AIなどを活用してビジネスを成功させるにはどうすればいいのか。日本工業大学大学院技術経営研究科の田中道昭教授は「リコーのDX(デジタルトランスフォーメーション)事例が参考になる。
単なるデジタル導入ではなく、DXを文化に変えることが大切だ」という――。
■新発売のデジカメが“バカ売れ”しているワケ
デジカメが“バカ売れ”している。だが理由は「新しいから」ではない。
リコーイメージングが2025年9月12日に発売したハイエンドコンパクトデジタルカメラ「RICOH GR IV」が、異例のヒットを記録している。
Map Camera(マップカメラ)では、発売前の初回予約分が即完売し、供給不足のため新規予約を一時停止したとされる。実際、GR IVは、ヨドバシカメラの「コンパクトデジタルカメラ売れ筋ランキング」(2025年9月上期)で初登場1位を獲得。さらに、The Map Timesが発表した「2025年9月 新品デジタルカメラ人気ランキング」でも1位を記録した。
驚くのは、このカメラが最新だから売れているわけではないという点だ。ズームレンズを搭載しておらず、ズーム機能もない。デザインも初代モデルからほとんど変わらない。むしろ、1990年代のフィルムカメラのように、無骨で、控えめで、潔い。
それでも若者が惹かれるのは、「構える・撮る・残す」という、写真本来の行為を取り戻すことができるからだ。
スマートフォンが「撮ること」を極限まで効率化した時代に、GR IVは逆に“手間”を提供している。便利さよりも、“撮ることの意味”を感じたい。そんな時代の空気を、リコーは見事に読み取った。
この現象を一言で言えば、「温故知新」である。古きを守りながら、新しい時代に価値を生み出す。そして今、この「温故知新」の思想こそが、リコーという企業全体を貫く変革の原動力になっている。
■見た目は古いが、中身は最新
リコーのプレスリリースは「最強のスナップシューターを目指して進化し続けるGRシリーズ最新モデル」と謳う。GR IVは単なるリニューアルではない。シリーズの“本質的価値”を正当に進化させた機種として登場した。
開発・製造・販売を担うリコーイメージングは次のように説明している。
「GRシリーズの基本コンセプトである高画質・速写性・携帯性を余すところなく正当進化させるべく、イメージセンサーや画像処理エンジン、レンズ等の主要デバイスを一新した最新モデルです」(リコーイメージング 2025年8月21日付ニュースリリース)
確かにスペックは圧巻だ。新開発の“GR LENS 18.3mm F2.8”(高性能薄型レンズ)を搭載し、裏面照射型APS-Cセンサー+新開発の画像処理エンジン“GR ENGINE 7”によって高感度・低ノイズを両立。
さらに独自の5軸手ぶれ補正機構SR(Shake Reduction)はシャッター速度換算で約6段分の補正効果を実現。起動速度は0.6秒。GRシリーズ史上最速である。写真家の“瞬間を逃さない”という信条を、テクノロジーで支える進化である。
■「変えないことで信頼を生む」ブランド戦略
今回のGR IVのヒットは、リコーが20年以上守り抜いてきた哲学の勝利である。それは、“変えないことで信頼を生む”という逆説的ブランド戦略だ。
リコーはデザインを大きく変えない。同じ手の感触、同じ操作系。カメラに慣れる時間が不要で、購入した瞬間から体が覚えている。これこそ、信頼の積み重ねである。
同時に、リコーは内部構造を大胆に刷新する。センサー、エンジン、アルゴリズムをすべて更新し、見た目は古いが中身は最新という矛盾を美学に変えた。
つまりGR IVは、「外は伝統、内は革新」という温故知新の具現化である。
2025年10月15日に発表された「2025年度グッドデザイン賞」でGR IVが選出された。リコーは、同日付のニュースリリースで、GR IVについて次のように述べている。
「約30年前の初号機発売以来、“GRといえばこれ”という一貫したデザインを守りながら、熱心なユーザーとともに細やかな進化を重ねてきた。そのバランス感覚はじつに巧みで、クオリティ・コンパクトデジタルカメラの先駆者ならではの挑戦心が、あえて変えないデザインイメージと磨き上げられたディテールにはっきりと表れている」
■便利さの次にあるのは「人間らしさ」
