※本稿は、黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
■大河ドラマ監修のため秀長の生涯をまとめた
羽柴秀長についてはよく、秀長が生きていたら豊臣政権の滅亡はなかったのではないか、といわれることがある。2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の時代考証をするにあたって『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(平凡社新書)を執筆してみると、その見立てはあながち間違っていない、という感を強くした。秀長が果たした役割を認識すると、むしろその死後に、それらの役割を誰がどのようなかたちで引き継いでいったのか、ということがみえてくる。そうするとその後の政権の変容の在り方がみえてくるようになる。
秀長は、秀吉の軍事行動において、常にといっていいほど、別編成軍の大将を務めた。秀長生前でその役割を務めたのは秀長の他には、秀長に次ぐ一門衆の立場にあった甥の秀次しかみられていないうえ、その頻度と重要性は、秀長が圧倒的であった。しかもそこでは、秀吉から細かな報告を求められ、それをもとに秀吉から指示が出されていて、秀長はそれらの指示を実行していた。
秀長はそれを見事に実現したのであったが、それは秀長にそれだけの能力があったからといえる。もし秀長にそこまでの能力がなかったなら、秀吉の「天下人」化と続く「天下一統」達成が、あれほど順調に進んだかどうかは、わからなくなってくる。
■大名たちを束ね、秀吉にも率直に意見した
また政権は、諸国の大大名を統合する性格にあったが、秀長はそれら大大名のほとんどに対して、政治的・軍事的に指導する「指南」を務めていた。秀長はほぼ一人で、ほとんどの大大名を政権に繫ぎ止める役割を果たしていた。
それだけでなく、秀長は、秀吉が不快に思うような案件についても、意見できていた。秀吉の有力側近奉行には、のちに五奉行となる増田長盛・石田三成らがいたが、彼らはあくまでも秀吉の側近家臣として、秀吉の命令を遂行する役割にあり、秀吉の考えなどを変えられるような立場にはなかった。このことは従来考えられていた、政権において秀長や徳川家康・前田利家らの「分権派」と増田・石田らの「集権派」の対立が存在していたなどの見方が、根本的に成立しないことを示している。
さらに秀吉の裁決をうけるにあたっては、側近奉行において意見統一が必要で、それができていない場合、秀吉の裁決は出されず、そうした際に、奉行たちの調整役となっていたのが秀長であった。秀長は、秀吉に意見でき、奉行たちを調整できた、ほぼ唯一の存在であったことがみえてきた。
こうみてくると、秀吉の「天下人」化、その後の「天下一統」の達成は、秀長がいたからこそ可能であった、と思わざるをえない。だからこそ秀長が死去した後、政権の人的構成やそこでの役割分担の在り方は、大きく変動せざるをえなかったに違いない。そしてそれこそが、以後の政権の在り方を大きく規定したに違いない。まだ見通しでしかないが、そのなかで役割を大きくされたのが、徳川家康・前田利家・浅野長吉や、あるいは奉行たちであったように思われる。
■秀長は秀吉が関白になった後、52歳で死去
天正19年(1592)、秀長は最後の文書を出してから12日後の1月22日、52歳で死去した(『言経卿記』)。死去をうけて興福寺の多聞院英俊は、「米銭金銀充満し、盛者必衰の金口疑い無し」と評して、盛者は必ず滅亡するという立派な意見(「金口」)の通りだ、と回想している。古代以来の寺社からすると、秀長はしょせん成り上がりの権力者としかみられていなかったことがうかがわれる。
しかし、その一方で、2年後に奈良の町人衆からは、「秀長(大光院様)」の時代は何事にも御慈悲をかけられていた」と回想されているので、秀長の領国統治は、領民から高く評価されていたことがうかがわれる。
■葬礼の手向けの言葉から秀長の人柄を推量
秀長の人柄について触れておくことにしたい。素材とするのは、秀長の死後に催された法事にあたって作成された仏事香語である。故人を偲んで作成されるものであり、またとくに権力者に対しては美辞麗句で飾られる傾向がある。しかし誰に対しても同じような表現がされているわけではなく、人により内容は異なっているので、誇張された表現がみられているだろうとはいえ、その人物の特徴をとらえたものとみることができ、十分に参考にできると考えられる。
秀長の葬礼で引導の導師を務めた古渓宗陳和尚が作成した引導法語の「秉炬(ひんこ)」が残されている。そこには「徳は文武を兼ね」と、文武両道の武将であったこと、「道は君臣合す」と、家臣との関係が良好であったこと、「河帯山礪(かたいさんれい)、豊氏の家を興す」と、豊臣氏の忠臣として信任が厚く、豊臣氏を興したこと、「六十余州の英宰を甲す」と、日本国の平定を果たしたこと、「威(い)ありて猛(たけ)からず、靄然(あいぜん)して仁有(じんあ)り」と、権威がありながらも威張らず、穏やかで思いやりがあったこと、「陶朱(とうしゅ)・倚頓(いとん)の富を咲倒す」と、古代中国の蓄財家の陶朱・倚頓の二人より財産を蓄えたこと、などがみえている。
■「金銀」を蓄えていたことでも有名
これだけでも秀長の人柄を十分にうかがうことができるだろう。文武両道の名将で、秀吉に忠義を尽くし、秀吉から厚い信任をうけて、秀吉の「天下一統」に貢献し、また莫大な財産を蓄え、そして威張らず、穏やかで思いやりのあった人物だった、という。秀長の蓄財ぶりは、多聞院英俊も特記したほどであったから、世間では周知のことだったのだろう。秀吉から厚く信頼されていたというのも、これまでの秀長の動向をみてきたうえでは、極めて納得される内容だろう。そして何よりも、人柄が非常によかったとされていることが印象に残る。
秀長の追善供養は、家督を継いだ秀保だけでなく、「指南」をうけた外様大大名によっても催されている。秀保による法要としては、文禄元年(1592)1月22日の一周期法要と、同2年1月22日の三周忌法要が確認されている。外様大大名による法要としては、長宗我部元親が天正19年2月11日に四九日法要をおこない、毛利輝元が同年閏1月22日に月忌(月命日)法要をおこなっている。それらの仏事香語はすべて古渓宗陳によって作成されている。
■豊臣家を滅ぼした徳川家康との関係
それ以外にも、徳川家康が、天正19年2月22日に月忌法要を、同年秋に一周忌法要を繰り上げておこなっている。その仏事香語は、大徳寺の太素宗謁和尚によって作成されている。
ここから徳川家康・毛利輝元・長宗我部元親という、秀長の「指南」をうけていた大大名が、四九日法要・月忌法要・一周忌法要などをおこなっていたことが知られる。こうした「指南」をうけていた大名が、「指南」の追善供養をおこなっている事例は珍しい。そのことはすなわち、生前において、秀長とそれら大大名たちとの関係が、親密でかつ良好なものであったことを示しているだろう。「威ありて猛からず、靄然して仁有り」という古渓宗陳の評は、秀長の人柄をよくとらえた表現といえるだろう。
----------
黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
----------
(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
