中東・ガザ地区では現在も紛争が続いている。諍いはなぜ始まり、なぜ終わらないのか。
ジャーナリストの池上彰さんは「第1次世界大戦においてイギリスがユダヤ人にもアラブ人にもいい顔をしたのがすべてのはじまりだ」という――。
※本稿は、池上彰『知らないと恥をかく世界の大問題 学べる図解版 新版 池上彰が読む「イスラム」世界』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■イギリスがオスマン帝国のアラブ人に「国をつくる」と約束
現在につながる中東問題の種を撒いたのは、イギリスです。
それは第2次世界大戦よりもっと前、第1次世界大戦に遡ります。20世紀は「石油の世紀」ともいわれます。20世紀になり、イギリスは、オスマン帝国を追い込み、中東を自らの勢力圏に取り込もうとしていました。
第1次世界大戦でオスマン帝国と戦っていたイギリスは、オスマン帝国支配下にあったアラブ人たちに反乱を起こさせようと、1915年、「フサイン・マクマホン書簡」を取り交わします。「もし、オスマン帝国の中のアラブ人が反乱を起こしてオスマン帝国を倒したら、イギリスはここにアラブ人たちの国をつくることを約束する」という内容です。
メッカを守っていたハーシム家のフサインと、イギリスのエジプト高等弁務官だったマクマホンが書簡の形で交わしました。
■フランス・ロシアとも領地の山分けを提案
その一方でその翌年の1916年、イギリスはフランスおよびロシアとの間で「サイクス・ピコ協定」という秘密協定を結びます。「戦争に勝ったら、旧オスマン帝国領の中東地域をイギリス、フランス、ロシアで分割しよう」という密約です。イギリスの政治家で中東専門家としても知られたマーク・サイクスと、フランスの法律家で外交官だったジョルジョ・ピコが原案をつくりました。

密約だったのに、なぜバレたのか。サイクス・ピコ協定が結ばれた翌年、1917年にロシア革命が起きたからです。革命を起こしたレーニンが、「なんと、ロシア帝国はイギリスとの間で秘密協定を結んで、中東地域を分割しようとしているぞ」と暴露したのです。
ロシアとしては、「こうした帝国主義的な取り組みには参加できない」と、協定から離脱したため、イギリスとフランス2国間の協定となります。
その取り決め通り、現在のイラクやクウェート、あるいはパレスチナのあたりはイギリスのものとなり、シリアやレバノンのあたりはフランスが領有することになりました。第1次世界大戦後、中東はイギリスとフランスが分割支配することになったのです。
■ユダヤ人にもいい顔をした「三枚舌外交」
ところが、イギリスはフランス、ロシアとサイクス・ピコ協定でアラブ地域の分割を密約した翌年の1917年、オスマン帝国と戦争を続けるためにはお金がかかるので、ユダヤ人に出してもらおうと考えます。そこで「ユダヤ人のナショナルホーム建設を認める」という「バルフォア宣言」を出しました。
イギリスは、ユダヤ人の「シオニズム運動」(19世紀末にヨーロッパのユダヤ人の中に高まった「ユダヤ人国家建設運動」)を支持するというもので、イギリスの外務大臣バルフォアが、ロンドンのユダヤ系財閥のロスチャイルドへ書簡を送っています。イギリスは矛盾する約束を同時にしていたのです。これが悪名高い、イギリスの「三枚舌外交」と呼ばれるものです。
ロスチャイルドはこのバルフォア宣言を信じてイギリスに莫大な戦費を送り、イギリス軍の下にユダヤ人部隊まで置きました。
同時に、「世界中のユダヤ人たちよ、嘆きの壁に来たれ」とアピール。これをきっかけに、ユダヤ人がパレスチナの地に移り住むようになります。イギリスが、ユダヤ人にもアラブ人にもいい顔をしたことが、その後の混乱を招く元凶となったのです。
■第1次世界大戦後から、パレスチナの地にユダヤ人が増加
第1次世界大戦は、連合国の勝利という結果で終結、オスマン帝国は崩壊しました。イギリスはパレスチナを委任統治とし、ここにユダヤ人の入植が始まります。以降、アラブ人のユダヤ人に対する抵抗運動が始まり、ユダヤ人とアラブ人の土地をめぐる対立に発展していくのです。
当時のパレスチナは、アラブ人の大金持ちが大土地所有者になっていて、不在地主が非常に広い土地を維持していました。ヨーロッパにいた金持ちのユダヤ人たちはパレスチナにやってきて、不在地主から土地を買い取っていきます。そして、住んでいたアラブ人たちに対し、「ここは自分たちが買い取った土地だから、お前たちは出て行け」と、追い出すかたちで、パレスチナの地にユダヤ人が所有する土地が少しずつ増えていきました。
つまり最初の段階では、ユダヤ人はアラブ人から土地を買うことで自分たちの土地にしていったのです。
■自分の土地を持ちたいユダヤ人と、不満を募らせるアラブ人
ヨーロッパのユダヤ人は、中世からずっと差別を受けて土地の所有が認められませんでしたから、自分たちの土地を持ちたいという強い思いがありました。かつて自分たちの王国のあったところへやってきて、アラブ人の不在地主から土地を買い取り、定住して農業を始めます。

