食品事業出身者が代々社長を務めてきた味の素の15代目社長に、初めて技術職出身の中村茂雄氏(57)が就任した。筋金入りの「技術屋社長」は会社の舵取りをどう進めていくのか。
中村社長に聞いた――。
■初の食品事業での仕事はブラジル法人の立て直し
――中村社長は就任前、ブラジル味の素社の社長として冷凍ギョーザの現地販売に尽力されていました。その背景や経緯をお聞かせください。
私は2022年4月にブラジル味の素社の社長を拝命しましたが、実はそれまで食品事業も海外赴任もまったく経験したことがありませんでした。入社時には食品の開発を希望したものの、配属されたのは電子材料の部署。最初はスカ引いたなと思ったものです(笑)。
しかし、すぐに大きなやりがいを感じるようになり、以来30年もの間、ずっと電子材料の開発に携わってきました。電子材料は技術の進歩も競争も非常に激しい分野です。そこで、健全な危機感を持って新しいことに高速で挑戦していた取り組みを「高速開発システム」という独自の仕組みに形式知化したところ、それをブラジルでもやってきてくれということで声がかかりました。
当時、ブラジル味の素の売り上げはインフレ率と同等の伸びしか見せておらず、事業利益はほぼ横ばい状態。実質的な「減益」という見方もでき、本社は大きな危機感を持っていました。これを成長軌道に乗せることが私のミッションでした。

■半年で「冷凍ギョーザ」のテストマーケティングを実施
そのためには、何か新しい商品を高速で出す必要がある。そう考えて目をつけたのが、すでに日本で成功を収めていた冷凍ギョーザです。
ブラジル味の素は過去にブラジルへの冷凍食品事業の参入を検討したことがありました。ところが、小売店の中には夜中に冷凍庫のコンセントを抜いてしまう人がいたり、停電が多く発生したりと、あまり冷凍食品との相性が良くなく、実現しなかった経緯があります。でも、現在のブラジルは都市部を中心に非常に近代的に発展しており、今ならいけると思いました。
発案した当初、現地のメンバーはあまり乗り気ではなかったのですが、日本の工場に連れて行ってギョーザを食べてもらったら、「これはおいしい、ぜひブラジルでもやりたい」と盛り上がってくれましてね。
その後はとてもスピーディーに事が進み、構想から6カ月程度でテストマーケティングまでこぎ着けることができました。この成功の要因は、皆がやる気を持って取り組んでくれたこと、そして電子材料事業で培った高速開発システムが、この食品事業でも効果を発揮したからだと思っています。
■2年ごとに激しい競争が訪れる世界
――高速開発システムとはどのようなものでしょうか。
電子材料の業界には、半導体回路の集積密度はおよそ2年ごとに倍増するという「ムーアの法則」と呼ばれるものがあります。2年ごとに半導体の性能が進化するため、そこに搭載する電子材料も2年ごとにコンペが行われます。
つまり、今は自社の製品が使われていても、2年後には他社製品に置き換わる可能性がある。
そんな環境にあって、私は技術者として常に危機感を抱いていました。同時に、この分野で勝ち抜いていきたい、どこよりもいいものをつくりたいという挑戦心も大いにかき立てられました。
高速開発システムは、こうした健全な危機感をベースに、2年後に求められそうな製品を今のうちに予測し開発しておこうというものです。それも1つだけでなく3つぐらいを用意して、顧客からフィードバックがあれば即座に対応できるよう準備しておく。これを繰り返すことで採用確率を上げていこうとしたのです。
■「健全な危機感」を全員で共有する
成功の鍵となるのは、顧客ニーズの先読み、複数の解決策の準備、フィードバックに応じた継続的な改善、そして全員が健全な危機感を持つことです。危機感がなければ急ぎませんからね。私は、高速開発システムにおけるこの4つの鍵は電子材料でも食品などの他の分野でも変わらないと考えています。
実際、このシステムをブラジルの冷凍ギョーザ事業に当てはめたところ、非常にうまくいきました。皆が共通の危機感や意識を持ったことで一人ひとりが速く動くようになり、全体のプロセスもスピーディーに進んだのです。
何よりよかったのは、皆が自発的に挑戦してくれるようになったこと。おかげで冷凍ギョーザ事業は順調に伸び、今年は予想以上の販売量となりました。
この事例によって、高速開発システムは電子材料以外の分野でも展開可能だと実証できたと思っています。
■あらゆるPC、サーバーに使われている「味の素のフィルム」
――非食品事業と食品事業の両方を経験された社長として、この2つのバランスをどうしていきたいとお考えですか。
味の素というと一般的には食品のイメージが強いと思いますが、実際には非食品分野の市場でのシェアもかなり高いんですよ。電子材料で言えば、私が開発から携わった「ABF(味の素ビルドアップフィルム)」は、層間絶縁材料として世界中のパソコンやサーバーのほぼ100%に使われています。
コロナ禍でABFが使われているゲーム機の供給不足が起きたときに「原因は味の素じゃないか」というフェイクニュースが流れたことがあったのですが、われわれのABFが話題になったことは嬉しかったですね。
現在、電子材料を含むバイオ&ファインケミカル事業と食品事業の利益比率は1:2であり、前社長はこれを1:1にして両方伸ばしていこうという目標を掲げていました。私もこの方針を引き継ぎつつ、さらには2つの事業の「融合」を強化することで新たな事業領域を生み出していきたいと考えています。
味の素グループが持つさまざまな技術を融合させれば、例えばあまり美味しいイメージを持たれないメディカルフードを美味しく仕上げたり、同じ献立の病院食でも嚥下能力によって肉の柔らかさを変えたりするなど、当社ならではのユニークな製品を生んでいける可能性も広がります。これを先ほどお話しした高速開発システムを使って、スピード感を持って進めていきたいですね。
■食品はマーケティングが命
――高速開発システムを他の領域に展開する上では課題もあるのではと思いますが、いかがでしょうか。
確かに、ブラジルで展開した際には課題も見つかりました。電子材料事業はイノベーションを高速で起こし続けることで成長していけますが、食品は逆に大きな変化が起こりにくい分野です。

