外国人が多く暮らし訪れる場所を有志が「パトロール」などと称して排斥する活動が各地に広がりつつある。彼らの行動の源泉は何か。
評論家の真鍋厚さんは「生きづらい世の中の『犯人探し』をすることで、自分たちが『不要な人間』でないと認識して安心感を得ている」という――。
※本稿は、真鍋厚『令和ひとりカルト最前線』(現代書館)の一部を再編集したものです。
■人間が持つ「不要とされることの不安」
「古いバージョンになること」「無価値のレッテルを貼られること」「廃棄されること」への恐れがブラックホールのごとく渦巻いている。「誰かのお荷物になっていないか?」「役立たずと思われていないか?」「すでにリストラ候補に入っているのではないか?」……。
これをシンプルに「〈不要とされる〉という不安」と呼んだのは、社会学者のリチャード・セネットである(『不安な経済/漂流する個人――新しい資本主義の労働・消費文化』森田典正訳、大月書店)。
「要するに、〈不要〉という物理的不安の出現とともに、不安な文化的ドラマの幕があいたのだ。他者の眼前で自分を有益にして、かつ、価値ある人物に見せるにはどうしたらいいか」(同前)。
経済のグローバル化によって雇用や賃金が不安定化する中で、労働者にはこれまで以上に恒常的なフレキシビリティ(柔軟性)と学習意欲が求められ、急速な社会変動に伴うでたらめな配置転換と異業種への移行圧力に耐えなければならない。これは過去の言い方にならえば、「潰しが効く」と「自己研鑽」の必須化だ。
そんなにっちもさっちもいかない悪夢から逃れようともがく人々は、高い業績を維持し続けるハイパフォーマーや、副業・起業で高収入を稼ぐ成功者になれなくとも、「市場から必要とされる人材」として確実に残ることを願い、少しでも自身の生産性を向上させようと躍起になる。
■社会から「賞味期限切れ扱い」されることの恐怖
「若い魅力的な女性」というSNS上の虚構人格で恋愛することに熱中し過ぎるあまり、自己を見失ってしまう50代女性の悲劇を描いた映画『私の知らないわたしの素顔』(2019年、フランス/ベルギー、監督:サフィ・ネブー)は、「〈不要とされる〉という不安」が作り出す自尊心の真空地帯を暴いている。
主人公が精神科医に吐露する「怖いのは死じゃない。
見捨てられること」は、個人化された社会において「廃棄扱い」されることの恐怖を見事に表現している。「われわれは皆、遅かれ早かれ非生産的となり、〈不要〉の烙印をおされることになる」(前掲書)……労働市場だけでなく恋愛市場においても食品と同じく消費期限切れが待ち構えているのである。
■人生で「承認」が得にくくなっている
そのような隘路に陥ってしまわないためには、市場とは別の領域が必要になる。しかしこれが簡単な話ではない。わたしたちが生産性という言葉にやきもきするのは、変化への適応を声高に叫ぶ国や企業が、実質的に個人にその重責を押し付けていることへの苛立ちはもちろんだが、生産性といった相対的なもの以外での承認が人生において得にくくなっているからではないのか。
とはいえ、すべてのコミュニケーションの市場化へと突き進む前代未聞の状況下において、自尊心の欠乏をインスタントに解決してくれる救世主のような存在というのは、「〈不要とされる〉という不安」から離脱したいと思う人々をカモにした巧妙な商売かもしれないのである。ブラック企業然り、自己啓発ビジネス然り……。
■よい人間関係は幸せを運んでくる
精神科医のロバート・ウォールディンガーと心理学者のマーク・シュルツは、ハーバード成人発達研究以外の多様な研究成果を踏まえた上で、「よい人間関係を育むほど、人生の浮き沈みを切り抜け、幸せになれる確率も高まる」「他者との交流の頻度と質こそ、幸福の二大予測因子である」と主張している(『グッド・ライフ――幸せになるのに、遅すぎることはない』児島修訳、辰巳出版)。
ここでも強く打ち出されるのは、コントロールの可能性である。人間関係を意識的にマネジメントしていくことが推奨されている。「強い信頼の絆を築けたら、それで一安心というわけではない。なぜなら、どんなにすばらしい関係も必ず衰えるからだ。
樹木が水を必要とするように、親密な関係は生き物であり、人生の季節がめぐるなかで放っておいても育つものではない。注意を向け、栄養を与える必要がある」(同前)。
とりわけ「ソーシャル・フィットネス(人間関係の健全度)」という考え方は、見事にその特徴を言語化している。人間関係も筋肉と同様、何もしなければ弱くなっていく。だから、エクササイズが必要だという趣旨である。いうまでもなく、ウォールディンガーらの知見は、昨今の孤独・孤立をめぐる社会課題の有効な処方となり得るだろう。
■人間関係はわずらわしさもある
しかし、その半面、心の技術的な問題としてのみ捉えることを助長する恐れもある。実際、関係性を資産ポートフォリオのような投資対象として再把握し、目的や計画などに沿って運用することを勧める言説が少なくない。「人間関係への投資」――損得勘定に基づき有用な付き合いにお金と時間をかける――を積極的に行い、幸福度の向上というリターンを得るというわけである。
当然ながら、人間関係はわたしたちに実り多き人生をもたらすとともに、精神衛生上の必須の栄養素でもあり、尊厳の最後の砦にもなり得るが、同時に人間関係は煩雑なものであり、さまざまなリスクに満ち、心労も多く、いいとこ取りはできない。
■自尊心が瀕死状態になった人が飛びつく「排外主義」
「〈不要とされる〉という不安」における「不要とされる」人間の反対は、「必要とされる」「役に立つ」「有用な」人間である。
このような冷徹な生産性という尺度に翻弄されることによって、人々はますます市場的な価値基準に依存的になり、社会的な孤立はいよいよ深刻なものとなっていく。

