇の権威を受け継ぐことができたからである。
しかも、天武天皇の妻となった鸕野讃良皇女は、その間に生まれた草壁皇子(くさかべのみこ)が若くして亡くなり、草壁と天智天皇の娘であった阿閇皇子(あべのみこ)の息子である軽皇子(かるのみこ)が幼かったため、第41代の持統(じとう)天皇として即位している。それも彼女が天智天皇の娘として権威ある存在だったからである。
■無視できない「女系」の権威の高さ
ただ、次第に天皇の地位というものが安定するようになると、女系の力を借りる必要がなくなっていく。それを反映し、平安時代になると、異母兄妹婚はタブーになっていく。
そして、摂関政治の時代になると、藤原氏が娘を入内(じゅだい)させ、そこに生まれた皇子が天皇になる体制が築かれる。その後、院政の時代になれば、譲位した上皇が「治天(ちてん)の君」として権威をふるうようになり、天皇の娘の権威を借りる必要はまったくなくなっていった。
このように、時代によって、何を権威の基盤とするかは変わっていく。ただ、今日では、男系男子による皇位の継承ということが何より重要視されているが、もともとは事情は異なり、天皇の娘の権威が高かったことは無視できない。それは、「女系」が鍵になっていたことを意味する。
古代には、持統天皇の他にも女性の天皇が即位したが、多くは天皇の娘で、そうでない場合にも、天皇の孫か曾孫であった。江戸時代の女性天皇も、やはり天皇の娘であった。
■皇統を維持する「試したことのない扉」とは
こうしたことを踏まえると、本郷恵子氏が、『天皇家の存続と継承』の最後の章「天皇制はどこへ向かうのか」で述べていることが注目される。
恵子氏は、「皇統を維持するために採択可能な対応は、おそらくこれまでにすべて試されており」とし、「血統をめぐる選択肢はどんどん減っている」と指摘した後に、「そろそろ、試したことのない扉を開いてみるときではなかろうか」と述べている。
「試したことのない扉」とは何なのか。
女性天皇が歴史上存在したことを踏まえれば、それは、「女系天皇」しかないのではないか。となると、扉が開かれることによって、「愛子天皇」が誕生し、そこから女系で受け継がれるという事態が生まれるのかもしれない。私はそのように解釈したのである。
今や、皇位継承は根本的な危機に直面している。天皇の娘と婚姻関係を結ぶことで権威を確立しようとしたのも、天皇の地位が万全ではなかったからだ。今も、事態はその方向に向かっている。新しい扉を開く機は十分に熟しているのである。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)