※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。
■お妃候補にもなった伯爵令嬢
その美貌から「ドーリー」とよばれた千代は、本当に人形だったのだろうか。
薩摩千代は1907(明治40)年、伯爵の山田家に生まれた。
父の英夫は陸軍軍人および貴族院伯爵議員だが婿養子である。英夫の父、つまり千代の父方の祖父は元会津藩主松平容保(かたもり)、新撰組を起用したことでも有名な人物。千代の母方の祖父である山田顕義は元長州藩士、松下村塾に学び戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争などで功をあげて陸軍中将となった後に伯爵となり、司法大臣をつとめ日本法律学校(現日本大学)を創立している。松平家、山田家の家柄の良さ、評判の良さは、千代が秩父宮の妃殿下候補になったことからも想像がつく。
家風は厳格で、千代は華族の令嬢らしく女子学習院に通い、ピアノ、琴を嗜(たしな)み、着るものも親の勧めに従っていた。
丸顔で目鼻立ちのくっきりした顔立ちで、学校では「ギリシャ美人」と呼ばれていた。
■夫・薩摩治郎八の「太すぎる」実家
千代の未来の夫、薩摩治郎八は1901(明治34)年生まれ、祖父は貧農から木綿問屋となり、巨万の富を築いた「木綿王」である。治郎八が生まれた神田駿河台の家は桂離宮を模したといわれ、1町(約100メートル)もの石垣が続く大邸宅で、海外の要人もやってくる民間の迎賓館のような存在で、西洋館を増築したといっては大舞踏会を開催するなど華々しい家庭だった。
2代目である治郎八の父は事業よりも文化事業や趣味に熱心で、祖父が亡くなると人力車がビュイックに代わり、英国風花壇や温室が登場、大磯、箱根、京都に別荘を造るなど、生産より消費の家風に変化していく。
治郎八は開成中学、高千穂中学に行くも中退。大磯の別荘に籠って文学に傾倒し、1920(大正9)年、妹ともに念願のイギリス遊学に発った。
ロンドンでは「アラビアのロレンス」のモデルとなったT・E・ロレンスやコナン・ドイルに会い、ディアギレフやイサドラ・ダンカンのダンスを観るなど舞台芸術に開眼。1923(大正12)年4月にはパリに移住して藤田嗣治やモーリス・ラヴェルらと親交を深めた。
しかし5カ月後に関東大震災が起こり、薩摩家は打撃を受ける。家屋8カ所と本所の土地が全焼、損害は670万円(現在の約40億円)にのぼった。しかし人的被害はなく倉庫なども助かった。治郎八は父から倹約を言い渡す手紙を受け取ったがすぐには帰らず、フランス人女性との恋も経験した後、1925(大正14)年2月に帰国した。
この年の6月、治郎八の結婚相手として浮上した千代の身元調査が行われた。
■ロンドン、パリで遊学した治郎八と結婚
調査書には「円満率直なるだけに事物に対する考察力批判力等は勝れざる方にて諸事鷹揚(しょじおうよう)の二字に帰着すべし」と記されていた。結婚に積極的だったのは薩摩家で、山田家は難色を示していたとも言われるが、この頃は金持ちの商売人と質素な華族の結婚はよくあることだった。
式は翌年に帝国ホテルで行われ、招待客は280名、リストには華族に並んでフランス大使館の面々や堀口大學などの名前もあった。
前年に大震災で焼けた駿河台の家の跡地に、治郎八はパリ風の凝ったVilla mon Caprice(気まぐれ荘)と名付けた家を建て、新婚夫婦はそこに住まった(戦後、偶然獅子文六が住むことになり『但馬太郎治伝』が書かれる契機の一つとなる)。
新妻の千代には西洋式マナーや洋装、化粧、フランス語、フランス文学や芸術の勉強が待っていた。この後、パリに移住して社交界にデビューする計画があったためだ。純和風に育った千代にとっては未知の世界だっただろうが、生来の真面目さでこなしていった。夫妻は1926(大正15)年9月16日に神戸からパリに向けて出発した。
■渡欧しニースの美人コンクールで優勝
このとき治郎八には重大な使命があった。
パリの大学都市構想に基づき、日本政府が在仏日本人留学生のための舎宅「日本館」建設を薩摩家に依頼、治郎八は現地で視察、調印などを行うことになっていたのだ。
パリに着いた千代は早速長い髪をボブに切り、運転免許を取得、藤田嗣治に勧められて洋画を始めた。
