悪質なカスハラに対し、三重県が罰金刑を伴う全国初の条例の制定を目指している。ビジネスコンサルタントの新田龍さんは「顧客は従業員よりも絶対的に強い立場というわけではない、という認識が広まり、心理的なブレーキがかかることに繋がる」という――。

■働く人の安全と尊厳を守る条例
三重県は、顧客による悪質な迷惑行為=カスタマーハラスメント(カスハラ)の防止に向け、罰則を伴う全国初の条例制定を目指す方針を正式に示した。刑法や迷惑防止条例など既存の法令では対応しきれない行為を対象とし、知事による禁止命令に違反した場合には50万円以下の罰金、拘留または科料を科す方向で検討している。
対象とする行為は、たとえば「大声での謝罪や面会の強要」「嫌悪感を抱かせる発言や暴言」など、社会通念上、業務の遂行を妨げるような執拗かつ著しい迷惑行為。県はこれらを「特定カスハラ」と定義し、事業者からの申し出を受けて設置される有識者審査会の意見を踏まえ、禁止命令や是正措置が必要かどうかを判断する仕組みを構築する。
対象は自治体職員など公務員のみならず、民間事業者の従業員へのハラスメント行為も想定されており、広く「働く人の安全と尊厳を守る」ことを目的としている。
県は2024年7月に「カスハラ対策推進本部」を設置しており、一見勝之知事はその初会合で「過料を含む罰則を検討すべき」と指示。今回の発表は、その議論の具体化にあたる。年内に条例素案を議会へ提示し、2026年度中の条例案提出・成立を目指すという。
■「罰金」を科すのは全国初の試み
今回の三重県の取り組みは、法的拘束力を伴う点で他自治体より一歩踏み込んだ内容だ。
県内ではすでに桑名市が2024年4月、「カスハラ加害者の氏名公表」を可能とする防止条例を施行しており、運送業者に対して「土下座を要求する」などの行為をカスハラと認定。6月には加害者に対して再発防止の警告書を送付する措置を取っている。
「罰則付きのカスハラ防止条例は三重県が全国初」と聞くと、お詳しい方なら「加害者の氏名公表を盛り込んだ桑名市のケースが先なのでは?」と思われるかもしれない。
しかし、桑名市の「氏名公表」はあくまで「行政処分」の一形態であり、制裁的措置ではあるものの、強制力を持つものではない。
一方で三重県の「罰金」は、知事が「禁止命令」を出し、それに違反した場合に50万円以下の罰金・拘留・科料を科すという「行政罰」であり、法的強制力を持つ処罰という点で大きく異なるものなのだ。
いずれにせよ、県レベルで罰金刑を伴うカスハラ防止制度を整備するのは全国で初めての試みとなる。
■「罰則付き」にしたらカスハラは減るのか?
筆者は、自治体や民間企業に対して、カスハラも含めたハラスメントの予防や被害対策についてコンサルティングしている専門家だ。そもそもカスハラとは何か、そして昨今のカスハラの増加状況や民間企業の取り組みのトレンド等については過去記事にて詳説しているので、そちらをご参照頂ければ幸いである。

【前編】悪質クレーマーは遠慮なく警察に通報するべき…従業員をカスハラから守るために活用すべき「7つの刑法」

【後編】なぜ「犯罪レベルのカスハラ」が放置されてきたのか…悪質クレーマー対策で日本企業がやってこなかったこと
そのうえで、本稿では「罰則付きにしたらカスハラは減るのか?」「県レベルでやっても仕方ないのでは?」「なぜ、わざわざ条例まで制定してカスハラを縛らなければならないのか?」といった素朴な疑問について解説していきたい。
■「これはダメ」の線引きが見えやすくなる
まず前提として、罰則があるからといって、必ずしも問題行動が根絶されるわけではない。実際、日々刑事事件や交通事故などがニュースになっているように、厳しい罰則があるからといって違法行為がなくなっているわけではない。
しかし、罰則があることで社会的な「規範意識」が形成され、「これはやったらダメな行為なんだ」という明確な線引きが可視化される効果は期待できる。
カスハラ行為の多くは、その場面場面で偶発的に発生する衝動や感情に支配された行動であるため、罰則そのものが瞬間的な暴発を止める効果は限定的だ。
しかし、条例が成立することで「顧客の立場でも罰されることがある」というメッセージが社会に共有されれば、「自分たちは従業員よりも絶対的に強い立場というわけではない」「お金を払っているからといって何をしてもいいわけではない」といった認識が広まり、心理的なブレーキがかかることに繋がる。
この「社会的メッセージ効果」こそ、罰則の本質的効用であるといえよう。