GR IVの成功は、スマートフォン時代におけるアナログの復権を象徴している。AIが自動補正し、誰でも“うまい写真”が撮れる時代に、あえて手動で構図を決め、光を測り、シャッターを切る。そこに存在するのは「不便の快楽」――つまり人間が主役の創造行為だ。
若い世代がGRに惹かれるのは、テクノロジーの進化に飽和したからである。彼らは便利さの次に、「自分の感性を写す体験」を求めている。GR IVは、そうした時代の“感性のニーズ”を最も的確に掴んだプロダクトなのである。
リコーという企業の変革にも、GRと同じ構造がある。表面は“変えない”。
だが、内側で“徹底的に変える”。OA(オフィスオートメーション)で世界を変えた企業が、いまや「人間中心のデジタルサービス企業」へと再生している。
山下良則会長が推進する「AIの市民開発(AIの民主化)」という構想は、GRシリーズの哲学――技術を感じさせない技術――と地続きにある。リコーはカメラでも経営でも、「技術を前面に出さず、人を中心に置く」ことで差別化している。
GR IVは、単なるヒット商品ではない。それはリコーの企業変革そのものを象徴するメタファーである。古きを守りながら、最新技術で“人間らしさ”を再構築する。温故知新の思想が、いま最も新しいイノベーションの形になっている。
便利さの次にあるのは、「人間らしさ」という贅沢だ。リコーはその贅沢を、企業の哲学として実装している。
■2020年にリコーが「宣言」したこと
かつてリコーは、コピー機や複合機を象徴とするOA(オフィスオートメーション)企業の代名詞であった。しかし2020年、同社は明確にデジタルサービスの会社への変革を宣言した。
山下会長は、会議や講演でこう繰り返す。
「機械にできることは機械に任せ、人はより創造的な仕事をするべきです」
この言葉は、実は1977年にリコーが世界に先駆けてOAという概念を提唱した時とまったく同じものである。つまりリコーは、“過去の理念を未来の羅針盤にする企業”である。
創業以来、リコーはお客様の“はたらく”に寄り添い、変化する時代に応じた価値を提供してきた。1977年には「OA=オフィスの自動化」を掲げ、1998年には「環境経営」を提唱。環境保全と利益創出の両立を目指すという、当時としては極めて先進的な思想であった。そして2020年、第三の転換点として「デジタルサービスの会社への変革」を宣言し、“人にしかできない創造力の発揮”を支える企業へと再定義した。さらには2021年に、経済産業省が定めるDX(デジタルトランスフォーメーション)認定制度に基づき、「DX認定事業者」としての認定を取得。2022年には、「DX銘柄2022」に選定されている。
この進化の連続は、単なる事業転換ではない。それは、「人間中心DX」という日本型トランスフォーメーションの実践である。
■DXの本質は「技術」ではなく「人の創造力」
リコーの変革の起点にあるのは、“AIやDXを目的化しない”という明確な哲学である。
技術はあくまで、人間の創造性を解き放つための手段。同社のデジタル戦略は、その思想に忠実だ。
リコーはDXの目的を“はたらく人の創造力を支えること”と定義し、その実現のために4つの主要戦略を策定している(図表1)。
つまりリコーのDXとは、「テクノロジーの導入」ではなく「人間中心の構造改革」にほかならない。
変革を組織的に進めるため、リコーは2021年4月に「デジタル戦略部」を新設した。この部門はグループ全体のDX推進を統括し、経営ビジョンと現場のデジタル実装を一体化させる役割を担う。
経営陣による「デジタル戦略会議」と、各BU(事業ユニット)のDX推進責任者が参加する「DXOコミッティ」を設置し、「デジタルサービスの会社への変革」を全社横断で推進している。
DXを“ITのプロジェクト”ではなく、“経営そのもの”に昇華させた点が、リコーの変革を特異なものにしている。その結果、先にも述べた通り、2021年には経済産業省による「DX認定事業者」に登録され、翌2022年には「DX銘柄2022」にも選定された。
単なるデジタル導入企業ではなく、DXを文化に変えた企業として評価されている。
■リコーの「デジタル人材」は、単なるIT人材とは違う
リコーが定義する「デジタル人材」は、一般的なIT人材とは異なる。同社はそれを、
