※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。
■恋愛経験豊富で「千人斬り」だと言われた女性
「千人斬り」とは、もともと願掛けや腕試しに千人を刀で斬ることを指したが、転じて俗に千人の異性と関係することをいう。
幕末生まれの歌人、松乃門(まつのと)(または松野門、松の門)三艸子(みさこ)(または三草子)が後者の意味での「千人斬り」を行なったと知ったとき、なぜ歌人が千人斬りを? とまずは不思議に思った。調べてみると芸者でもあって、しかも勝手に芸者を名乗って個人営業をしていたというではないか。一体、そんなことができるのか? というわけで、謎多き松乃門三艸子を深堀りしてみた。
なお、女性の「千人斬り」は「千人悲願」または「千人信心」と言うとの説もあるが、なんだか湿っぽくてピンとこないので「千人斬り」とする。
本名は小川みさ。1832(天保3)年3月3日、下谷数寄屋町(現台東区上野2丁目)で貸金業を営む裕福な家に生まれる。名前は三が三つ並ぶ生年月日に由来するという。
■13歳で富豪と結婚、15歳で離縁、未婚の母に
幼少の頃から容姿がよく「天稟(てんぴん)の美貌月の如(ごと)く輝き、小町娘(こまちむすめ)の誉(ほま)れ町々に聞こえぬ」とは、死後に編まれた『松の門三艸子歌集』の一文。そのせいか、望まれてわずか13歳で幕府御船御用達を営む深川の富豪の辻川長之助に嫁したが、夫の妾に子ができたことに怒って離縁し、1846(弘化3)年、15歳にして実家に戻る。当時、夫が妾を持つことは常識の範囲内ではあったが、みさはがまんしなかった。
その後、丸の内にあった鳥取藩池田家の奥女中として勤めるが妊娠により1年で辞す。子どもの父親は観世流能楽家の山階滝五郎だった。
二人の出会いについて、小川家が山階家のパトロンだった可能性も言われるが、実際のところは不明。1849(嘉永2)年2月、みさは未婚のまま徳次郎を出産。滝五郎の妻に子供がなかったために山階家に引き取られた。その後、徳次郎は能楽家として大成する。
この頃、みさは江戸派最後の歌人と称される井上文雄(号は柯堂)の歌塾に入る。文雄は1800(寛政12)年生まれの医師で国学者で歌人、洒脱で容姿端麗、後に門下の草野御牧と「諷歌新聞」を発行して幕府を批判した咎(とが)で明治初の発禁を受けるなど、侠気(きょうき)な一面もあった。モテる要素しかない。
みさは同い年のもう一人の美貌の弟子、大野定子とで「柯堂門の桜桃」と評され、歌人としても頭角を現した。
■歌人となるが、実家が経済破綻して芸者になる
しかし、1852(嘉永4)年頃、貸金業を営んでいた実家があわただしくなる。
天保の改革で旗本たちの借金が一部棒引きになった影響で凋落し始め、さらに火事に見舞われ、ヤケになった兄と父が道楽にふけった結果、とうとう没落。
そして一家の生活のために突如、芸者として立つことになった。一説にはみさが井上門下から独立しようとしたが、深川の幇間(男性のたいこ持ち)清元駒太夫と関係を持ったことが同門の怒りに触れて破門になったというが、これも真偽はわからない。美貌で才気燥発、負けん気の強いみさは、本人の演出か周りの嫉妬か常に諸説つきまとうのが面白い。
みさは残った金で深川八幡の向かいに居を構え、自前の看板を掲げて小川屋小さん(小三)を名乗った。同時に妹のいろも妓籍に入った。
小さんの名は本名からとったと思われるが、名乗るにあたって同業者からの妨害にも遭ったという。というのも深川八幡に額絵馬を奉納した「額の小さん」(元禄時代にいた湯女(ゆな))が歌舞伎『小さん金五郎』で知られているため、小さんといえば深川というくらい由緒ある名前なのだ。もちろんみさも意識していたであろうが、それにしても自前の看板で名乗るとはなかなか豪胆である。
■気風がよく鉄火肌の深川芸者として有名に
小さんとなってからのみさは、黒髪を解いて鉢巻を締めて馬術や北辰一刀流(剣術、薙刀術)を習う姿が話題となった。元来、深川芸者は洗練されて気風がよく鉄火肌とされる。
