■出光の「憲法」に書かれた5つの主義方針
「黄金の奴隷になるな」
金儲けを目標にしてはならない
従業員も1000人が数えるまでになった昭和15年(1940)、出光佐三は自らの思いを一人ひとりの従業員に直接伝えたいと『紀元二千六百年を迎えて店員諸君と共に』と題する文章をまとめた。
『紀元二千六百年を迎えて店員諸君と共に』には、出光の主義方針が掲げられている。「人間尊重」「大家族主義」「独立自治」「黄金の奴隷たるなかれ」「生産者より消費者へ」という五つで、それぞれに細かな注釈が入っている。はしがきを添えて年々書き溜めていた草案をまとめた社内教育資料である。
その他にもさまざまな著作を残した佐三だが、中でもこの文書を「出光の憲法だね」とのちに振り返ったという。
■「事業が主、資本蓄積は従」
憲法と称された五つの主義方針のうち「黄金の奴隷たるなかれ」は、佐三が最も早い段階で掲げたスローガンである。
「出光商会は事業を目標とせよ。金を目標とするな。しかしながら決して金を侮蔑し軽視せよというのではない。事業資金として大いに金を儲けねばならぬ。(略)ただ将来の事業の進展を邪魔するような儲け方をしてはならぬ。
根底にあるのは、学生時代に居住していた関西地方が、昔から商売気質に富み「黄金万能」とでもいうべき風潮があったことへの反発だろう。「私の学生時代は日露戦争直後で、欧米物質文明横溢(おういつ)の黄金万能の時代でありました。人よりは金が偉い時代でありました」と語っている。
創業当時の出光佐三の机。出光の主義方針は昭和15年(1940)に5つに集約されるが、「黄金の奴隷たるなかれ」は創業当時から佐三が掲げたスローガンだった。
■外交官という夢に父が反対した理由
「組織の奴隷になるな」
組織の中にいても独立自営の精神を持つ
正確にいえば「法律、組織、機構の奴隷となるな」と出光佐三は述べた。それは若い頃から「自主独立」の精神が根底にあったからだろう。神戸高等商業学校を卒業した佐三は酒井商会へ入ったが、当初、佐三は外交官を志望していた。しかし父親の反対に遭ったことで、進路変更を決めたのである。
「外交官といったって、お上の都合一つで、電話一本で、自分の意思とはなんの関係もなく、どこへ飛ばされるか判らんではないか。そんな不安定な仕事がなんになる。
佐三の「自主独立」の精神もまた学生時代の体験に基づくものだった。しかし、遮二無二働き、組織が拡大すると矛盾が生じてくるものだ。
■社員に権限を与え、自由に働かせた
創業から数年がたったある時、佐三は友人にこういわれている。
「君は自主独立が欲しくて油屋になったそうだな。出光商会で君の独立の目的は達せられたが、君の会社で働いている社員連中はどうなる。君と同じように独立が欲しいにしても、そうはいかない。君に仕え、君に搾取されなければならない。これらの人たちの独立について、君はどう考えるのだ」
佐三はいい返すことができなかったという。確かに優秀な社員が次々と独立したら企業にとっては困ることになり、かといって社員を縛り付けることは、佐三の掲げる「自主独立」とも矛盾する。佐三は考えに考え、やがて一つの結論を出した。
「出光そのものは国家・社会のために働いておれば、店員もおのずから国家・社会のために働いて、しかも独立しているということになるではないか。それには店員を自由に働かせるようにすればいいではないか」と、思い至ったのである。
これが、佐三が社員に大幅な権限を与えた理由である。この方針に基づき、独立を促すことはしないが、独立を目指して去る者を敢えて引き留めない方針も貫いた。
■GHQにも毅然と抗議する反骨精神
「権力の奴隷になるな」
あらゆる権威に束縛されず正道を貫く
昭和21年(1946)にGHQが出した「公職追放令」により、日本人の官僚や団体幹部、経営者や資本家がそのポストから追放された。出光佐三も経営者の一人として、追放の対象となってしまったが、その理由を調べると戦前に上海にあったテキサス石油の油槽所を接収したからだという。
「冗談ではない、接収したのは自分ではない。陸軍である」とGHQに猛烈に抗議した。調査の結果、佐三の主張が事実であることが明らかになった。天下のGHQを相手に抗議したばかりか、追放指定の解除を勝ち取ったのである。