デジタル技術とデータを使いこなし、デジタルサービスを創出・加速させる人材
と定義している。
つまり、プログラミングスキルやAI知識を持つだけではなく、顧客との対話を通じて真の課題を発見し、デジタルで解決できる人材である。
この人材育成を、リコーは経営戦略の柱に据えている。中期経営計画(21次中経)では、人的資本施策を次の3つの柱で設計した。
自律:社員の潜在能力を引き出す

成長:個人の成長と事業の成長を同軸にする

“はたらく”に歓びを:社員体験(EX)を“歓び”へと変える
この中でも特に注目すべきは、「成長」である。リコーは社員がデザイン思考とアジャイル開発を学び、お客様と共にデジタルサービスを創出する「実践型人材」への進化を促している。
人的資本経営の文脈で見れば、リコーは“デジタル×人材×価値創造”を統合した最先端企業である。
■なぜ経理や営業が「アプリ開発」をしているのか
この企業変革の象徴が、「AIの民主化」である。リコーは全社員が生成AIやノーコードツール(Difyなど)を使いこなし、自ら業務を再構築する“ボトムアップDX”を展開している。例えば、経理担当が自動集計アプリを作り、営業担当が顧客提案AIを開発する。これまで専門部署だけの領域だった業務改善が、社員全員の創造活動へと広がった。
山下会長は、「AIを導入することが目的ではなく、社員がAIと共に働くことこそが目的だ」といった趣旨を語っている。これこそ、リコーのデジタル変革を貫く核心である。AIは単なる効率化の道具ではなく、“人間の創造力を拡張する共働者”なのだ。
1977年のOA宣言。1998年の環境経営。2020年のデジタルサービス宣言。リコーの経営史を貫くのは、「古きを温ねて、新しきを知る」という一貫した哲学である。
過去の理念を焼き直すのではなく、テクノロジーを通じて再解釈し続けている。その結果、リコーはAI・DXという時代の波を“追う側”ではなく、“意味づける側”に立った。
リコーは、技術を人に近づける企業である。そして、人間の創造性を再び経営の中心に置いた最初の日本企業の一つである。
その象徴である「Dify」という“新たな社員”と、リコーが描く人間中心DXの実装モデルを見ていく。
■リコー山下会長がAIを「仲間」と呼ぶワケ
リコーのDXを象徴する存在が、ノーコードAIプラットフォーム「Dify」である。山下会長は、このツールを単なるシステムではなく“新たな社員”と呼び、「Difyはリコーの新しい仲間です。AIを導入することが目的ではなく、社員がAIと共に働くことが目的なのです」と言う。
この言葉に、リコーのDX思想が凝縮されている。同社の変革は“AIを使う会社”ではなく、“AIと共に働く会社”への挑戦である。
リコーは2024年11月、米LangGenius社と連携し、Difyを活用した社員による生成AIアプリ開発を正式に開始した。第一弾はリコーデジタルサービスBUのマーケットインテリジェンス支援業務。現場社員が自ら業務プロセスを可視化・自動化し、蓄積したノウハウをAIエバンジェリストを通じて社外にも展開している(リコー 2024年11月28日付ニュースリリース)。
■だから「日本トップクラス」のAI浸透率に
Difyの最大の特徴は、プログラミング知識がなくてもAIアプリを構築できることにある。経理担当者が自動経費精算アプリを作り、営業担当者が顧客提案AIを作る。専門知識がなくても、社員一人ひとりが“自分専用のAI”を開発し、日常業務を再構築できる。
この仕組みが意味するのは、DXの主語が現場に戻ったということだ。かつてのDXは、IT部門やコンサルティング部門が主導する“上からの変革”だった。しかしリコーでは、AIが民主化されたことで、現場が主役のボトムアップDXが動き出している。
「AIの民主化」は、社員の自律と創造性を呼び覚ます。業務をただ効率化するのではなく、社員が自分の仕事を“再発明”する。それこそがリコーの目指す“自分でつくる働き方改革”である。
リコー社内では、生成AIやローコード・ノーコードAIの浸透率が日本企業の中でもトップクラスに達している。Difyの活用によって、すでに数百件の社内AIアプリが開発され、複数の業務領域で効果を発揮している。このスピード感は、同社の文化的背景――「お客様のお困りごとに応えたい」というDNAと深く関係している。