多くの人は幼いころから食べ慣れてきたものが好きですし、それほど変化は求めていませんよね。また、日本で開発したものがそのまま世界で売れる電子材料と違って、食品はローカライズしないと売れません。
ですから私は、食品はマーケティングが命だと思っています。例えばブラジルは、レストランで前菜に揚げ物が出るなど、意外にも揚げ物文化が根づいている国でした。試しに地元のバーに揚げギョーザを提案してみるとこれが好評を博し、のちの販路拡大につながったのです。
さらに、コロナ後のブラジルでは1人で食事をする「個食」も増加していました。海外の人は1人で食事をすることがあまりなく、特にブラジルでは日曜に家族で食事をするのがほぼ決まりのようになっています。しかし、若い人の間ではこれを嫌がる傾向が強まっていて、フードコートでは1人で食事をする若者をよく見かけました。
文化や食事形態だけでなく、人口動態やペットの増減といったデータからも先読みできるニーズはたくさんあります。これらを生かして新商品の開発に挑戦していけば、成功確率はもっと上げられると思っています。
■速さは重要、でも挑戦の質は担保しないといけない
当然すべての挑戦が成功するわけではありませんから、回数は多いほどいい。ただ、ブラジルでそう言い続けていたら、やがて挑戦の「質」が低下してきましてね。
早く市場に出したいからとテストマーケティングをせずに発売するなど、きちんと段階を踏まないケースが出てきたのです。
挑戦には速さも数も必要ですが、よく考えないまま無闇に数を打ったって1割も当たりません。高速開発システムとはいえ速いだけではいけない、挑戦の質を上げることが大事なのだと実感した出来事でした。以降は「急ぐけど焦っちゃダメだ」「ちゃんと考えてちゃんと実行しよう」と伝えるようにしています。
――ご自身も技術者時代には挑戦を繰り返し、特許も数多く取得されたと伺いました。今、若い技術者に伝えたいことは何でしょうか。
私は社内では珍しく、40歳近くまでずっと研究を続けていた人間です。この長い年月の間に特許を出願しまくりまして、国ごとに取得した同内容のものも含めると512件の特許を持っています。
なぜそれほど出願したかというと、これまた危機感からです。変化も競争も激しい業界では、独占的に利用できる発明があればあるほど自由度の高い設計を続けられます。ですから、次の世代のためにいい特許をたくさん残してあげたいと思ったのです。
加えて、電子材料事業はそのうち他社に売られるんじゃないかという危機感もありました。
電子材料事業はのちに会社のコア事業に選ばれましたが、当時は傍流の非食品事業の中でも異端と言っていいぐらいの存在でしたから。
■研究者にとって特許は誇りでありモチベーションの源泉
そこで私は、売却の際に相手から「中村がついてこないなら半額だ」と言われるような人間になろう、そうすれば職を失わずに済むだろうと考えました。そのためには、自らの研究者としての価値や雇用能力を上げておかなければいけない。それも特許を取りまくった理由ですね。
中でも思い出深い特許は、ABF関連のものです。つい先日、わざわざ特許庁に頼んで証書を送ってもらいましてね。そんな人はあまりいないのですが、私にとってはとても思い入れのある特許なので、紙で持っておきたいなと思った次第です。