■中止になった修学旅行を生徒だけで実現
権力に媚(こ)びない反骨精神は、福岡商業学校時代からすでに発揮されていた。最高学年である4年生になった時、当時の担任が年度始めに卒業前の修学旅行をもちかけた。
生徒たちは猛反発し、反対運動の中心になって動いた佐三はついには自主的な修学旅行を計画・実現してしまう。しかも福岡の市議会議員を訪ねては、前言を翻した学校側の非を説いて回る徹底ぶりだった。生徒に理解を示した市議の口添えもあり、厳罰を考えていた学校は処分を軽減せざるを得なくなった。
ただし、騒ぎの首謀者と見なされた佐三は、トップクラスの成績を残しながら優等賞を与えられなかった。佐三は、のちに卒業する神戸高等商業学校と比較して「福岡商業は、まるで逆じゃったもんね」と少しも懐かしがっていない。逆説的に見れば、その反発がのちの佐三の人物形成に大きく作用したのかもしれない。出光佐三の反骨精神は青年期に始まり、終生、貫かれた。
■戦後も1000人以上の社員を守り抜いた
「理論の奴隷になるな」
数の優位や理詰めで仕事をしてはいけない
正確には、「数、理論の奴隷になるな」と出光佐三は述べている。佐三自身が事業を通して体現した顕著な例が、戦後間もなく佐三が直面した国際石油資本との戦いである。
13社に対して出光1社で対抗したこの戦いにおいては、当然、日本政府は数が多い方を無視することができない。しかし、ここでも佐三は「数」に屈することはなかった。
創業60周年を迎える昭和46年(1971)の新年の挨拶では、「石油界のみでなく、政治・教育・財界すべてが屁理屈をつけて、頭数が揃えばいいというありさま」ということを憂慮し、「人間の質とか判断を尊重しなければならぬ」と述べている。大樹に寄ることなく、理論・理屈に従うのではなく、人間として自立した判断をしなければいけないことを説いたのだ。
佐三は、欧米的な考えであればリストラをすべき経営難となった時代にも、社員を決してクビにすることはなかった。「少数精鋭主義を唱えて、できの悪いものを首切るのは、真の少数精鋭ではなく、利己主義である。家族肉親の愛は最高のものです。学問や理論や哲学で説明できません。あらゆるものを超越した人間の基本的あり方です」と述べている。事実、敗戦後1000人以上の社員を一人もクビにすることはなかった。
■アメリカの民主主義は「偽物」と断言
「主義の奴隷になるな」
空理なイデオロギーに縛られない心
敗戦後、一からの出発を余儀なくされた出光佐三は、アメリカが唱える民主主義という代物に懐疑的な目を向け、それを公に批判することを恐れなかった。
「あなた方は、アメリカが民主主義の国であると自ら信じておられる。また、それを誇りにしてもおられる。だが、私にいわせれば、あなた方の民主主義は偽物である」
昭和30年(1955)、渡米した佐三はピッツバーグで行われた歓迎パーティの席でこういった。
■出光には「クビも定年も労働組合もない」
「貴国に初めて来て、大変驚いたことがある。それは、どこの会社にも入口にタイムレコーダーが備え付けてあることだ。しかも、オフィスの中では机が同じ方向に並べてある。これくらい人間を信頼していない姿はあるまい。タイムレコーダーという装置で社員の出勤や退社の状況をチェックし、社員を背後から上役が監督しなければならぬようなところに、どうして人間の信頼や尊厳があるというのか。どうして民主主義を本当に実行できるのか」
「では、あなたの会社はどうなのか」
「私の会社にタイムレコーダーはない。机も同じ方向を向いてはいない。45年前の創業時から出勤簿もない。クビも定年も労働組合もない」
佐三が話し終わると、一斉に拍手が起こったという。出光の社風は、自分の心の中に出勤簿を置いて、朝は30分早く出社し、仕事が終わらないうちは残業もいとわないという勤務スタイルが実践された。
それは「資本主義の奴隷より免れるために創業した出光は、如何なる主義の奴隷にもなってはならない。人を主義の奴隷たらしむるな」と唱えた佐三の考え方から育まれたものだった。
(別冊宝島編集部)

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