ただし、リコーは「何でもやる」のではなく、「何でお客様の課題を解決するのか」を徹底的に見極める。その判断軸が、企業ビジョン「“はたらく”に歓びを」である。
■働く人が「単純作業」から解放されるために
リコーは「未来の“はたらく”」を次のように定義している。
「働く人が単純作業から解放され、人ならではの創造力を発揮し、達成感や充足感を得られる行為になっていてほしい」(リコー 2025年4月23日付コーポレートブログ「AIやデジタルの力で“はたらく”を変革する」)
このビジョンを実現するために、リコーは事業ドメインを再定義した。重点を置くのは、次の2つの領域である(図表2)。
この2つの領域を横断して支えるのが、まさにDifyによるAI共働基盤である。
リコーのAI戦略の真髄は、AIを人間の“代替”ではなく“拡張”と捉えることにある。同社は1990年代からAI研究を進めており、画像認識・自然言語処理・音声認識といった領域で着実に基盤を築いてきた。2023年には自社開発の大規模言語モデル(LLM)を発表し、700億パラメータという大規模でありながらオンプレミス環境でも運用可能なモデルを構築している。
その技術基盤とDifyの柔軟性を組み合わせ、企業ごとに最適化されたプライベートAIを素早く導入できる点が、リコーの競争優位である。FAQ対応、議事録作成、契約書チェック、メール監査、データ分析――AIが“社員の相棒”として並走する世界を実現している。
■Difyはリコーの「第二の創業社員」である
リコーのDify実践が示すのは、単なるテクノロジー導入ではなく、文化の転換である。AIを一部の専門家が扱うのではなく、全社員が日常的に使い、共に成長する。つまり「AIの民主化」とは、企業文化の民主化である。
リコーはAIを“導入”するのではなく、AIを“育てている”。そして社員もまた、AIとの協働を通じて成長している。この双方向の成長こそが、同社が目指す「人間中心DX」の完成形である。
Difyの導入は、DXプロジェクトではなく、経営哲学のアップデートである。AIを単なる道具から“仲間”へと昇華させたリコーは、いま企業とAIの共進化モデルを創り出している。
Difyはリコーの第二の創業社員である。OA時代に「機械にできることは機械に任せ」と唱えたリコーが、半世紀を経てAIに「人と共に働け」と命じた。それは、テクノロジーを“冷たい機械”から“温かい協働者”へ変えた瞬間である。
AIが人の仕事を奪うのではなく、人の歓びを拡張する。リコーが実践するこの逆説的トランスフォーメーションこそ、AI時代の人間中心経営の未来図である。
■「3K」から「3M」へ
リコーはすでに、社内の幅広い業務プロセスにRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)を導入し、デジタルによる業務改革を進めている。しかし、同社の真の強みは自動化の件数ではない。リコーが重視しているのは、“自動化そのものを目的化しない自動化”である。
山下会長はもっとも重要なのが「RPAに魂を入れること」と断言する(UiPath 2023年1月19日付コーポレートブログ)。この一言に、リコーのDX哲学のすべてが凝縮されている。リコーにとってAIやRPAは、人を置き換える存在ではない。人が魂を吹き込み、共に働く“相棒”である。
山下会長がRPA導入に踏み切った背景には、長年の製造現場での経験がある。「UiPath FORWARD 5 Japan」(2022年11月開催)に登壇した氏はこう振り返った。
「私が生産部門でキャリアを積んでいた25年程前にも、社内業務のロボット化の流れがありました。まず“きつい、汚い、危険”という3K業務の撲滅から取り組んだのですが、ここには社員が心を込めて生産活動に携わらないと、その商品はお客様に喜ばれないという信念があったからです」(UiPath 2023年1月19日付コーポレートブログ)
社長就任後、山下氏はこの思想をオフィス領域にも広げた。新たに掲げたのは、「面倒・マンネリ・ミスできない」――3つのMの撲滅である。そうすれば、社員が生き生きと仕事ができる職場を実現できると考えた。