若い研究者にも、いいものができたらちゃんと特許を取ってほしいと思います。今は会社から報酬が出ますし、研究者にとって特許は誇りでありモチベーションの源泉。そんな思いから、社長になった今もあちこちの部署で「たくさん出願してぜひ私の取得数を抜いてくれ」と伝え続けています。
特許取得を目指すようになれば、その過程で、自らのアイデアは新しいものなのかと自問自答したり、人とは違う考え方をしたりといった癖が身につきます。現代の企業は、何事にも「Think outside the box(=既成の枠にとらわれず考える)」の姿勢で取り組まないと生き残っていけません。その意味でも、特許を取ろうと呼びかけるのは意義あるアプローチだと思っています。
■心配性の楽観主義者
――初の技術畑出身の社長として、今後ご自身の強みをどう生かしていきたいですか。
私は、経営で大事にしたいと思っていることが2つあります。1つは「誠実に商売する」、もう1つはやはり自分は技術屋なので「データドリブン」です。
直感を否定する気はありませんが、私はフレームワーク的な考え方のほうが好きで、データをしっかり分析してしっかり準備したいタイプ。性格的には「心配性の楽観主義者」だと思っていまして、心配だから準備して、その上で本番には「これだけ準備したんだから失敗しないだろう」と自信を持って臨めるようにしています。準備によって心配を楽観に変えるのです。
実験と同じですね。実験というのは大半が失敗するものなので、私はラボの皆にずっと「Fail fast, learn faster(速く失敗し、速く学べ)」と言い続けていました。とはいえ、失敗の質が悪くてはいけません。ミステイクはダメだがちゃんと考え準備した上で失敗するのはいい、失敗の「質」を高めていこう――。部下にもよくそういう話をしたものです。
■データを分析し、最も成功率の高い方法を選んでいく
経営の質を上げる上でも、データドリブンは重要だと思っています。私は昔から数学の問題を解くのが好きなのですが、あれは正解率を上げようと思ったら公式を暗記して反復練習すればいい。経営も、過去の事例やデータを学んでそこから答えを導き出せば、質も成功率も上げられるはずだと思っています。
ただし、数学には必ず正解がありますが、経営にはありません。しかも、自分の解答が正しかったかどうかは何年か経たないとわからない。そこが経営の難しいところです。
何を基に、どのようにして経営判断を下せば正解に近づけるのか。人によってさまざまな答えがあるでしょうが、私は過去のデータをしっかり分析し、かつ現在のデータから未来を先読みして、出てきた選択肢の中からいちばん成功率の高い方法を選んでいくつもりです。思えばこれも、技術屋らしい考え方なのかもしれませんね。

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中村 茂雄(なかむら・しげお)

味の素社長

1967年生まれ。兵庫県出身。東京工業大学大学院総合理工学研究科化学環境工学(修士)修了後、92年に味の素入社。2019年に味の素ファインテクノ社長、22年に執行役常務、ブラジル味の素社長などを経て25年2月から代表執行役社長、最高経営責任者。趣味はゴルフ。

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(味の素社長 中村 茂雄 構成=辻村洋子)
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