■吉沢亮演じる錦織友一のモデルとは
NHK連続テレビ小説「ばけばけ」では、松江中学校の英語教師として松江にやってきたレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)の片腕として、英語教師の錦織友一(吉沢亮)がキーパーソンのひとりになる。
この錦織、第4週「フタリ、クラス、シマスカ?」(10月20日~24日放送)から登場している。婿に迎えた銀二郎(寛一郎)が、松野家がかかえる借金と、祖父の勘右衛門(小日向文世)の厳格さに耐えきれずに出奔してしまうと、トキ(髙石あかり)は銀二郎がいるという東京の本郷まで、彼を連れ戻しにはるばる出かけた。
すると、銀二郎が居候している下宿に、松江の出身だという錦織がいた。帝国大学の門前に倒れていた銀二郎を助け、居候させているのだという。トキが東京に着いた翌日、銀二郎は中学校の教師の資格を得るための検定試験を受けに行った。錦織は松江で有名な秀才だったが、家が貧しく体も弱くて中学を中退せざるをえず、一時は松江で、無資格で教師をしていたのだという。
一方、銀二郎は松野という「家」に戻ることはかたくなに拒み、トキは彼を松江に連れ帰ることができなかった。
だが、それから約3年を経て、トキは錦織と再会する。
■自由奔放なレフカダ・ヘブン
第5週「ワタシ、ヘブン。
「異人がくる」というので、多くの人が物見遊山で出迎えに訪れ、そのなかにトキや友人のサワ(円井わん)らもいた。まだヘブンが到着する前、トキが確認したのが、通訳を務める錦織の姿だった。
しかし、ヘブンは好奇心旺盛で、初対面の錦織は制御できない。対岸の天国遊廓から聴こえてくる音に夢中になり、錦織になんの音か尋ね、三味線の音と知ると、「オー、シャミセン!」といって遊廓のほうに走っていってしまった。歓迎式典があるので、錦織はなんとか連れ戻したいが、ヘブンは路地の奥までどんどん進んだ挙句、松江大橋に近い花田旅館を気に入り、そこに滞在すると勝手に決めてしまった。
錦織は江藤知事からも、ヘブンを松江に留め、英語教育に従事させるように再三指示されているが、ヘブンはその後も不可解な行動をとる。錦織は戸惑うが、どうやらヘブンは、慣れない松江に戸惑っていたようだ。次第に2人のあいだには信頼関係が醸成されていく。
■ハーンにとって最大の理解者
錦織のモデルになった人物は西田千太郎という。文久2年(1862)に松江藩士の長男に生まれ、セツの6歳年長で、レフカダ・ヘブンのモデルのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)より12歳若かった。
名立たる秀才で「大磐石」の異名をもち、松江中学校は退学しなければならなかったが、よほど優秀だったのだろう。退学後に同校の授業助手を任されている。その後、東京に遊学し、文部省の中等教員検定試験に合格。姫路や香川で教えたのちにまた東京に行くが、地元に請われて明治21年(1888)、島根県尋常中学校の教頭として迎えられた。その2年後、同校の英語教師にハーンを迎え入れている。
ちなみに、東京でトキが錦織に出会ったというのはフィクションである。モデルになったセツの夫の為二が出奔した先は大阪で、セツが為二を説得するために赴いたのは大阪だった。
さて、島根県尋常中学校と師範学校で英語教師の職を得たハーンにとって、松江は見知らぬ町で、誰一人として知り合いはいなかった。そこで最初に意気投合したのが、教頭で英語教師の西田だった。当時のハーンの周囲では、英語でコミュニケーションをとれる唯一の人間で、以来、連日のように行動をともにし、友情を深めていった。
しかし、西田はすでに結核を患っており、吐血することもあったという。
■仲人にして通訳
ハーンは松江に着いて2週間後には出雲大社を訪ね、西洋人としてはじめて本殿への昇殿を許されている。
セツがハーンの世話係になったのも、西田の仲介によるものだった。セツの回想を、ハーンのアシスタントだった三成重敬がまとめた『思ひ出の記』には、セツがハーンから聞かされた西田評が記されている。「利口と、親切と、よく事を知る、少しの卑怯者の心ありません。私の悪い事、皆いってくれます。本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」。
セツ自身も、当初はハーンとの意思の疎通がはかれず、西田の力を借りていた。たとえばハーンは、献身的に働くセツの荒れた手をさすって、「あなたは貞実な人です。この手その証拠です」と英語で語り(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店)、それを西田がセツに伝えたという。
明治24年(1891)7月、セツがハーンと事実上の結婚をして最初の夏、ハーンは西田と一緒にふたたび出雲大社に参詣し、毎日、日本海で海水浴に興じた。そこに遅れてセツも合流。「この旅の折、八雲は『君が代』を教わり、3人でよく歌ったそうです。
■西田の日記からわかる小泉夫妻の足取り
その翌月、セツとハーンは鳥取に事実上の新婚旅行に出かけ、八橋(鳥取県琴浦町)という地に逗留。青い海を含めて、そこがよほど気に入ったハーンは、その感動を書簡にして西田に伝えている。
ところで、セツとハーンは松江のイメージが強いが、2人が松江で暮らした期間は1年3カ月ほど(443日)にすぎない。『セツと八雲』によれば、その間の222日ほどは、彼らの足取りがわかるという。ハーンと西田が日常的に手紙を交わしていたうえに、西田が日記を克明につけていたからである。
明治24年(1891)11月、ハーンは熊本の第五高等中学校に赴任する。そこでハーンがなにを考えていたのかも、西田への書簡によってわかる。日本古来の佇まいが好きなハーンにとって、西南戦争で旧城下町が焼けてしまった熊本の景観は醜く見えたようで、「これまで日本で住んでいた一番興味のない都市」とまで、西田に書き送っている。
また、その年末の帝国議会で、第五高等中学校を含む高等中学校の廃止が議決されたときは(結局、廃止は取りやめになったが)、「政府のために働くのは流砂の上に建物を建てるようなものだ」と書いている。セツとの絆は深まっても、英語ができないセツに伝え尽くせない愚痴は、西田に伝えるしかなかったのだろう。
■妻と1女3男を残してこの世を去った
その後、ハーンは神戸を経て東京に移る。
では、どのくらい東京が嫌なのか。「家賃がただで10年間東京に住むより、1カ月大阪に住みたい」というのがハーンの本音で、それを手紙で伝えた相手は西田だった。
しかし、「お気の毒な事にはこの方はご病身で始終苦しんでいらっしゃいました」と、セツの『思ひ出の記』にはある。「あのような善い人です、あのような病気参ります。ですから世界むごいです。なぜ悪き人の悪き病気参りません」というハーンの言葉も、そこには記されている。
セツとハーンは東京に移る直前、長男で2歳の一雄を連れて出雲に帰省し、久しぶりに西田に会っている。しかし、このときすでに西田の結核は進んでいた。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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