■松平定信が「辞職願」を出した真意
いまも昔も政治家は「改革」を旗印にしたがるが、政治家が思いつきで実行する改革のために、人々はどれだけ振り回されてきたことだろうか。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でもこのところ、松平定信(井上祐貴)が推し進める寛政の改革に、武士も町人も翻弄される模様が描かれている。
文武を奨励し、倹約を無理強いし、風紀を厳しく取り締まる定信に対しては、以前は反田沼の同志だった老中格の本多忠籌(矢島健一)や老中の松平信明(福山翔大)も、もはや我慢がならない。やはり定信をうっとうしく思いはじめていた一橋治済(生田斗真)と結びつき、反定信のグループを形成しつつあった。
第41回「歌麿筆美人大首絵」(10月26日放送)では、定信は芝居にも打って出た。将軍家斉(城桧吏)に嫡男が生まれて駆けつけた定信は、家斉と実父の一橋治済に「祝い」を渡したが、それは、将軍補佐役のほか、財政を握る勝手掛、大奥を管理する奥勤めの辞職願だった。
それを聞いた家斉が、うれしそうな表情を浮かべたのが示唆的だった。ただ、このときは尾張藩主の徳川宗睦(榎木孝明)が、定信との打ち合わせのとおりに異議をはさみ、定信は将軍補佐役にも勝手掛にも留まることになった。「辞職願」は、自分の地位をあらためて認めさせるために打った芝居だったのだ。しかし、それは定信の最後のあがきだった。
■“独裁者”の命運を左右する2つの案件
第42回「招かれざる客」(11月2日放送)では、この先の定信の命運を左右する2つの案件が描かれた。
ほかの老中からは、オロシャとの通商をはじめてもいいのではないか、という声も出されたが、定信の回答は次のようなものだった。「オロシャの船を江戸に入れるなど断じてならぬ! 口車に乗せられ、江戸に招き入れたところで、大筒をぶっ放さぬともかぎらぬではないか!」。だが、対外的な脅威が増したという認識においては、ほかの老中とも共通していた。
もう1つは朝廷との案件だった。光格天皇が父親で天皇になったことがない閑院宮典仁親王に、退位した天皇の尊称である「太上天皇(上皇)」の号を贈ると決めた、という知らせがもたらされ、すでにそれを拒んでいた定信が激怒したのである。本当に尊号を贈るのなら、朝廷への金銭援助を打ち切り、関わった公卿らを処罰するとまでいい出した。
ここまで「べらぼう」の筋を追ったが、それは定信をめぐる一連の流れにおいて、ドラマの筋立てと史実の展開が概ね軌を一にしているからである。実際、定信は、家斉に嫡男が生まれた時点で辞職願を出して慰留させ、自分の地位の足固めをしている。また、閑院宮への尊号宣下問題に激怒し、議奏(天皇の命令を公卿以下に伝える役)の中山愛親と、前出の正親町公明を江戸に呼び出し、厳しく尋問したうえで両名を解任している。
■庶民からの改革への強い反感
こうして公卿たちに厳しく対峙したのが寛永5年(1793)2月で、それから5カ月後の同年7月22日、36歳の定信に、将軍補佐と老中をともに解任するという家斉の内意が伝えられた。「べらぼう」第43回「裏切りの恋歌」(11月9日放送)でも、それが描かれる。
この5カ月のあいだ、定信の改革への反感は、各方面でさらに強まっていた。ロシアなどの異国船のたび重なる来航に強硬姿勢を示すと同時に、これを武士に武芸を習得させる好機と考え、さらに文武を奨励。そのうえ海防のために一定数の武士たちを、房総などに配備しようとし、武士たちは反感を強めていた。また、倹約令や風紀の取り締まりの影響で、寛政5年の正月ごろから不景気が深刻化し、庶民の生活も圧迫されていた。
そんな状況下の7月16日、ロシア使節のラクスマンが日本を離れた。海防上のひとつの危機が去ったことで、定信を廃除する政変を断行する環境が整った。
こうして、定信の将軍補佐および老中の両方の職を解任するという案が、老中の評議にかけられた。それに当たっては、事前に一橋治済の賛同が得られ、御三家の尾張と水戸両家も無理やり同意させられていた。
■一橋治済による解任の理由
翌年、一橋治済が尾張と水戸に伝えた定信の老中在任中の様子が、表向きの解任の理由と思われる。それを高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館)から引用する。