日く、1863(文久3)年、深川の料亭にて女中らが震えているので何かと思えば、水戸藩天狗党の4、5人が騒いでいる。大きな盃に酒を入れ、これを飲み干して気に入ったやつに回せと言いながら長い刀を畳に突き刺し「お前らの魂はけだものか人間か」と聞くのでみんな逃げ出した。
みさは「我が魂は大和魂なり」と答えると年長の男が「大和魂を知っているのか」と問うので「敷島の大和こころを人とはば朝日に匂う山ざくら花」と答えた。するとこれから舟を出すから乗れ、乗らなければ命をたたむと脅すので弱みを見せないようついていった。さらに筑波山に連れていくというので「たらちねの親のゆるしし敷島の道より外の道や行くべき」と一句詠んだ。
■幕末、水戸の天狗党とやりあった「武勇伝」
一人の男が「お前の命を俺にくれ」と刀を見せるので国や君主や親のためなら命も惜しくないが、あなたたちのために死んでも何の役にもたたないとして「是という事をもなさで徒にすつる命の惜くも有哉」とまた一句。今度は俺の本を読め、読めないと痛い目を見るぞと漢詩の本を差し出された。読み下すと途端に恐れ入り、今までの無礼を詫びた。そして老人が「大方の人に引かるる若駒はいかにくるしき物にか有らん」と涙を流し、帰りなさいと言ってくれたという。この老人が天狗党の首領、武田耕雲斎と言われている。
この話はみさの直筆で残っているが、1897(明治30)年頃に本人から話を聞いたフランス文学者の吉江喬松によれば、かねがね自分に心を寄せていた武田耕雲斎に舟に連れ出され、刀を抜いて思いを遂げようとされたがみさは一切なびかず、相手も笑い出して酒を酌み交わしたという話に変わっていた(『二人の歌人の思い出』)。刀を突き付けられた際の心持ちについては「こわいというよりも、もっと心がじいんと澄み切ったようだったね」と言ったという。
もう一つの逸話として、耕雲斎が大盃に小判3枚を沈めて差し出したところ、みさは飲み干すと同時に盃と小判を海に捨てたというものもある。どこまでが本当かはわからないが、料亭説も口説かれ説もどちらも又聞きではなく本人の言であることがポイントで、なんとも人を食った話だ。
■土佐藩主の山内容堂にも言い寄られた?
ともあれ、みさの上客には武田耕雲斎をはじめ、美作津山藩主の松平斉民、土佐藩主の山内容堂、播磨龍野藩主の脇坂安宅など錚々(そうそう)たるメンツが並んだ。これもみさの才色兼備と大胆さ、ユニークさの賜物である。ちなみに、山内容堂とも逸話がある。
ある年の5月の節句に大名諸侯の酒宴があった。みさが大丸で仕立てたばかりの緋縮緬の二重の紋付を着ていたところ、山内容堂に「おかしな紋をつけたのう」と指摘された。普段と違う三蓋松の紋をつけていて、これは実は小川家の紋だったのだが、容堂はてっきり好きな男の紋と勘違いしたらしい。
みさはにっこり笑うと「お気に召さずば取り捨てましょう」と鎖を持って来させてそこだけ切り取り、庭の池に吹き飛ばし「思うお方の贈り物ならば、いかに殿の思し召しでもこんなことは、芸者の意地にかけてもいたしませぬ」と啖呵(たんか)を切った。そして着替えを持って来させ、脱いだ着物は女中に「前掛けにでも」とあげたという。
■芸者と歌人のダブルワークを続けていた
売れっ子芸者として妹ともども走り回る間にも、いくつかの歌集に撰歌されるなど歌人としての地位も保っていたが、1866(慶応2)年、芝神明(現港区芝大門1丁目)にできた芸妓屋の草分け「江沢屋」の最初の抱え芸者になった。ここで小川屋の看板は下げた可能性がある。このときすでに35歳、芸者としては年配である。これもそう長い間ではなく、数年後には芸者を上がり歌人に戻ることを決意。髷を落として切り下げ髪となり、松乃門三艸子という号で再出発した。
1869(明治2)年、深川の高級料亭「平清」の隣り、庭に船着場があって離れ座敷がいくつもある家を新築して歌塾とし、部屋は待合代わりの遊び場として貸し出した。みさは師匠兼女将で、妹のいろは接待を手伝った。粋人の絶好の隠れ家として全盛を誇ったという。つくづく商才に長けた女性である。
ここでも例の幇間の駒太夫が手伝っていたが、常連客とみさの交際に腹を立てた。
■なぜ千人の男と関係したという話に?