繰り返しになるが、承認のカオスを脱するには家族や友人関係といった生産性という尺度から縁遠い何らかの関係性やネットワークが不可欠であり、それが最低限の尊厳を保証してくれるのである。だが、社会の全面的な市場化は、家族や友人関係といったものにまでコスパ意識を浸透させ、互いを利用価値のみで判断する心性が広がりつつある。
瀕死の状態にある自尊心は、どのような手を使ってでも巻き返しを図ろうとする。最も簡単なもののうちの一つは、排外主義的な言動による回復である。しかも、それは同じように瀕死の人々との新たな結び付きをもたらしてくれる。
クルド人問題で揺れる埼玉県川口市で活動が始まった自警団はその最新のバージョンといえるだろう。
その自警団の発起人は、「外国人に圧迫されている日本人が、わたくしが本当にずっと昔からですね、すごく嫌な気持ちをずっと抱いて生きておりまして、それに関して日本人の復権を願って活動しておるような感じ」「今のところ日本人を排除するような、ただ入れるだけで排除されるような状態になってきている」などと述べ、外国人との共生は不可能だと断言した。
そして、「日本は2000年以上続いている国家ですから、それはずっと日本人でやってきたところですから、外国人を入れる必要は本当はない」と付け加えた。
■「犯人」を外国人に押し付け「不要とされる不安」から解放される
グローバル化によって海外から安い労働力が越境し、人口減少と経済的な困難にあえぐ社会の穴埋めとなり、もはや後戻りはできない段階にある。だが、多くの人々は自己の尊厳がままならない中で、濃霧のように立ち込める不確性と、複雑怪奇な市場システムにさらされ、不安な日々を送らざるを得ず、このような状況から少しでも逃れようと、犯人探しに向かう衝動を抑えられない。
いわゆる「排外しぐさ」は、実際に活動の主体としての感覚を取り戻し、不安を呼び起こす対象を排除する姿勢を明確にすることによって、受動性に甘んじなければならない無力感から脱することができ、「必要とされる」「役に立つ」「有用な」人間と思えるようになるのだ。つまり「〈不要とされる〉という不安」から解放されるのである。
仲間意識が醸成されることによる社会的孤立の緩和も想像以上に大きい。
2000年代初頭、社会学者の芹沢一也は、「犯罪者を怖がる一方で、犯罪者をコミュニティ活性化のための道具として消費する社会」を「ホラーハウス社会」と評した(『ホラーハウス社会――法を犯した「少年」と「異常者」たち』講談社)。当時は、キレる少年や精神障がい者による犯罪が不安の対象であり、外国人のことではなかったが、芹沢の卓見は、以下の文章に凝縮されている。
「ここにあるのは間違いなく、サークル活動がもたらす快楽だ。気の合う仲間たちが集い交番脇で待ち合わせて、警察から情報を受け取り地域をパトロールする。警察的な眼差しをもって地域を歩く快楽が、地域の役に立っているという充足感と交じり合う。しかも、同じ志をもつものたちの輪が地域のなかで、ときには地域を越えて広がっていくのだ」
「治安管理は子どもから大人まで、全世代を一体化させてくれる、防犯という名のエンターテインメントだ。それは、街の安全というスローガンのもとにかたちづくられる、『新しいコミュニティ』のあり方にほかならない。治安への意志が住民たちを結束させ、しかもそこで行われる活動が日々の『生きがい』という、何にも替え難い快楽を与えているのだ」(同前)……。
■「日本人」というカテゴリーでしか固まれないほど尊厳が傷ついている
現在起こっているのは、地域社会すら崩壊した状況下において、浮遊する個人たちが勝手連的に集合し、「日本人」という抽象度の高いカテゴリーを守ろうとする営みである。それほどまでに人々は追い詰められているといえる。
これは見方を変えれば、「よそ者を特定し、それを社会から排除することによって、自らが社会から排除されることを予防する」緊急の措置なのだ。

先の自警団が「3世代前まで日本人」という団員の条件を課しているのは注目すべきことであり、もはやそのようなカテゴリーによる線引きでしか自己を救済できない尊厳の欠乏ぶりを表してしまっている。

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真鍋 厚(まなべ・あつし)

評論家、著述家

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。

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(評論家、著述家 真鍋 厚)
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