「①近年は、定信の意見に対して異を唱えると不機嫌となり、重用されている者たちのほかは意見を述べないようになった、②彼一人で将軍に召し出されることは時々あるが、将軍に対しては自分以外の老中を一名だけ召し出すことを禁じている、③一両年以来、彼の威光が非常に強まったので、将来将軍は御苦労なさるであろう、④近年は、自分の気に入った者に対してはていねいに、嫌いな者には不愛想に挨拶している、⑤本多に対して、近年は実意のある相談はまったくなく、人事についても、同僚との相談に先立って行ってきた内談を、まったく行わなくなった」
黒幕たる治済に都合がいい解釈も含まれているにせよ、自分自身に権力を集中させた人間が、いまも昔も往々にして陥る独善性がよく描かれている。
また、水戸徳川家文書『文公御筆類』には、定信解任に関する興味深い記述が多い。
「『一七九三(寛政五)年七月十九日、松平定信はかねてより将軍補佐の任を辞したいと表明していたが、願いは差し止めになっていた』とあり、定信は、兼任していた将軍補佐の職のみを辞めたいと何度も治済に辞職願いを出していたのだが、治済は棚上げにして、老中職を辞めさせる機会をねらっていたのである」
■将軍も将軍の父も天皇も敵に回した
「べらぼう」の第43回でも、定信は将軍補佐を辞退し、大老に昇格することをねらって外されるように描かれるようだが、実際、定信が自分の地位の地固めのためにたびたび出した辞職願が逆手にとられ、老中まで解任されてしまったのだ。
次の記述も引用しておく。
「定信が罷免されたのは、政治上のことというのは二の次で、実は、将軍との関係が悪化し、定信を疎んじて、避けようとしているのではないでしょうか。結果として治済様が定信を疎んじ、遠ざけようとしているのであり、これまで固く結束していた定信と各老中との関係、なかでも本多忠籌との関係の悪化が発端ではなかったのでしょうか」
治済は具体的な「被害」にも遭っていた。将軍家斉は父の治済に「大御所」の尊号をあたえようとし、治済もその号がほしかったが、前将軍のための「大御所」の号が、将軍未経験者に贈られたことはない。このため定信は、前例がないことを理由に却下していた。
この件は光格天皇が父親で天皇の未経験者である閑院宮に「太上天皇」の尊号を贈ろうとし、却下された件と構図が一緒である。ことの善し悪しはともかく、両者の要求に厳しく向き合いすぎて、将軍とその父、および朝廷をも敵に回してしまったのは、定信にとって痛恨だった。
■失脚後の姿は田沼とまったく違う
ただし、失脚といっても、そこは8代将軍吉宗の孫。すべてを奪われた田沼意次とは雲泥の差だった。将軍補佐と老中の解任も、定信の願いが受け入れられたという体裁がとられたうえ、「溜詰」として引き続き、政務にもそれなりに参画できた。
「溜詰」とは、江戸城本丸御殿黒書院にあり、将軍の居室に近い溜間に席をあたえられた大名のことで、老中らが執務する御用部屋に入って、政治上の重要事項に参画することもできた。
この溜詰についても白河松平家が「飛溜」、すなわち一代にかぎってだがずっと溜詰として処遇される立場になり、また、定信は左近衛権少将に昇進。頻繁に将軍に拝謁する権利もあたえられた。だから、三奉行や目付らへのあいさつでも「就任後3年目から辞任を願い出ては慰留されてきたが、このたびは辞任が叶ってありがたい」などと、見栄を張ることができた。
そして、尾張と水戸の両家、なかでも水戸家を後ろ盾にして、御用部屋に出入りできることを足がかりに、ふたたび幕政に大きく関与しようとした。だが、それには老中たちもさすがに抵抗を示し、フェイドアウトしていく。寛政8年(1796)には、尾張と水戸の両家が定信を、家斉の後継ぎの敏次郎(のちの将軍家慶)の教育係に推薦しようとしたが、実現していない。
高澤憲治氏は前掲書に「定信について、格別の秀才であるものの、惜しむべきは狭量であるために、人と物を使いこなせないばかりか、諸事の深い極意を見極められなかったことである」と書く。的を射た表現だと思う。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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