■山下会長が語った「魂を入れる」とは
リコーがUiPathと連携してRPA導入を始めたのは2019年。当初は1000人規模の取り組みだったが、わずか3年で5900人の社員が自らRPAを開発・運用できるようになった。単なる自動化ではない。社員が“考える力”を取り戻すプロセスだった。
山下会長は語る。
「単純に業務を置き換えただけではIT化に過ぎません。“魂を入れる”とは、お客様が喜ぶ姿を想定し、そこから業務プロセスを逆算してよりシンプルに見直すことです。この流れに沿えば、RPAに魂が宿ります」(UiPath 2023年1月19日付コーポレートブログ)
実際、リコーでは自動化によって“社員が輝き、お客様が笑顔になるプロセス”が生まれている。同社の社内では、2016件のRPAに社員の創意が反映され、RPAと社員が共存する企業文化が形成された。
■自動化とは「仕事をなくすこと」ではない
リコーのRPA・AI導入は、単なる技術展開ではない。それは“全員参加型デジタル革命”である。ブログでは、この取り組みを次のように位置づけている。
「RPAやAIツールの導入を、単なる技術的施策ではなく、文化・マインドセット変革を伴う“社内デジタル革命”として推進している」(リコー 2021年11月30日付コーポレートブログ)
つまり、リコーのDXは“テクノロジーの民主化”ではなく、“意識の民主化”でもある。すべての社員が自ら課題を発見し、解決策を設計し、AIに実装する。“現場の知”が“AIの知”に変換され、企業全体が学習する組織へと進化している。
山下会長は、RPA導入初期から一貫して“自動化のための自動化”を否定している。その理由は明快だ。それでは社員の心が置き去りになるからである。
リコーの目的は「社員が生き生きと働く」こと。RPA導入によって単調な業務をなくすことは出発点に過ぎない。最終目的は、「人が魂を込めて仕事に向き合える環境をつくること」である。
自動化とは、仕事をなくすことではなく、働く歓びを取り戻すための再構築である。この思想は、同社のビジョン「“はたらく”に歓びを」に完全に重なる。
■根本にあるのは「日本的テクノロジー観」
リコーのRPAは、単なる効率化の仕組みではない。それは「技術に倫理を吹き込む日本的DX」である。「RPAに魂を入れる」という表現は、テクノロジーを“人の延長”として扱う日本的思想に根ざしている。つまり、AI=機械ではなく、共働者(Co-Worker)なのである。
この哲学が生み出す最大の成果は、現場の自律性と創造性の融合である。自動化が社員の主体性を奪うのではなく、逆に考える力を強化する。社員はRPAを通じて、経営の視点・プロセス改善・顧客満足を同時に学ぶ。テクノロジーの導入が、同時に人材育成の装置にもなっているのだ。
リコーのRPAは、DXの完成形ではない。それは、企業文化の進化を支える“生きたプロセス”である。
“ロボットに魂を入れる”。この言葉は、AI時代のリーダーシップ論としても示唆に富む。AIが社会を変えるのではない。AIに何を託すかを決める人の意志が社会を変えるのだ。
リコーの取り組みは、テクノロジー中心から人間中心への揺り戻しを実現している。自動化から共働化へ。効率から創造へ。そこには、AIを“冷たい機械”ではなく、温かい文化として扱うリコーの魂がある。
AIとは、人間の魂を映す鏡である。リコーはその鏡を通して、働く人の歓びと、企業の未来を同時に磨いている。
■「温故」と「知新」を同時に動かし続ける経営
リコーの変革の本質は、温故知新のトランスフォーメーションである。つまり、「温故=変えない軸」と「知新=変える手段」を同時に動かし続ける経営である。
山下会長が示すその思想は明快だ。技術に人間を合わせるのではなく、人間中心の哲学に技術を従わせる。これが、リコーのDXを貫く中核の思想である。
温故:変えない軸
リコーが創業以来守り続けてきたのは、「三愛精神」――「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」。そしてその精神は、「リコーウェイ」における使命と目指す姿として今日まで息づいている。「“はたらく”に寄り添い、変革を起こし続けることで、人ならではの創造力の発揮を支え、持続可能な未来社会をつくる」。