1910(明治43)年頃には築地二丁目の弟子のところに寄寓し、大正に入ると妹いろ(荻野八重桐と名乗って踊の師匠をしていた)のもとに身を寄せたが中風で身体が不自由になり、1914(大正3)年8月、脳溢血で亡くなった。83歳だった。
ところで「千人斬り」の話はどうなったかとお思いの向きも多いだろう。今までさまざまな男性の名が上がったが、とても千人には及ばない。しかし噂は生前から文芸界では囁かれていたらしい。
少なくとも1893(明治26)年、樋口一葉は英文学者の平田禿木からみさの噂を聞いて「驚きたること、なかなかつきがたし」と日記に書いている。禿木は15歳の頃にみさに国文学を習ったが、稽古が終わると酒が出たり、一門の会で水野忠敬がみさのお酌に酔っ払っているのを見て若者特有の潔癖からか非常に嫌悪した。一葉に話した際には「千人斬り」の話題も出たと思われる。
■明治時代の雑誌に「千人斬り」と書かれたが…
なお、文字になった最初は1905(明治38)年、雑誌『新古文林』の覆面生(中山太郎)の記事「千人信心」。そこにははっきりと発願は1860(万延元)年、結願は1879(明治12)年と記されている。さらに、結願を祝した会では関係者に赤飯を配り、受け取った者は吉野紙を答礼として返したともある。記事が出たとき、みさはまだ存命中。もし嘘だったら名誉毀損ものである。しかし彼女は何の反応もしなかった。
……ということは本当なのだろうか?
この話、小沢信男は『悲願千人斬の女』のなかでこう推理する。
■77歳でも17歳のつもり、83歳まで生きた
「千人信心」の記事にある最後の男、夜雪庵金羅が言い出したのではないだろうか、と。夜雪庵金羅、本名近藤栄治は東京の人気俳諧人の一人で「俳句」という語を作ったとも言われる。句の品は高くなく、社交的でお調子者だった。結願したとされた1879(明治12)年はみさが芸者を辞めて髷(まげ)を落とした年に当たる。
つまりここでみさが金羅に別れを告げて男断ちを宣言し、それを聞いた金羅が、だったら千人斬りを成就したといってお祝いをしようじゃないかと提案したのではないか。千は古来から「たくさん」の意味があるし、千人針を見てもわかるように縁起を担ぐ数字である。「小さん姐さんこのかたご昵懇の殿方が、かれこれ両手の指ほどいらしたぐらいは天下周知さ。その十の字へ、最後の私めをチョンとのせれば、ほら千の字じゃないですか」と金羅が言ったとか言わなかったとか、そこからみさの門出を祝う会があって千人悲願成就が宣言され、一同盛り上がって赤飯を下げて解散したのではないか。この洒落が、いつの間にか本当のことになったのではないかと小沢信男は書く。
みさの侠気と粋を思えばありそうな話である。
なにしろ、76歳のみさを訪問した記者に「妾は年を老るということは大嫌いです、来年は七十七の祝い年に当たります、そんな年寄りじみたことは嫌ですから、若(も)し祝うとすれば十七の祝いとでも名を付けましょうと大笑されき」(『流行』)というから、数なんぞ洒落でいいというみさの遊び心を物語る挿話である。
それにしても、フリーランスの歌人と芸者を兼ねて大物たちと渡り合い、さまざまな逸話を残したみさとその時代は、隔世の感を通り越してまるで異世界の話のようである。
けれどもその句は不思議と現代にも響く。
辞世「言の葉のしけみか中をわ気くていまはま事の月を見るかな」
(言の葉の茂みが(の)中を分け分けて今は誠の月を見るかな)
三艸子 七十四
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平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。
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(文筆家 平山 亜佐子)

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