■「三重県だけ」が全国へ広がる第一歩
もっとも、県レベルの条例では、適用範囲が県内にとどまり、県境を越えた事案や全国チェーン企業には効力が及ばない。したがって、三重県単独では「抜本的抑止」は不可能である。
しかし、それを理由に見送れば、全国で誰も最初の一歩を踏み出せない。むしろ、先行自治体の成功事例が蓄積されることで、他県が追随し、自治体連携による社会的規範の形成へと繋がることが期待できよう。
県レベルであっても、そのメッセージが社会に共有されれば、それは全国的なモラル再構築の契機になり得る。カスハラは、もはや個人の問題ではない。社会構造が育んだ「顧客絶対主義」の副作用であり、罰則付き条例はその構造病に対する社会的なワクチンのようなものといえるかもしれない。
■日本が世界に誇る「おもてなし」の副作用
本来、こうした行為は社会通念や道徳心によって抑制されるべきものであった。しかし今、県レベルの自治体が「罰則」という強制力をもって抑止せねばならない状況が現実化している。その背景には、日本社会全体のモラル構造の変化、SNS社会の歪み、労働環境の疲弊など、複合的な要因が存在していると考えられる。
戦後以降に形成された「おもてなし」や「顧客第一主義」は、長らく日本の商業文化の誇りであった。しかしこの精神は、いつしか「顧客が絶対的な上位に立つ」という歪んだ構造へと変質してしまった。
平成期以降、過剰なサービス競争が進み、SNSが普及する中で、顧客のクレームが企業に対する脅威として機能し始めたのである。
従業員は「顧客に逆らってはいけない」という心理的圧力を抱え、顧客は「気に入らなければSNSで晒せばいい」と考える。この力関係の逆転が、モラルの崩壊を伴ったカスハラの土壌をつくり出した。もはや個人の資質や感情の問題ではなく、社会構造そのものが暴力的になっている。
SNSの普及は、発信の自由を市民に広く与えた一方で、「感情による制裁」が瞬時に拡散する社会をつくり出した。不満を持つ顧客が一方的な主張を投稿すれば、それが真偽不明のまま拡散し、企業や従業員が社会的非難の的になる。企業は炎上を恐れ、たとえ理不尽な要求であっても「謝罪」を選ぶことになる。
この構図は、いわば「恐怖による支配」ともいえよう。SNS社会がもたらしたのは、発言の自由ではなく、感情的な制裁の民主化である。その結果、常識の枠を超えた要求や暴言が横行し、「社会的制裁」が「顧客の権利」と誤解される事態に陥っている。罰則付き条例は、この暴走した感情社会に対し、法的に「秩序の線引き」を再構築する試みといえるかもしれない。
■「公」と「個」の境界が曖昧化した職場
近年のカスハラ被害は、民間企業のみならず、自治体や医療・教育の現場にも及んでいる。
公務員や医療従事者、教員といった職業は、市民や利用者との距離が近く、感情労働が日常的に発生する。それにもかかわらず、こうした職員が暴言や執拗な要求を受けた際、
「公僕なんだからそれくらい耐えるべき」