1977年に同社が提唱したOA思想――「機械にできることは機械に任せ、人はより創造的な仕事を」――も、まさにこの精神の延長線上にある。創業から90年を経ても、“人を中心に、機械は人を支える”という信念は変わらない。
知新:変える手段
この「温故」の軸を支えるために、リコーは革新的なテクノロジーを進化させている。
・ノーコードAI「Dify」による業務の自律化とAIの民主化。

・マルチモーダルLLMで熟練者の知識を形式知化し、社会へ還元。経産省・NEDO「GENIAC」に2期連続採択。

・スタートアップ共創プログラム「TRIBUS(トライバス)」による新規事業創出。
さらにリコーは、AI技術の社会実装を支える倫理的な基盤として「技術倫理憲章」を制定した。第1原則には、こう明記されている――「社会課題解決と人間中心のサービス開発による“はたらく歓び”の提供」。
同憲章では、AIや映像技術が引き起こし得る差別・偏見・格差の助長といったリスクを強く自覚し、開発・運用段階での倫理的リスクを抑制する仕組みを整えている。リコーは、技術を社会に導入する際に“倫理をも実装する”企業なのである。
■共通する「逆説のイノベーション」
ここで再び、ヒット商品のハイエンドコンパクトデジタルカメラ「GR IV」に話を戻そう。
GRシリーズは、最新技術を詰め込みながらも、ユーザーが“技術を感じない”ように設計されたカメラである。高画質・速写性・携帯性という古くからの価値を守りながら、センサー・画像エンジン・レンズを刷新し、「正当進化」を遂げた。リコーの企業経営も同じ構造を持つ(図表3)。
最新AIを導入しながら「人の仕事を取り戻す」。

自動化を進めながら「人の考える時間を増やす」。

効率を高めながら「歓びを生み出す仕事」を重視する。
この“古さの中に新しさを埋め込む逆説的イノベーション”こそ、GRとリコーを貫くDNAである。
■リコーが示した「日本企業の勝ち筋」
リコーの変革を導く山下会長のリーダーシップは、技術導入ではなく“つながりの設計”にある。AIと人、現場と経営、企業と社会をどう再接続し、どのように共進化させるかが、AI時代のリーダーの使命である。
「AIを導入すること自体を目的にしてはならない。重要なのは、AIを通じてどんな新しい価値を生み出せるのか、そして現場の働き方やビジネスプロセスをどう変革できるのか」――それが山下会長が中核に据えている考え方である。
生成AI時代に求められるのは、テクノロジーを率いるリーダーではなく、“人と技術の関係を設計するリーダー”である。
リコーのDXは、技術を競うことではなく、人の創造性を取り戻す挑戦である。AI・RPA・LLMを通じて企業は効率化を超え、“意味の経営”へと進化している。
GR IVが“古さの中に新しさを宿す”ように、リコーもまた創業の哲学をAIで再解釈し、“AIを導入する企業”から“AIで人間を再定義する企業”へと変貌した。
技術が冷たく進化するほど、企業は温かくなければならない。リコーはその逆説を体現し、“人間中心DX”の完成形を世界に示している。
この温故知新の経営思想こそ、AI時代の日本企業が進むべき未来の羅針盤である。

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田中 道昭(たなか・みちあき)

日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント

専門は企業・産業・技術・金融・経済・国際関係等の戦略分析。日米欧の金融機関にも長年勤務。主な著作に『GAFA×BATH』『2025年のデジタル資本主義』など。シカゴ大学MBA。テレビ東京WBSコメンテーター。テレビ朝日ワイドスクランブル月曜レギュラーコメンテーター。公正取引委員会独禁法懇話会メンバーなども兼務している。

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(日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント 田中 道昭)
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