夫妻はパリ16区の南側のアパルトマンに引越してルイ15世様式の家具を入れた。そして車を3台変えた後にクライスラーを買った。
ボディを燻(いぶ)し銀に塗り、金はすべて純金メッキ、屋根と泥除けと内装は紫という代物で、カンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場した際には銀鼠の地に金糸で揚羽蝶の定紋を付けた制服を着たイギリス人運転手を配置し、千代にはリュー・ド・ラペのミランドで誂えた薄紫に銀色のビロードのテーラードスーツを着せた。
さらに千代はニースの美人コンクールでも優勝し、Minerva(ミネルヴァ)、Excelsior Mode(エクセルシオール・モード)、L’art Vivant(ラール・ヴィヴァン)などのファッション誌を飾った。一躍パリの最先端女性に躍り出た千代という作品に治郎八は大満足だった。
■日本のファーストレディとして活動
1927(昭和2)年、パリ日本館が評議委員会で承認されると父と治郎八はフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受けた。
そして10月12日、敷地面積1200平方メートル、地上7階、地下1階、60室、藤田嗣治の絵画が2点飾られた日本館が完成した。
開館式では治郎八はランバンの名カッター、エリクソンが仕立てた紫紺の燕尾服(黒ではないところが新しく、以後、紫紺の燕尾服が流行した)、千代はポール・ポワレの白と黒のイブニングドレス、ポワレやシャネルを担当するアンドレ・ベルージアに特注した10カラットのダイアモンドの付いた靴、ダイアとエメラルドのアクセサリーといういでたちで登場。フランス大統領ガストン・ドゥメルグのほか前大統領、前々大統領も出席した国家レベルの式となった。
夜の晩餐会はオテル・リッツで開かれ、名士300人が招かれた。そこにはロスチャイルド家から3人、ポリニャック大公妃の名も見えたという。料理はエドワード七世歓迎晩餐会の「フランスの威信をかけたメニュー」(『薩摩治郎八パリ日本館こそわがいのち』)にオマージュを捧げたものであった。いつしか治郎八は「バロン・サツマ」と呼ばれるようになる。
■パリの社交界の華、藤田嗣治とも親密に
さて、夫婦として社交の場に駆り出される以外の時間、千代は何をしていたのだろう。
実は治郎八、フランス人女性たちと浮名を流して家に帰らない日も多かったが、千代は上流夫人の常として一向に気にしなかった。美しく金持ちで有名人とあれば千代に言い寄る者も多かっただろうが、一顧だにせず(女性のシャンソン歌手シュジ-・ソリドールとカフェテラスで頰ずりしているところを見かけられたりはしたが)。なにしろあまりに性格がいいので「愚美人草」と陰口を言われたほどの千代のこと、彼女が夢中になっていたのは酒、ダンス、絵画だった。
パリでは一日中酒を飲む習慣があって、下戸だった千代もたちまち酒豪になった。ダンスは治郎八がやらないので、藤田嗣治とよく二人で踊りに行き、帰りに「ドーちゃんはお子様だからね」とおもちゃのオウムを買ってもらったこともあった。ドーちゃんとは「ドーリー」の略で藤田による千代のあだ名である。
絵画は、モンパルナス大通りのアパルトマンをアトリエに借り(上の階には佐伯祐三がいた)、藤田から紹介されたピエール・ラプラードを師匠に励んだ。モンマルトルのキャバレー「ムーラン・ルージュ」の舞台裏にスケッチにも行った。絵には「ドリー・サツマ・チヨ」とサインした。傍ら、藤田をはじめキース・ヴァン・ドンゲン、高野三三男らの絵のモデルにもなった。
■薩摩家の金を使ってセレブ生活
夫婦はギリシャやベルギー、イタリア、イギリスに旅行に行った。
薄物をまとって夜な夜な遊ぶ千代は風邪をひきやすく、そのたびにニースやドーヴィルに保養に行っていたが、1930(昭和5)年8月頃、風邪を拗(こじ)らせて肺尖カタルになり、アルプス地方ムジェーヴの高級サナトリウムで療養することとなった。その後、少し持ち直したものの翌年再びムジェーヴにて療養することとなった。
その後、少し持ち直したものの翌年再びムジェーヴにて療養。1935(昭和10)年には虫垂炎から腹膜炎を起こしてまたもや病床の人となった。治郎八はときどき見舞いに訪れたが、プラハ市立美術館に日本美術部門ができるといえば講演を行い、20点の作品を寄贈するなど飛び回っていた。