パレスチナ地方というのはほとんどが砂漠で、アラブ人たちが細々と農業をしていました。そこへヨーロッパから移り住んできたユダヤ人たちがヨーロッパ流の近代的な農業を導入し、緑の土地に変えていったのです。
パレスチナの地に住んでいたアラブ人たちはその頃、ユダヤ人のような「国民国家」の意識はありませんでした。自分たちは、あくまで「アラブ社会に属している」という考えで、パレスチナが、シリアやレバノンとは違う国という感覚はなかったのです。
アラブ人の土地だけれど、「国家をつくろう」なんて思いはない。そこへユダヤ人がやってきて国をつくろうとする。次々と自分たちの土地を広げ、戦略的にユダヤ人国家を建設していくのを見て、アラブ人たちは当然ながら不満を募らせていきました。
■イギリスはついに国連に丸投げした
その一方で、やがてユダヤ人たちはイギリスの植民地からも独立しなければと考えるようになります。
1945年、第2次世界大戦が終わってもパレスチナのあたりはイギリスの委任統治領のままでした。委任統治領とは、いわば植民地です。イギリスから独立したいと、ユダヤ人の過激派テロ組織が生まれ、イギリスに対するテロを始めるようになります。
有名なのが、「キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件」です。
1946年7月22日、イギリス軍の司令部があったキング・デイヴィッド・ホテルにユダヤ人武装組織が爆弾テロを仕掛けます。ホテルなので当然、大勢の一般客も泊まっており、大変な被害を出しました。
イギリスは、パレスチナを占領しているとどんどん犠牲が増えると判断し、パレスチナ統治をあきらめ、その後パレスチナをどうするかを国連に丸投げするのです。
パレスチナを丸投げされた国連がこの地を分割する案をつくります。1948年5月14日、パレスチナの地にユダヤ人国家「イスラエル」の建国が宣言されます。ここからアラブ人とユダヤ人の対立がさらに激化していくのです。

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池上 彰(いけがみ・あきら)

ジャーナリスト

1950年長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、NHK入局。報道記者として事件、災害、教育問題を担当し、94年から「週刊こどもニュース」で活躍。2005年からフリーになり、テレビ出演や書籍執筆など幅広く活躍。現在、名城大学教授・東京科学大学特命教授など。6大学で教える。
池上彰のやさしい経済学』『池上彰の18歳からの教養講座』『これが日本の正体! 池上彰への42の質問』『新聞は考える武器になる  池上流新聞の読み方』『池上彰のこれからの小学生に必要な教養』など著書多数。

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(ジャーナリスト 池上 彰)
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