「税金で食わせてもらってるくせに」
といった言葉により、理不尽にも耐えることを強いられてきた。
背景には、政治不信の転移や「税金=自分の金」という誤解、行政サービスへの過剰な期待がある。この状況では、モラルや倫理に訴えても限界がある。行政が制度として防衛線を設けることは、公務員をはじめとする「公共労働者の安全」を確保する上で不可欠な措置となった。
■企業に任せていたら従業員を守れない
日本の労働市場は今、深刻な人手不足と職場疲弊に直面している。現場を支える非正規従業員や派遣社員は、しばしば顧客対応の最前線に立たされながら、十分な教育や保護を受けられない。企業は炎上を恐れて現場に責任を押し付け、従業員が心理的・身体的に追い詰められる構図が常態化している。
このような状況下で、自治体が罰則付き条例を制定するのは、「企業防衛の限界を補う行政的救済措置」である。もはや企業任せでは従業員を守れない。行政がルールとして関与し、「理不尽な顧客から職員を守る」明確な根拠を提示する必要があるのだ。
三重県の罰則付きカスハラ防止条例構想は、単なる「迷惑客対策」ではなく、人間の良識に依拠してきた社会システムの限界を象徴している。
人々のモラルが揺らぎ、SNSが感情を増幅し、企業が従業員を守れなくなった。この三重苦の中で、行政が制度として介入するのは必然であろう。
すなわち、これは「モラル社会から制度社会への移行」である。人の良心が期待できない社会において、ルールが人格の代わりを果たす。それが、現代日本が直面する現実であり、三重県の罰則付き条例は、その「時代の転換点」を象徴する存在である。
■「毅然とした対応」を現場に押し付けない
筆者は以前から、カスハラ対策の本質は「対応を現場従業員に押し付けないこと」だと指摘してきた。
経営者や店長から「理不尽なクレーマーには毅然とした対応を‼」などといくら言われても、矢面に立たされるのは末端の従業員だ。「毅然」である前に、彼らは日々の接客や対応業務で、常に心理的圧力に晒され、疲弊している。
よって真の「毅然とした対応」とは、組織トップが「理不尽な客はわれわれの顧客ではない」と宣言し、接客を拒否し、従業員を守ること」である。
三重県の条例は、まさにその姿勢を体現している。「最前線の従業員をひとりで戦わせない」という明確な意思表示。これこそが、現場の士気を高め、人材定着にもつながる社会的メッセージの力なのだ。

■「特定カスハラ」と正当なクレームの違いは?
一方で、この条例には慎重な運用が求められる。
・線引きの曖昧さ

どこからが「特定カスハラ」なのか

正当な苦情と不当要求の境界をどう明確化するか

現場で混乱が生じれば、行政への不信にもつながりかねない
・運用負担の増大

禁止命令、審議、罰則の適用には膨大な手続きとコストが伴う

被害申出をどこまで立証し、どの段階で行政介入するのか

「仕組みが重くて回らない」リスクは常にある
・表現の自由とのバランス

利用者の正当な意見や苦情を封じることになっては本末転倒

「クレーム封じ条例」などと誤解されないためにも、透明な判断基準と段階的運用が不可欠
・司法・憲法上の整合性

地方自治体が罰金を課す場合、その権限根拠や手続保障を明確に設計しなければ、違憲・無効のリスクを孕む

三重県案では、「長時間にわたる謝罪要求」「繰り返しの強要」「侮辱的言動」などを「特定カスハラ」として定義しているが、これは極めて理にかなっている。
要求の中身ではなく、「言い方・態度・強要性」に焦点を当てるという考え方は、先行する桑名市条例や厚労省の企業向けマニュアルにも見られる。つまり、「言っていることが正しくても、やり方が暴力的であればアウト」ということだ。
ここを誤ると、正当なクレームまでが封じられてしまう。県はこの「態様重視」の立場を徹底する必要がある。
■客も従業員も同じ人間である
三重県の条例は、日本社会が「お客様は神様」の幻想を脱し、「お互いに人である」関係性に戻る第一歩であるといえよう。それは、誰かを懲らしめるための法律ではなく、「働く人を守る」という価値観を可視化するための社会契約だ。
筆者はこの条例を強く支持するが、同時に、罰則はあくまで対症療法に過ぎない。本当に目指すべきは、「怒りの感情をどう扱うか」という「社会的成熟」にある。
事業者は、従業員を守るマニュアルと通報体制を整え、毅然とした姿勢を示すこと。
行政は、職員だけでなく、地域全体の働く人々を守る制度基盤を作ること。
利用者は、怒りをぶつけるのではなく、伝える力・待つ力を身につけること。
この三者のバランスが取れたとき、初めてカスハラは減少していくことだろう。

----------

新田 龍(にった・りょう)

働き方改革総合研究所株式会社代表取締役

働き方改革総合研究所株式会社代表取締役。労働環境改善、およびレピュテーション改善による業績と従業員満足度向上支援、ビジネスと労務関連のトラブルと炎上予防・解決サポートを手がける。厚生労働省ハラスメント対策企画委員。

----------

(働き方改革総合研究所株式会社代表取締役 新田 龍)
編集部おすすめ