10月末、薩摩夫妻は日本に戻った。
その理由は、実家の薩摩商店がついに閉店となったためだ。とはいえ、多少の財産は手放したものの生活が突然変わるわけではなかった。
■夫婦とも体を壊し帰国、別居状態に
千代を日本に残して治郎八は再びパリに向かい、途中で東南アジアに寄る。タイ南部、マレーシア国境近くに金鉱があると聞いたためで、あくまで男のロマンを追い続ける人である。
すぐにパリに戻るつもりだった治郎八だが、日中戦争の勃発で戻れなくなった。パリの日本館が内装補修を名目に閉館し、再開の目処がたたなかったことに気が気ではなかったが(そして表向きにはそう言っていたが)、どうも彼が「フランス妻」と呼ぶ女性の存在があったようだ。そんな治郎八に、千代は手紙を送っている。
「PAN(治郎八)がそれほどまでに決心してるなら、そうして死んでも本望なら決して私からはとやこう云う事はありません。国際市民たる貴方に、一家や夫婦の小さな感情は問題ではないからあくまで心ゆくまで自分の仕事をするように。いつ万一ムク(千代)の将来にどんな事が来ても、PANに万一の事があっても覚悟しています。(中略)PAN君の為にいさぎよく別れてもよろしい。別れたとして、もともと我々夫婦は変った夫婦、今までのようにBONAMI(良い友人)でいられるでしょう」。
■「夫のためなら潔く別れても…」
危険を顧みず一刻も早くフランスに戻りたい治郎八の気持ちを離婚や自分の死よりも尊重すると書いているのだ。上流社会の人の価値観は不思議である。
千代と治郎八は恋人、夫婦というよりはともにさまざまな経験をした友人、同志のような存在なのだろう。PAN、ムクはぬいぐるみの名前で、薩摩家にはぬいぐるみの名前を自分のものにする習慣があった。千代はちゃんとその流儀にも染まっている。ドロドロした感情のもつれなどは持ち込まない、これもひとつの夫婦のあり方なのだろう。しかし誰よりもモダンな生活をしていた二人が、ぬいぐるみの名で呼び合っているのはなんだか奇妙な印象を受ける。
1937(昭和12)年11月、千代は富士見高原療養所に5カ月入院する。療養所では俳句の会と写真の会に熱中し、千代の美しさに会員が増えたともいわれた。
退院後は富士見高原に家を借りた後、その近くの諏訪郡落合村の170平方メートルの土地に2階建てのフランス風の山小屋を建て、絵画や家具を持ち込んで3人の使用人と移り住んだ。その金を出したのは千代の実家だった。
■独りで苦労したが誠実に生きた
戦争が始まると村の勤労奉仕に参加したりしていたが、頼りにしていた同居の看護婦が亡くなり、村人の態度も一変、飼っていた愛犬を殺して食用にすると脅されたこともあったという。そんな時でも誰をも恨まず、宗教に頼ることもなかったというからあっぱれである。千代を見舞った同級生は獅子文六に、富士見での生活をそれなりに楽しんでいたが「おやつれがひどくて、あの方独特のお顔のハデさが、すっかり消えておしまいになった」と話していた。また、治郎八がどこにいるか千代は知らず「あまり知りたいご様子でもなかったわ」とのこと(『但馬太郎治伝』)。
過去は過去として、目の前の暮らしに向き合っていたのだろう。
1949(昭和24)年3月14日、千代は42歳で死去した。
治郎八はといえば、1939(昭和14)年12月という第二次世界大戦開戦ギリギリの時期にやっと渡仏し、戦中戦後の12年もの間、フランスにいた。健康を害し、カンヌやコート・ダジュールの小さなホテルで暮らしていたというが、どのように糊口をしのいでいたかはわからない。千代の死の際に薩摩家の家扶(かふ)が連絡したにもかかわらず帰国しなかったため、山田家は相当怒っていたという。
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平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。
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(文筆家 平山 亜佐子)

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